第8話 紙の質と本の仕上がり、そして出版革命の行方

 さて、何はともあれ出版にこぎつけ、アマゾンの商品ページにも掲載され、やがて発売日がやってきました。

 発売日がやって来るとともに、早速印刷され、そのうち、やってきます。

 最初の詩集が来たときは、自宅受取にしていました。土曜日到着、それも夕方に投函されました。丁度、オトナプリキュア第1話が放映されていたときでした。

 それからは、自宅ポストよりも動いている最中に来ることも考慮して、ある街中のコンビニに受取場所を変更しました。これで、番号をサイトから拾って店の端末に打込めば、晴れて受取れるというわけです。


 さて、そうしてやってきた本ってどんな状態か。

 それについて少し説明しておきましょう。


 登録段階で、表紙は光沢ありかなしかが選べます。基本カラー写真も入れられ、色も付けられます。光沢はあればあったでいいし、なければそれなりに落ち着いた雰囲気を感じさせてくれます。これは写真があるなしを問いません。

 そうですね、詩集や短歌集みたいなものは、ないほうがいいでしょう。

 写真集であれば、光沢はあった方がいいかなという気もします。

 あくまでこれは私の感想ですので、一般化はできません。

 どうぞ、お好きな方をお選びあれ。


 次に、本の中身はどうか。

 カラー写真入りにもできますが、なしにもできます。カラー頁がないと、印刷費がその分安くなります。なお、PDF段階でカラーがあっても、カラーなし設定にすれば白黒写真として認識してくれます。

 私の場合は、白黒にする場合、あえて写真を掲載する段階で白黒処理をしてワードに貼付しております。これはご参考までに。

 白黒だけで本にする限り、紙の色は白でもクリームでも構いません。

 私の感触では、クリーム色のほうが全体的に落ち着いて見えますね。

 なお写真なしでも、白のほうが、全体として華やかな印象を受けます。


 さて、カラー写真を本文に入れたらどうか?

 それについては、実は昨日受取った新作の詩集「大きな詩集4」で、カラー写真を入れてみました。カラーを入れた場合、本文はクリームが使えず白だけになるのですが、来た現物を見て、納得しました。

 カラー頁が1頁でも入る場合、本文は白の紙の質がカラーを入れられるような、光沢の入った紙になるのです。その該当ページだけでなく、全体が、ね。

 カラー写真ですが、本にしても十分な出来栄えになっています。

 まあ、写真そのものの出来のほうは私のような素人の写真ですので、その出来具合を問われるとちょっと、というところで、そこはつつかんといて下さいませ。


 実際この自己出版システムは、写真集も発行できるだけの体制になっておりますけれども、今回来た詩集のカラー写真を見る限り、それも十分可能だなと見受けられました。

 もっときれいな印刷をという人は、どうぞ自費出版でも商業出版でも、なんなり目指してくださいというしかないですが、それはまた別の話。


 これまで表紙と本文のことを述べて参りましたが、肝心かなめの本のつくりはどうなのかということになりますね。

 アマゾンはアメリカの会社でして、あちらでは「ペーパーバック(ソフトカバーともいう)」という形態の本が多く印刷・出版されていますね。そのペーパーバック形式の作りです。

 日本ではそういう形式の出版にはあまりなじみがないかもしれませんね。書店に並ぶ本はどれも上製本。表紙カバーもあり、本によっては帯も付けられている。しかもきれいなカラー写真入り。確かに、いい「作り」の本です。

 そのような本に慣れ親しんでいる人には、アメリカなどのペーパーバック書籍になじみがない分、いささか違和感を持たれれるかもしれません。

 ひょっと大手書店などに行かれている人にしてみれば、ああ、あの洋書コーナーにたくさん置かれている横文字の本のことかとお気づきの方もおられましょうが、そうです、その作りの本なのです。

 カラー写真を表紙に入れても、また実際手に取って読んでみても、上製本に比べれば確かに少し物足りなさを感じるかもしれません。

 とはいえ、本というものはそういう作りで買うものではなく、内容で買うものであるということを鑑みれば、このようなペーパーバック形式でもいいのではないかと思われます。少なくとも、私は。


 ある意味、アメリカのペーパーバック文化がいよいよこの自己出版という形態を広めていく上で、アマゾン社を通して日本に上陸したのであるという解釈もできるのではないでしょうか。

 かつてワープロが登場した時、文章の書き方はそれまでの手書きの時代と比べ劇的に変化しました。経済学者の野口悠紀雄氏は、ワープロの登場を「革命」であるとさえ述べておられました。

 今回の自己出版という形態が登場しなおかつ市民権を得つつあるのも、ある意味もなにも、出版形態に「革命」が起きていると言えるのではないか。

 そういうことを念頭にいろいろ考えてみれば、この半世紀弱の間に、まずは多量に印刷して配布・販売する文書の書き方が、手書きからワープロという道具に代わり、そこで文書作成に革命が起きた。それによって、本来は「活字にする」という言葉が公開するという意味さえ持ち得ていたのが、今やどこでも「活字」あるのみという状態になってしまいましたね。

 これはある意味、活字の大衆化と言えましょう。


 革命は、そこにとどまることはありませんでした。

 これまで、出版社を通して、商業出版であれ自費出版であれ、まあ、後者は出版社を通さなくても印刷会社を通すだけでもできていましたが、それでようやく手書き文字が活字になって、さらに本になって本屋に出回っていくというパターンが、少なくとも昭和末期頃までは取られていました。

 まず手書きの過程を省略されることにより、さらに文書作成の速度が格段に向上した。これは確かに革命的なことであった。

 しかし、それはあくまでもこれまでの手書きで作られていたものを活字に代えただけであり、出版に至るところはそれまで通りであった。

 今日日、気の利いた出版社は手書き原稿など送ろうものなら問答無用でアウトにすると明言しているほどに、ワープロという機能は定着しました。かつての専用機は廃れパソコン上のソフトにとって代わりました。もっともそこはさほどの問題ではない。ただ、パソコンが出現した時点でそれまでの紙媒体にする必然性が大幅に減少したというのはありましょう。

 わざわざ郵便で原稿を送る必要もない。電子メールにひょいと添付してボタンをクリックしただけで十分。届かなければまた送ればいい。郵便の事故で云々などということを考える必要などまったくない。


 この流れは、出版不況とか従来の本屋=書店が苦戦する原因にもなっている。

 それでは出版という事業が不要になっているのかというと、そんなことはないわけです。数は少なくても買ってくれる人がいれば、出したいものがあれば、無駄な費用をかけずに手軽に出版物を発行でき、そして消費者がそれを買っていく。 

 ネット上での作業ですが、それで十分。

 かつて書店に出向いて気に入った本を選んでいたような行動をしていた人も、今ではネット上でそれをやっている。その気になればある程度立読み的に内容を確認できる機能さえある。


 アカデミー賞作品「炎のランナー」の舞台となったパリ五輪から100年。

 そのちょうど100年後の同時期にまた、パリで五輪が開催されます。

 その100年の後半だけで、当時の世の中とは格段に変わってしまいました。

 文字を書くことについても、そして、本を出版するということについても、そのことは明白です。


 ちょっと話が大きな方向に行きすぎましたが、次回は自己出版の周辺事情、特に私の周辺の事象について、さらにお話してまいります。

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