あなたを助けるから
夢魔満那子
『あなたを助けるから』
「俺、バイト受かった」
莉花(りか)に面接の結果を話したのは、夕食の時だった。
「…………え」
彼女は目を見開いたまま、掴んでいたアスパラガスを箸から落とすとそのまま固まってしまった。
驚きこそすれ、いつものように「頑張ったじゃん」という言葉がすぐ返ってくると思っていたから、このリアクションは予想外だった。
「この前、莉花が持ってきたチラシにさ。求人が載ってたんだ。ほら二駅、隣のコンビニの」
「…………」
「ほら、このままじゃいけないと思ってさ。お前にも内緒で申し込んだんだけど……」
俺は気恥ずかしさを胸に抱きながら話し続けたが、彼女は終始固まったまま反応が無かった。
「えっと、莉花さん?」
「……ああ、ごめん。びっくりしちゃった。おめでとう、晴翔(はると)!」
物凄い満面の笑みだったので、俺は思わず目を逸らしてしまった。
頰が熱くなるのを感じながら、「お、おう。ありがとう」と何とか応えた。
「そっかー社会復帰かー。明日はお祝いしなくちゃね」と、莉花は一人で盛り上がり始めていた。
「そんな、ただ、バイトに受かっただけだぞ」
「ううん。凄いよ。まさか、一人でそこまで頑張ってたなんて」
「それは……」
「お前に迷惑ばかりかけていられないからな」と心の中で呟いた。口にするのは気恥ずかしかった。
「……いつから出勤するの?」
「明々後日から。確か研修を兼ねた2週間の試用期間のあと、本採用だったかな」
「へぇ……」
言いながら、莉花は俺を見ながらニヤニヤしていた。
こんなに喜んでくれるなら、俺はまだ頑張れる。
「……まぁ、そういう訳なんでよろしく。あっ、そうだ。日によっては夕食いらないかも」
「そうなの?」
「まだ決まってないけど、夜シフトに入ったら、な」
「うん。わかった。その時は連絡してよね」
「わかってるよ」
俺のバイトの話はここで終わった。
その後は、莉花の話を聞きながら夕食を摂った。
仕事の愚痴や大学時代の友人が海外旅行に行っている話とか。いつも通り、他愛のない内容だった。
「……ねぇ、晴翔」
夕食を終え、食器を片付けようとキッチンへ向かっている途中で彼女に呼び止められた。
「なに?」
振り返ると、彼女は真っ直ぐな瞳で俺を見ていた。
「私、これからもあなたを助けるから」
「………」
“あなたを助ける”、か。
確か、あの時も同じ事を言っていたな。
俺は思わず笑ってから「ありがとう莉花」と伝えた。
***
二年前。大学を卒業した俺は、東京の企業にSEとして雇われた。
定時は朝九時から十八時までだったが、残業は当たり前。終電で帰る日も多々あった。
休日出勤は当たり前で休みも週に二日あればいい方。
それだけなら我慢出来たが、一番肝心とも言える人間関係で躓いてしまっていた。
理由は分からないが、上司には初対面から嫌われており、常日頃、罵声を浴びせられていた。
冷静に考えられる今なら、ブラックな職場だったと分かる。しかし、当時の俺は「辞めると他の人間に迷惑がかかる」という思考に凝り固まっていたのと、「辞めると言い出せば、上司にまた叱られる」という恐怖で退職を言い出せなかった。
上司だけではない。同僚とも上手く会話が出来ず、交友関係も築けなかった。
元々、人付き合いはそこまで得意ではなかった。他人に合わせるのが苦手だった。
学生時代はそれでも何とかなったが、職場は違う。それがダイレクトに響いてしまった形だった。
俺は一年近く働いたが、二年目の夏のある日。
出勤の途中、近所の河原に落ちていた蝉の死体を見つけた俺は「もういいや」と思って、会社に行くのをやめた。
以来、家を出られなくなり、そのまま引きこもるようになった。
職場は程なくしてクビになった。
***
バイトを始めてから一週間。
レジ操作や補充作業の習得に四苦八苦しながらも、何とか通い続けていた。
「いらっしゃいませ——って、莉花!?」
「やっほー。寄っちゃった」
「『寄っちゃった』って、あっ、レジ袋はいりますか?」
「レジ袋はいらないかな。なんか、調子良さそうじゃん」
「ふ、普通だよ。これぐらい」
「そう?」
莉花は俺の顔を覗き込むように上目遣いで見てから、「そうかもね!」とはにかんだ。
「今日、夕飯はどうする?」
「家で食べる。……袋は無しで、三点476円です」
「わかった。じゃあ、晴翔の分も用意しとくね。今日はコロッケだから楽しみにしといて。支払いはクレカで」
「クレジットですね。……夕食楽しみにしてるよ」
「うん。期待してて」
会計を済ませると、莉花は軽い足取りで店を出て行った。
「……ねぇねぇ。晴翔くん」
莉花が帰ってから少し経ってから、店内で作業していた先輩バイトのおばちゃんが声をかけてきた。
「何ですか?」
「今の彼女さん? とっても可愛いじゃない」
「いいえ。違います。幼なじみです」
「またまたー。とっても良い雰囲気だったじゃない」
「本当に。そんなんじゃありませんよ。向こうにとっては、特にそうでしょ」
「そうかしら。おばちゃん分かるわ。あの子、あなたをとても大切に思ってるわよ」
「そう……なんですかね」
「間違いないわよ。晴翔くんはどう思ってるの」
「莉花はとても大事な恩人ですよ」
莉花は小・中・高とずっと一緒の幼なじみで、俺の数少ない友人の一人だった。
別々の大学へ進学して以降、正月に会う以外は交流が無かったが、引きこもってから一ヶ月経った頃に「おばさんに頼まれて見に来た」といきなりやって来た時は、面食らったのを覚えている。
彼女はほとんど毎日のように俺の部屋へやって来た。部屋を掃除して、洗濯もして、料理も作って、何をするにも気力が湧かずギリギリの生活をしていた俺を彼女はずっと支えてくれた。
どうしてそこまでしてくれるのか今でも分からない。
何度か理由を尋ねたが、「秘密」といつも笑って誤魔化されてしまった。
ただ、俺の部屋に押しかけた日、彼女は汚い部屋を掃除しながら「わたし、あなたを助けるから」と言った。静かに、だけど、芯の通った声だった。
あの時の俺は、その言葉を聞いて胸がいっぱいになったのを覚えている。
莉花がいなかったら、俺はきっと今も酷い生活をしていただろう。それがこうしてバイトをしている位まで回復した。
だから、俺は彼女に恩返ししようと思った。ずっと甘えているわけにもいかなかった。
俺がバイトを始めたのはその第一歩だ。「俺も少しは良くなっている」と見せたかったんだ。
そうしたら、ほのかに心の奥底にしまっているこの想いを、心置きなく口に出来るかもしれないから——。
***
試用期間が終わる最後の日。
この日は夜勤シフトだった。
先輩のスタッフが裏で作業している間、俺は一人でレジに立っていた。
午前二時を過ぎた頃。
俺以外に誰もいない店内へ、柄の悪そうな大きい男が入店してきた。
男は売場から缶ビールを手に取るとレジへとやって来た。
男は「煙草」と言いながら、「ダンッ」と大きな音が成る程叩きつけるように缶を置いた。
俺は「どきり」としながら、「銘柄はなんですか?」と尋ねた。
男は一度舌打ちしながら、「マルボロ!」と叫んだ。
「はぁ……はぁ……」
息が上手く出来ないのを感じながら、男の言っていた煙草を手に取りカウンターへと持っていく。
バーコードを読み込みながら、目線はずっと男を見ないようにしていた。
「1054円です」
「……チッ」
震える手でトレーごと現金を受け取って、おつりとレシートを渡す。
会計を終えると男は商品を上着のポケットに突っ込んだ。
俺は心の中で「終わった」と心の中で一息吐いた。
男はこのまま出ていくだろう。最悪な気分だったけど、これでもう関わることはないと安心しきっていた。
だから、「おい」と男が声をかけてきた時は心臓が止まるかと思った。
「お前、俺のこと舐めてんのか?」
「えっ、いや、なに」
「おうめぇ俺ぇのこと舐めてンだぐおぉうら!」
いきなり胸ぐらを掴まれると、そのまま鬼のような形相が目前に迫った。
「聞こえねぇんだよ。ごっぢ見てしゃべれよぉおおおおああああ!?」
突然の事態に理解が追い付かない。何が起きているんだ。
男の言っている意味がわからず、俺は何も口に出来ない。動けない。
その様子が更に癪に障ったのだろう。男はいくつか怒声を幾つか発すると俺を突き放して店の外へ出て行った。
「どうした。大丈夫?」
かなりの騒ぎだったのだろう。裏手から先輩が駆けつけてきたが、俺は蹲るのが精一杯だった。
***
俺はコンビニのバイトを辞めた。
あの男の一件以降、レジに立てなくなってしまった。しまいには店の外装を見るだけで吐くようになってしまったからだ。
他のバイトを探して勤めてみたが、僅かな大声で身が竦んでしまい碌に働けず、結局どこも長続きしなかった。
「……大丈夫だよ。晴翔」
キッチンでジャガイモを切りながら、莉花は言った。
俺が風呂から出ると、彼女は夕飯の準備をしていた。今夜のメニューは肉じゃがのようだ。
「でも、お前がこんなにしてくれるのに……ごめん」
「ううん。気にしないでよ。私だってやりたくてやってるだけだし……ね?」
もう四つバイトを辞めたのに、彼女は怒りもせずに寧ろ俺を励ましてくれた。
「ほらほら元気出す。せっかくお風呂でさっぱりしたんだから、楽しいこと考えよ。もうすぐご飯だし」
「そ……そうか?」
「うん。ご飯を食べれば満腹になって幸せになるさー、って」
「なんだよ。その変な訛り?」
「ドラマの真似?」
「なんでそこで疑問形なんだよ」
自然と笑みが溢れた。
莉花と他愛ない話をしているだけなのに、どうしてこんなにも心が暖かくなるんだろう。
ああ、やっぱり頑張らなきゃ。このまま何も出来ないままなのは、駄目だ。きっと。
「莉花。手伝うよ」
「ビールは呑まないの?」
「後でいいさ。今は早く、一緒にご飯が食べたい」
「それじゃあ、テーブルの上、片付けてくれない?」
「……何かあるのか?」
「うん。友達がお土産くれたんだ」
「お土産って、どこの?」
「ほら、前に話したじゃない。海外旅行に行ってるって」
「ああ」
そういえば、そんな話を以前していたな。
確かに、テーブルの上には綺麗な包みと封筒が置いてあった。
「どこに行ったんだって?」
「イギリスだって」
「ふーん……」
テーブルの所まで行き、封筒を手に取った。
中には現像された写真が入っていて、建物や風景が写っていた。厚さ的に何枚かあるらしい。
俺は軽い気持ちで写真を捲っていく。
「写真、めっちゃ多いな」
「うん。前にYouTubeで見た動画に影響されて、建物を見るのにハマっちゃったんだって」
「へー……友達は一人で行ったんだっけ」
「ううん。彼女さんと行ったんだって」
さっきから同じ女性がポーズを取っている写真が幾つかあったが、そういう訳か。
すると——、この写真を撮っているのが莉花の友人か。
「へー、いいね」
「もしかして、羨ましい?」
「それは……まぁ」
本当に。夕食を待つまでの他愛ない会話だった。
縁も所縁もない
その写真を見るまでは。
「…………は」
その顔には見覚えがあった。
写真の中の男は屈託のない笑顔で、とても人の良い雰囲気を醸し出している。
自分の彼女と一緒にカメラへ向けてピースしており、とても幸せそうに見える。
しかし、どんなに表情が、雰囲気が異なっていたとしても俺は決して見間違えない。
だって、こいつは俺に恐怖を植え付けた——。
「うわあああああああぁああああ!!」
俺の声に反応して、キッチンから莉花が駆けつけた。
「何、どうしたの?」
「そ、そそそそれ……」
俺は震える手で莉花の足下を指差した。
そこには白い紙が一枚落ちていた。たった今、俺が腰を抜かしてしまった時に手から離してしまった写真だ。
「どうしてあの男が写っているんだ」
何がどうなっている。
意味が分からない。
莉花の話だと、写真の女は友人の彼女らしい。
では、その女性と親しそうに写真に写っている彼はなんだ。
「莉花。お、お前の友人が撮った写真ななななんだよな。ど、どどどどうしてアイツが——」
そこまで言って俺は「とんでもない過ちをしてしまったのではないか」と理解してしまった。
俺の目の前で、莉花は落ちている写真を拾い上げて裏返していた。
「あらら、彼が写っている写真は全て抜いたつもりだったんだけどなぁ」
「り、か?」
「彼はね。私の大学時代の友人だよ。晴翔の為に協力してもらったんだ」
いつものように、ただ友人の事を紹介しているだけのはずなのに、何故か俺は莉花の顔を直視出来なかった。
「俺の……ため?」
「そうだよ? 晴翔はね。外に出て働いちゃ駄目なの。そんなことしたら、晴翔が壊れされちゃう」
「お前、何言って」
「晴翔はとても頑張ってるのに、皆、そんな晴翔に無理をさせてるんだよ? おかしいじゃない。おかしいんだよ。だから、私は晴翔に理解して欲しかったの。世界はあなたを傷付ける『“敵”だ』って」
「な——」
意味が分からない。一切、理解も出来ない。
なのに、莉花の言葉は僕の身体に染み入るように響いていく。
「私はもう晴翔に傷付いて欲しくないんだよ。でも、晴翔。懲りずに外へ出て行こうとしたよね。あんなに酷い目にあったのに。バイトの面接を聞いた時なんか信じられなかったよ。私、あの後、一人で泣いてたんだよ。『こんなになるまで晴翔は壊されちゃったんだ』って。だから、ね。私、決めたの。晴翔に『外は怖いんだよ』って教えてあげなきゃって」
冷房の効きすぎだろうか。背中に寒気が走った。
莉花の話は止まらない。寧ろより一層熱が入っていた。
「どうしたらいいか、すごく考えたよ。でも、最終的に一番シンプルに行くのが良いんだって気が付いたんだ。晴翔は怒られるのが怖いから、『徹底的に怒鳴られればもう懲りるだろう』って。本当、上手くいって良かったよ」
手が震えているのが分かる。
視界も揺らいでいてよく見えない。
ただ、俺は理解していた。
俺は完全に彼女の思う通りになってしまったことに。
「大丈夫だよ。晴翔。これからもずっと——」
あの優しかった筈の言葉を彼女は呟く。
今ではもうすっかり意味の変わってしまった言葉を。
「——私はあなたを助けるから」
終
あなたを助けるから 夢魔満那子 @MUMA_NAKO
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