第29話

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 拘置所で伊能と別れてから、陶子は急ぎ溝口に連絡をとった。

 伊能の指示どおりのことを伝えると、彼は保護をしたいと申し出てくれた。はたしてそれは善意でのことなのか、それとも伊能の推理どおりのことなのか……。

 待ち合わせは、浅草の浅草寺前にした。人けのないところよりも、大勢でごったがえしているほうが安全だと判断したのだ。溝口の勤務する本所署からも近い。

 午後三時になろうとしていた。観光客で、いつでもここはにぎわっている。陶子は、念のため周囲に気を配りながら溝口を待っていた。たとえ溝口が敵側と通じていても、現状では自分を守ってくれる……はず。

「香坂さん!」

 溝口の様子は、慌ててやって来たという印象があった。

「無事でしたか! あんな電話があったから、心配しました」

 本気のように感じた。やはり伊能の危惧は的外れだったのだ。

 そのことに安堵すると、陶子はすみやかに場所を移動することにした。守ってくれる人がいるのなら、逆に人の少ないところのほうがいい。

「それでは、車ってのはどうですか?」

 溝口が提案してくれた。車で走行し続けていれば安全なのは、北海道でも経験済みだ。

 すぐにレンタカーを手配して、都内を走ることになった。運転は溝口がしてくれる。北の大地でペーパードライバーから卒業していたが、まだ都内を運転する勇気はない。

 目的地があるわけではなかったので、溝口にはとりあえず気の向くまま進んでもらった。

 勝鬨橋を渡ったところまではわかったのだが、道路事情に詳しくない陶子では、そこからさきの道程は理解していない。

「電話で言ってましたね。重要な証拠を伊能に預けたそうですが……」

 しばらくして、溝口がそう切り出した。

「はい」

「どんな証拠なんですか?」

「倉田が残したのものです。音声データみたいですけど、まだ中身は……」

 それだけにとどめておいた。もし彼が敵である場合、中身を聞いていると知ったら、それこそ危険だ。

「……」

 陶子は、そこでようやく気がついた。自分は、溝口のことを疑っている……いや、そうではない。伊能のことを信用しているのだ。

 伊能の判断にまちがいはない──そんな根拠もないことを本気で考えている。

「とにかくいまは、やつが持ってるんですね?」

 念を押すように、溝口は訊いた。

 陶子はうなずく。

 車内が静まりかえった。いま伊能は、一人だけでなにかをやっている。おそらく危険で、この状況を打開できる最善の一手だ。

 明日になれば、すべてのことが変わっている。希望的観測ではあるが、あの男なら……と思えるのも事実だった。

 夜までは、あっというまだった。あてもなく、都内のあちこちをさまよっていた。

「大丈夫ですか? どこかで休憩しましょう」

 陶子は進言した。さすがに走りっぱなしでは疲れるだろう。

「平気ですよ」

 屈託なく、溝口は言葉を返した。彼を疑っていることに、罪悪感をおぼえた。

 さらに一時間走り続けたところで、食事のためにファミレスに入った。

「ところで……伊能がいまどこにいるのか、本当に知らないのですか?」

「はい。知りません」

 それは本当のことだ。だが、隠していると疑われているのではないか──そういう思いがあるし、心のどこかで後ろめたい気持ちがあるのが正直なところだ。

 食事を終え、ファミレスから出たあとは、またドライブを再開した。

 しばらくしたころ、車の速度が急に上がった。

「どうしたんですか?」

「追われてる」

 陶子は、後ろを見た。

 二車線の道路を走っていたが、両車線ともに車が追走していた。一見しただけでは、尾行されているのか、通常の走行なのか判断できなかった。

「どっちですか?」

「この車線です。一つ後ろ」

 その「一つ」は、すぐ後ろのことではなくて、もう一台後ろのことを言っているようだ。

 その車が、縫うように車線変更したと思ったら、すぐ後ろの車を追い越すように割り込んでいた。それを見て、陶子にも尾行車だと理解できた。

「休憩したのが、まずかったみたいだ」

 レンタカーを借りていることを割り出し、ファミレスで駐車しているところをさがしだされたのかもしれない。黒幕の情報網ならば可能だろう。

「どうしますか!?」

「とにかく、逃げるしかないでしょう」

 信号が黄色から赤になったところで、交差点を突っ切った。が、さすがに都内ではこんなことを繰り返すわけにはいかない。

「信号待ちとか、危ないんじゃないですか?」

「停車しても、ほかに車があるところでは物騒なことはできない」

 陶子は、伊能から藤堂武彦が殺害されたときのことを耳にしている。信号待ちで停車したときに襲われ、炎上した車のなかで果てたのだ。

 その話を溝口にしようとした。しかしそのまえに、ブレーキがかけられた。眼前の信号は完全に赤となっている。すでに青となった車道側では交通を開始しているので、いまさら渡ることはできない。

「み、溝口さん……」

「大丈夫です。これだけほかの車がいるんですから」

 たしかに、となりの車線にもずらっと車が並び、後ろの追跡車の後続も数台が見て取れる。

「出てください!」

「え?」

「いいから出て!」

「落ち着いてください。こんなところで襲ってくるわけはありません」

「小樽では、それで襲撃されてるんです!」

「小樽? 検察官の藤堂武彦ですか?」

 その話を聞いても、溝口に慌てた様子はなかった。

「私を信じてください。そんなことにはならない」

 根拠でもあるのか、彼は動じない。

 気が気ではなかったが、溝口の言うとおり、後ろの車から、なにかを仕掛けてくるような素振りはなかった。

 すぐに信号が青になった。

「朝まで交通量の多い道を走りましょう」

 いまのタイミングで襲撃がなかったことに自信をもったのか、溝口の運転は過度にスピードを出すことがなくなった。ついてくるのなら勝手についてこい──そのような意図が感じられた。

「でも、深夜になったら交通量が……」

「新宿や渋谷なら、どんな時間でも人はいます。それに、いざとなったら署に行けばいい」

 その肝心の警察が信用できないのだ──そう言いたいのをこらえた。それはイコール、溝口のことも信用していない、と告白するようなものだ。

 その思いが伝わってしまったのか、溝口は続けた。

「なんならパトカーに乗り替えて、緊急走行しながら首都高を回っていれば、どんな人間でも手は出せない」

 彼の口元には笑みが浮いていた。どうやら、いまのは冗談だったようだ。こんな状況だからこそ、気をまぎらわせようとしてくれたのだ。

 尾行車は、その後もついてきた。いまのところ身に迫る危険はなかったが、けっして心地の良いものではない。

 そうこうしているうちに、深夜と呼ばれる時刻になっていた。さすがに交通量は少なくなっている。

 信号で停まった。

 周囲に、ほかの車はなかった。ピッタリと背後につく尾行車だけだ。

「溝口さん!」

「大丈夫です」

 それでも溝口に深刻さはなかった。

 そのとき、溝口の携帯が音をたてた。

「失礼しますよ」

 そう断ってから通話をはじめた。交差しているほうの信号が青から黄色に変わった。すぐに前方の信号が青に変わるだろう。

「──わかりました」

 通話を終えたときには、すでに青となって数秒経っていたが、後ろにいる車は例の一台しかなかったので、クラクションを鳴らされることもなかった。

 ゆっくりと前進をはじめた。

「なにかあったんですか?」

「いえ。署からの連絡です。昼から単独行動をとっていたので、所在確認をされました。明日は必ず来るように言われました」

 申し訳ない思いがあった。

「気にしないでください」

「処分をうけてしまうんじゃないですか?」

「そうかもしれませんが、始末書ぐらいですむと思います。朝まででいいんですよね?」

「そうです」

 伊能は、一晩でどうにかすると断言した。あの男が、できないことをできると口にするわけがない。

「心配ありません」

「ですが……このまま夜通しというのは、たいへんでしょう?」

「そんなことはありません。それに……」

 溝口の眼が、ルームミラーを見た。

 陶子も気がついた。追尾車がいなくなっていた。

「あきらめたんでしょうか?」

「でしょうね。やはり、都内で物騒なことなどできるはずがない。北海道とはちがいますから」

 そうだろうか……?

 現場を見たわけではないが、話によると小樽の中心地だったという。しかも白昼。深夜の都会よりも、難易度は上のはずだ。

「安全を確保できる場所がみつかったら、そこで仮眠しますよ」

 溝口は、すっかり安心してしまったようだ。

 現に尾行車がいなくなったのだから、陶子としてもなにも言えなかった。

(もしかして……)

 伊能?

 すでに伊能がことを成し遂げて、敵の動きが変わったのかもしれない。

 その後も、追跡車があらわれることはなく、深夜一時ごろにファミレスの駐車場に入った。

 二時過ぎに、店に入って食事をとった。さらに一時間ほど仮眠をとって、再び車を走らせたときには、五時になろうとしていた。朝陽はまだ昇っていなかったが、空気感が夜ではなくなっていた。

「ね、大丈夫だったでしょ」

 七時を過ぎたところで、溝口はそう言った。

 疑いの気持ちはとうに消え、ただただ感謝しかなかった。

「ありがとうございました」

「いいんですよ。あなたの頼みなら、もう少しハードなことでもよろこんでやります」

 半分は冗談なのだろうが、陶子は素直にうれしかった。

「どこまで行きますか? やつと待ち合わせてるんでしょ?」

「拘置所です」

「わかりました。一時間ほどかかります」

 本来なら、近くまででいいと言うべきところだが、危険が完全に去ったとは断定できない。そこまで送ってもらったほうが得策だ。

 時刻は八時半になっていた。少し待つことになるが、事態の収拾に動いてくれた伊能や三崎京香を待たせるわけにはいかない。むしろ、ちょうどいい時間かもしれない。

 正面入り口から十メートルほど離れた場所に停まった。

「あ」

 意外にも、すでに伊能は到着していた。すぐに降りて近づいた。

「早いわね」

「たぶん、あんたも早く到着すると思ってね」

 いつもと変わらぬ表情が、この男のすごさを物語っていた。

「……で、どうなったの?」

「ああ。もう圧力をうけることはない」

「なにをやったの?」

「聞かないほうがいい」

 この男は、絶対に話さないだろう。

「それじゃあ、私はもう行きますね」

 いっしょに降りていた溝口が言った。

「ありがとうございました」

 陶子は頭を下げた。

「いいんですよ。あなたのためなら、なんだってやります」

 感謝の思いしかなかった。

「おい」

 車にもどろうとする溝口のことを、伊能が呼び止めた。

「話がある」

 伊能は彼のもとまで行くと、顎をしゃくって移動をうながした。

 ──わたしには聞かれたくない話なの?

 そう口にしたいのをこらえた。伊能が昨夜おこなったについての話かもしれない。そのことは詮索しないと決めたのだ。

 二人は車に乗り込んだ。

 陶子の位置からは、車内の様子はうかがえなかった。

 すぐに陶子の注意は、車からそれた。三崎京香がやって来たからだ。携帯で時刻を確認したが、彼女も早く到着したようだ。

「ありがとうございます」

 陶子は、頭をさげた。

「いえ……自分の父のことですから」

「今日は、面会できると思います」

「はい」

 彼女も、それを信じている。伊能を信じるわたしを、信じてくれたのだ──陶子は、そのことに感動すらおぼえていた。


     * * *


 ようやく、出口が見えたような気がした……。

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