入り江

十戸

入り江

 指先はとうてい近寄ることはなかった。少なくとも、その日、その年、その刻限、兆しのような道を踏み越えるそのときまでは。

 このみぎわに触れるものの一切は砕け散りながら離散した、思い出を知らないままに骨は転がり落ちていく、ただ満たされていくばかりの青黒の風景のなかにも一筋の絢爛は迫りながらほほえみ、そうして無限の天蓋が君臨する。彼はため息する。魚は散らばる、無論のこと鮫たちも。そこに泳ぎ回る苦しみは誰のものか? 選られはしないままに波が過ぎていくことの呵責なさ、躊躇ためらいなさ、差し入れられる腕の鋭さ……その白い頬に流れる冷たさを、ようやく私が知覚する、記しながら解けていく夢と幻、この無音の泥のなかへも恐らくは眠り続ける石と石の亡骸を彼は掬い上げる。そうしていると私は信ずる。

 きみは知っているか? 覚えているか。私が何一つ約されない花束をきみになげうち、こうして揺籃のさなかへ立ち入ることを。

 できればそう、私は花を投げよう。あの日訪れはしなかったあの入り江へと。

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入り江 十戸 @dixporte

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