第28話

       28


 おれが、なにをしたかって?

 それは秘密だ。

 だれにだって、言えないことぐらいあるだろう?


     * * *


 ここまでは、ガラにもなくスローペースに徹していた。

 出所したばかりで慎重になったのはあるが、あの香坂の手前、遠慮したところはあった。まがりなりにも、仕事を提供してくれたのだ。

 だが、ここからはハイに飛ばす。

 渉は、無防備に街を歩きながら、自分のアパートにもどった。わざと三十分ぐらいは、無駄に遠回りをしただろうか。

 これでいい。敵は罠だと考える。不用意に近づいたりはしない。近づいてくる人間がいるとすれば、敵ではあるが、すぐにどうこうしようとする意思のない者だけだ。

 そして、いま渉が呼び寄せようとしているのは、まさしくそういう人物だった。

 アパートの周囲にピリピリとした気配がまとわりついていた。おそらく、むこうにも渉の意図が伝わっているはずだ。

 渉は、アパートの部屋で寝転がり、天井を見上げていた。そういえば、この部屋では、まだ数日しかゆったりと過ごしていない。

 こうしていると、刑務所での日々がよみがえってくる。強制労働があるとはいえ、服役は退屈そのものだ。だが、時間を無駄にしたわけではない。

 つねに身体を鍛えていた。

 自分の肉体をいじめ抜き、いつでも戦場へもどれるように──。

 ここからは、リミッターをはずす。

 おのれの獣を解き放ち、それでいて頭のなかは氷のように。

「……」

 そのとき、部屋の扉が開けられた。

 なかに入ってきたのは、渉の望む人物だった。

「どうやら、おれに用があるようだな?」

 その人物──猿渡が言った。

 この男は以前にも、似たような登場をしている。

「そうだ」

 渉は、上半身を起こした。

「なんだ? なにをたくらんでる?」

「おまえに天下をとらせてやる」

「天下だと?」

 ギロッと、猿渡の眼が開いた。

「どうせおまえは、父親から見放されているんだろう?」

 いまの言葉は、この男の心に刺さっているはずだ。もう権力者一族の系譜からは、はずれている。それが渉にはよくわかる。

 おそらく、十七年前に見限られた。

 渉によってぶちのめされたことが原因か、それとも世代交代が原因なのか……。

 これは予想でしかないが、祖父はこの男をかわいがっていた。だが父親のほうは、そうではなかった。用心深い性格のようだから、不確定要素でしかないこの男をうとんだのかもしれない。

「このままでは、おまえはただのドラ息子。けっして大物にはなれない」

「……ぶざけやがって! だれのせいで、こんなふうになったと思ってるんだ!」

 吐き捨てるように、猿渡は言った。

「おれのせいだと言いたいのか? それこそお坊ちゃんのたわごとだな」

「なんだと!?」

「すべては、おまえの器のせいだ。天下をとるような格じゃなかったんだよ」

 渉の声は、あくまでも厳しく猿渡を責めた。

「……クソッ!」

 腕力で勝てないことを知っているから、ただ悔しさに顔を歪めた。たとえ銃を取り出したとしても、絶対に勝てない。

「……そんなおれに、天下をあたえるつもりか?」

「そうだ。頭にすえるには、バカがちょうどいい」

「徹底的にムカつくやつだ!」

「それは、誉め言葉だな」

 猿渡は、気をとりなおすように息を吐いた。

「……で、どうするつもりなんだ?」

「簡単だ。おまえの父親には退場してもらう」

「本気か?」

「もちろん」

 自信をもって、渉は答えた。

「具体的には?」

「いなくなってもらう」

「殺すということか!?」

「それしかないだろう?」

「バカな……そんなことをすれば、おまえは生きてられないぞ。オヤジには敵も多いが、利権に群がる人間もそれ以上にいるんだ。そいつらから的にされる……」

「おれを殺せるのか?」

「……おれにはムリでも、できるやつはこの世にごまんといるだろうよ」

 猿渡のそれは、負け惜しみのように聞こえた。

「おれの心配はいい。だいたい、やるのはおれじゃない」

「なに?」

「やるのは、おまえだ」

「オヤジを殺せというのか!?」

「そうすれば、おまえはトップに立てる」

「……夕食を誘うように言うんだな」

「簡単なことだ」

「簡単なわけないだろう!」

「簡単だ。拳銃を一丁用意して、標的に向かってトリガーを引けばいい」

「なに言ってやがる! 近づくだけでも難しいんだ……息子といったって、信用なんかされちゃいない。会うときには、護衛からボディチェックをうける。拳銃なんか隠しもてるわけがない」

「場所に案内してくれれば、おれが段取りをしてやる。複雑に考えるな」

「バカなのか? たとえオヤジを殺せたとしても、だれもおれなんかについてこない……いまおれが従えてる人間も、オヤジがいるからこそだ」

「おまえに人望がないのはわかってる。心配するな」

「どうするというんだ?」

「あれだけの権力を維持するためには、実務を忠実にこなす人間が必要なはずだ。そいつをこっちにつける」

「どうやって……」

 猿渡の声は、あきれていた。

「たしかに、そういう人間はいる。オヤジの右腕と呼ばれる男だ。祖父のころから仕えている……それだけに、忠誠心は強い」

「力で押さえつけて、いうことをきかせる」

「脅迫が通じる人間じゃない……」

「どんな人間にも弱味はあるものだ。おまえなら、心当たりがあるだろう?」

「どうしてそう思うんだ?」

「おまえのような人間は、つねに人のウィークポイントをさぐってるはずだ。そいつの弱点を言え」

「……」

「あるんだろ?」

「あるにはある」

 父親の腹心だからなのか、猿渡は言うのをためらっていた。

「……佐山は結婚をしていないが、息子がいる」

 その人物は、佐山というらしい。

「その子供が、弱点か?」

「いや、その息子については、どうも思っていないようだ。だが、その息子に娘ができた。どんな冷徹な人間でも、孫は可愛いってことだ」

 すくなくとも猿渡は、冷徹な人物だと印象をもっているようだ。

「なら、それを交渉の材料に使う」

「うまくいくと思ってるのか?」

「うまくいかなければ、困るのはおまえだ」

「だろうな……おまえが本気になれば、おれなんか利用しなくてもやってしまうんだろうな……」

 その言葉には、観念したような響きがあった。

「本当に、おれをトップにすえてくれるのか?」

「ああ。黒幕にしてやる。だが、そっからさきは、おまえの才覚だ」

 突き放すように、渉は言った。



 一時間後、猿渡に案内させて、あるビルに到着した。都心の一等地にそびえる、塔のような高層ビルだ。

 本邸は松濤にあるということだが、祖父が他界してからは、このビルが『猿渡家』になっているそうだ。

 エントランスに入ると黒いスーツ姿の男たちが、ものものしく近寄ってきた。

 はたから見ると、巨大一流企業のオフィスビル、または高級タワーマンションのような印象をうけるが、実態は王を守る城壁のようなものだ。

「竜一さん、今日はどのようなご用件で?」

「オヤジに会いに来た」

「そのような予定はなかったはずですが」

「いいから、通してくれ。いるんだろ」

 男たちにその気はないようだった。

「お帰りください」

 口調こそ穏やかだったが、眼の奥は冷たく、光を失っていた。立場上、敬っているようでも、内心は猿渡のことを見下しているのかもしれない。

 暴君のように好き勝手やっている猿渡も、もっと上の権力者にとってみると、所詮は取るに足らない存在なのだ。少しだけ猿渡のことが哀れに思えた。

「いいから、そこをどけ」

「やめてください、竜一さん」

 猿渡が、渉に視線をおくった。

 刹那、男たちが反応できない速度で攻撃をくわえた。まともに闘えば、それなりに強い護衛なのだろうが、渉の敵ではなかった。

 素手で、全員を昏倒させた。

「……もう後戻りはできないぞ!」

 猿渡が言った。自身に言い聞かせているようだった。

 エントランスに、ほかに人影はいない。だが監視カメラがいたるところについているだろうから、増援がすぐに来るだろう。

「こっちだ」

 エレベーターに向かった。それで最上階をめざす。

「上の階にアクセスするには、特別なカードがいる」

 そう口にして、猿渡はそれらしいカードをみせた。

「一応、息子だからな」

 最上階に到着したようだが、扉は開かない。

「そこのカードリーダーにこれを差し込めば、ドアが開く。そのまま、オヤジのいる部屋に到着だ」

 渉は、カードを受け取った。

「まずまちがいなく、待ち伏せされてるぞ……どうする?」

「おまえが出ていけ」

「なに? おれを見殺しにするつもりか?」

「大丈夫だ。さすがに子供を問答無用で殺したりはしない」

「そんな甘い親じゃないんだ……」

 猿渡は不安そうだが、渉には確信があった。

 この男の父親は狡猾で残忍だが、慎重すぎるきらいがある。だからこそ、倉田を刑務所に隔離したし、出所後は証拠を消すために奔走させた。

 そんな人間が、自分の陣営で簡単に人を消したりはしない。息子だから躊躇するのではなく、慎重派だから軽はずみなことはしないのだ。この男には、そのことを伝えるつもりはないが。

 猿渡の決意を待つことなく、渉はカードリーダーに差し込んだ。

 エレベーターのドアが、ゆっくりと開いた。


     * * *


 拳銃をかまえた男が三人。前、左右を囲まれていた。いずれも知らない人間だった。こういうときのために雇われている男たちだ。

 おれは、チラッと後ろ振り返った。

 伊能の姿はなかった。

 心のなかで舌打ちしながら、前に向き直る。

 何度も訪れているが、好きになれない部屋だ。ワンフロアが、すべてオヤジの自室だ。調度品も洗練されていて、本来なら居心地がよくなければおかしい。きっと、ここの主に恐れがあるからだ。

「撃つな。ただオヤジに会いにきただけだ」

 用心棒の男たちは、その言葉に反応しなかった。

「おい。おれは、息子だぞ。いいのか?」

 伊能は、おそらくエレベーターの天井に張りついているのだろうが、このままおれを見殺しにするつもりかもしれない。

 正面の男が、銃口をさらに近づけた。

「おい……とにかく、オヤジを呼べ!」

 殺すつもりなら、すでに撃っているだろう。おれはそう考えて、声を荒げた。

 左右の男たちから、ボディチェックをされた。

 あっというまに、拳銃を没収された。

「それは護身用だ」

 ムダだとは思ったが、言ってみた。

 男たちからの返事はなく、両脇を抱えられた。

「もう一人いたな?」

 ようやく、それだけを質問された。

 男たちに答えを聞くつもりはないらしく、すでに正面にいた男が開いたままのエレベーターに銃を向けながら近づいていた。

 とくに天井を警戒しながら、なかを覗きこんだ。

「どこに行った!?」

 いなかったようだ。本当にどこへ行ったのだ?

 男がボタンを押すと、ドアが閉まりはじめた。男は背を向け、扉が閉まりきろうとしていた。

 なにかの影が、エレベーターのなかで落下していた。すぐに理解した。あの男は、わずかの時間で天井の小窓(そんなものがついていたのか気にもしなかったが)を開け、エレベーターの外上部に姿を消していたのだ。

 閉まりきる寸前、影と化した伊能が、疾風のように飛び出した。

 三人の男たちが倒されるのに、十秒もいらなかった。銃を持った人間相手に、素手だけで一発の銃弾もうけずに沈黙させる──あらためて、バケモノだと思い知らされた。

「ほら」

 伊能は奪われた拳銃を取り返すと、それをおれに差し出した。

 受け取ったとき、乾いた足音が近づいていた。

「すんだか? ん!?」

 余裕に満ちていた声が、ふいに緊迫したものへと変わった。

「オヤジ……残念だが、やられたのはこいつらのほうだ」

 いまでは完全にのびている護衛の男たちを顎で指し示した。

 伊能に渡された拳銃を、オヤジに向けた。

「私を殺すというのか? じつの父だぞ……」

 さすがにためらいがあった。

 そんなとき、伊能がおれの後ろにピッタリとついた。恐ろしいことに伊能は、おれが握っていた拳銃のグリップに、自らの手をからめた。

 引き金にかかる人差し指が、不当な圧力をうけた。

 バン!

 銃弾は、はずれた。

「よく狙えよ」

 伊能は、冷酷に言った。

 再び、引き金の指に力が加わった。

「や、やめろ!」

 おれが声を荒げたのと、オヤジが悲鳴をあげたのは、ほぼ同時だった。

 やはり命中はしなかったが、たとえ当たっていたとしても殺したのはおれじゃない……この男だ!

 おれの膝は震えていた。

 こんな男にかかわってしまったばかりに……後悔してもしきれない。

「な、なにが望みだ! 金ならやる! それとも権力か!?」

「あんたに生きてられると、なにかと邪魔なんだよ」

「だ、だいたい……おまえはだれなんだ!?」

 オヤジは、伊能のことを知らないようだ。裏の仕事は、その役目をになう人間に丸投げしていたのだろう。

 オヤジらしい──おれは思った。

「死んでいくんだから、そんな細かいことは気にするな」

 伊能の死刑宣告は、容赦がなかった。

「おれは刑務所に入って変わった。もう甘いことはしない」

「刑務所? そうか……竜一にちょっかいをかけてた男か……」

「最後の一線は、おまえが越えろ」

 耳元で、伊能に言われた。占拠されていた拳銃を握る手が、自分の力だけで支配できるようになった。

 悪魔に魅入られたのだ。意識していないはずなのに、指が引き金に触れた。

「や、やめるんだ!」

 オヤジの叫びをかき消すように、銃声が轟いた。

「う、うう! うう……」

 はずれた。こんな至近距離なのに、父親だからか……。

 しかし、オヤジは苦しんでいた。

 胸をおさえて、屈みこんでいる。

「うう……」

 心臓発作だ。オヤジには持病があった。

 床に倒れこんで、天井に向かって腕をのばした。

 その姿を、伊能が冷めた瞳で見下ろしていた。

「結果オーライだな」

「……おれも人のことはいえないが、おまえのように冷酷な人間はいない」

 そのとき、べつの足音が接近していた。

 佐山だった。オヤジの片腕だ。実務をこなしているのはこの男であり、なんとしてもこちらに引き入れなければ、このクーデターは成功しない。

「……総帥、逝かれましたか」

 佐山のつぶやきは、思いのほかさらりとしていた。

 年齢は七十歳に近いはずだが、まだ五十代でも通用するほど肌に張りがある。祖父のころから仕えている重鎮だ。むしろオヤジよりも、猿渡家について知り尽くしているといっても過言ではない。

「あんたが佐山さんだな」

 伊能が声をかけた。さっそく、あのネタで脅すつもりだ。

「伊能渉さんですな……よく存じていますよ」

「簡潔に言おう。トップがいなくなったんだから、次が必要だな?」

「そうですね。あなたが取って代わろうと?」

「やめてくれ。おれのガラじゃない。どうせ、これまでも世襲だったんだろ? だったら、ここにバカ息子がいるじゃねえか」

「ぼっちゃんが?」

 どこか、侮蔑するような響きがあった。

「ぼっちゃんと呼ぶのは、やめろと言ってるだろ!」

 懸命の抗議にも、佐山は表情を崩さなかった。伊能も、おれなどいないかのように会話をすすめる。

「考えようによっちゃ、トップはバカなほうがあつかいやすいんじゃねえか?」

「それも一理ありますな。神輿は軽いほうがいい」

 さんざんな言われようだった。

「……あなたが、ぼっちゃんの後見人になってくださるのなら」

「ああ。おれが、このバカを鍛えてやるよ」

「では、そのように手配しましょう。あなた方は、ここを離れてください」

 どうやら脅迫などしなくても、伊能の思惑どおりにことが運んだようだ。おれにとっては、釈然としない思いだが……。

 これから馴染みの医者を呼んで、いいように死亡診断書を書かせるのだろう。といっても、心臓麻痺にはちがいないのだが。

「おれの知り合いの女が、おまえのことを《暴君》と呼んでるんだ」

 喜々とした声で、伊能は言った。法務省の女のことだろう。

「よかったな。これで名実ともに本物の暴君になれるじゃねえか」

 これ以上ないほどに屈辱的な皮肉だった。

「なにが暴君だ……本物の暴君は、てめえのほうだろ!」

 悔しさをぶつけた。それぐらいしかできることがない。

 佐山の指示どおり、この場を離れようとしたが、その佐山自身が伊能に話しかけた。

「いま話に出たその女性……どうやら、あなたとこの世をつなぐ一本の細い糸のようだ。その存在があったから、あなたはここでも人を殺さなかった」

 たしかに、ぶちのめしたボディガードたちは失神しているだけだし、オヤジを最後に撃ったのも(当たらなかったが)おれであって、伊能ではない。

「どうだかね」

 伊能は答えをはぐらかしてから、エレベーターに向かった。

 おれは、その後ろ姿をしばらく眺めた。

「ぼっちゃん、昨日の敵は今日の友ですよ」

 佐山が、どこのだれでも言えるようなことを口にした。

「この国の帝王になりたいのなら、利用するものは利用しなくては……」

 伊能をつかって天下をとれ──そう釘をさしたのだ。

 そんなことは百も承知だった。

「……ぼっちゃんは、やめろ」

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