第27話
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お昼過ぎには、横浜の『鶴見産業』についていた。その名のとおり、鶴見区にある中小企業だ。
森元拓の娘は、現在では姓を変え、三崎と名乗っている。結婚して変わったのか、母方の姓を名乗っているのかまでは把握できていない。
伊能は外で待つようなので、陶子一人で向かった。小さなビルのなかに入ると、ちゃんと受付のようなカウンターがしつらえてある。ただし人はおらず、陶子は大きめの声で呼びかけた。
「すみません!」
「はーい」
返事から数秒経ってから、年配の女性が出てきた。
「法務省の香坂といいます」
「法務省の方……ですか?」
「こちらに、三崎さんという女性がいると思うのですが」
「はい、おりますが……」
「少しお話をうかがいたいと思いまして」
「あの、どういった……」
女性は、困惑の表情を浮かべていた。
陶子は頭をフル回転させた。
「じつは、裁判員制度について調査しているんです。三崎さんは以前、裁判員の候補になったことがありますので」
もちろん、まったくの嘘だ。
姓を変えているということは、父親のことを職場には知られたくないのかもしれない。せめてもの配慮のつもりだった。
「は、はあ……」
よく理解できていないようだったが、年配の女性は会社のなかに入れてくれた。
案内された小部屋で待っていると、すぐに森元拓の娘だと思われる女性があらわれた。年齢は二十代前半で、想像していたよりも若かった。
そういえば倉田の話では、数年前に面会者があらわれたときには、娘は高校生だったと語っていた。森元拓が逮捕されたときには、まだ年端もいかない女児だったのだろう。
「どうも……三崎です」
少し警戒している。
名刺を交換し、彼女の下の名前が京香だということを知った。
「どういうご用件でしょう……法務省の方なんですよね? わたし、裁判員になったことはありませんけど」
「こみいったことなのですが……」
切り出すのに勇気がいった。
「お父様のことです」
途端に、険しい顔になった。可憐な顔立ちが台無しだ。
「どんなことでしょう?」
「お父様の事件について、なにか知っていることはありませんか?」
「……はっきり言って、迷惑です。父のことは忘れるようにしています……この職場でも、知っている人は限られているんです」
本当は無実であろうとも、死刑囚の娘という境遇は想像だにできない。
「お父様が冤罪だと思ったことはありますか?」
「……そんなことを言っていた人が、以前にもいました」
おそらく、倉田に面会した人物だ。
「でも結局は、嘘だったみたいです。その後、なにもありませんでしたから」
「お父様は、本当に無実の可能性があります」
「え? どういうことですか!?」
「わたしは、真犯人であると告白した男性を知っています」
「だれなんですか!?」
「残念ながら、もう亡くなってしまいました」
「それって……証拠にならないってことですか?」
「……はい」
彼女の落胆が伝わってきた。
「じゃあ、もし父が無実でも、どうしようもないじゃないですか……」
そのとおりだ。倉田が録音していた関係者の音声も、証拠にはならない。みな殺されているのだから、裏付けもとりようがない。
「ですが、わたしたちは、どうにかしたいんです」
はたして、表情を変えられない自分の言葉を、彼女が信用してくれるだろうか。
「……」
「お父様に面会したことはありますか?」
「いえ……」
死刑囚への面会は、親族や弁護士しか許可されない。懲役囚の場合でも、まったくの部外者が面会することは難しく、友人や恋人でも特別に許可を得なければならない。とはいえ、死刑囚との面会にくらべれば、格段に容易だ。
だから、陶子たちが会おうと思っても簡単には会えない。
「面会してもらえませんか? そして事件のことについて、話を聞いてもらえませんか?」
「……」
彼女は、あきらかに迷っていた。
「父との記憶は、ほとんどありません……小さいときにいなくなりましたから」
なんて話しかければいいんでしょう──そう言うことこそしなかったが、その気持ちはわかる。もし自分だったとしたら、と陶子は考えてしまった。
話なんて、できない……ただ顔を合わせるだけで終わってしまうかもしれない。
「でも、わたししかできないんですよね」
彼女の母親──森元拓の妻だった女性は、すでに亡くなっている。十年前、乳癌だったそうだ。
両親も他界しているし、親類とも音信不通らしい。森元拓の肉親と呼べる人間は、もう彼女しかいないのだ。
「お願いできますか?」
「……わかりました」
「ありがとうございます! いつなら大丈夫ですか?」
心変わりしないうちに、話を固めてしまおうと考えた。
「土日はダメなんですよね?」
「そうですね……原則、平日しかできません」
「でしたら、どうせ休みをとらなきゃいけない……いつでもいいですよ」
「明日、とかは……」
さすがに急すぎるかと思ったが、できれば早いにこしたことはない。
「上司に相談してみないとわかりませんけど、たぶん大丈夫だと思います。でも、予約とかいるんじゃないですか?」
「いえ、面会に予約はありません」
死刑囚の場合でもそれは同じで、当日行ってみないと面会できるかわからない。親族なら許可がおりると思うが、本人が拒否することもある。
すぐに彼女が、上司と相談しにいった。どんな理由で休みをとるつもりなのかわからないが、どんな職場でも突然の休日申請は簡単ではないだろう。
しばらくして、部屋に彼女がもどってきた。
「明日で大丈夫です」
どこかスッキリした表情だった。
「よく休みがとれましたね」
「はい。嫌味を言われましたけど、やめる覚悟で言い返しました」
申し訳ない気持ちにおそわれた。このことで彼女が職を失うようなことになってしまったら、それは自分の責任だ。
陶子は、そのことを肝に銘じた。
東京にもどってから、溝口に連絡をした。ただし、三崎京香には会えなかった、と伝えた。伊能の判断だ。溝口のことをまだ疑っているのだ。彼女の協力を知れば、身の危険が生じるかもしれない。
溝口には、礼だけを言っておいた。
「三崎京香さん……本当に大丈夫なんでしょうね?」
通話を終えてから、陶子は伊能に確認をとった。白昼堂々、襲ってきた輩がその気になれば、なんの戦闘力もない女性の命を奪うことは、それこそ赤子の手をひねるようなものだ。
「彼女は、なにも知らない。消しても意味はない」
「でも、いまの黒幕は用心深いんでしょ?」
「なおさらだ。人を消すというのは、想像以上にリスクがともなう。うまく始末できるという保証もない」
冷静にそう語る伊能の姿に、背筋が寒くなった。
「用心深いからこそ、ヘタなまねはしないってこと?」
「そういうことだ」
「で、その用心深い人物は、次になにをするつもりなの?」
過去につながりのあった藤堂たちを始末し、実行犯である倉田も消し、三五年前の事件関係者である沼崎も死んだ。
「まあ、一番に邪魔なのは、おれたちってことだろうな」
だから狙われた。
「なんだか、緊張感ないわね」
この男がこんな調子だから、陶子まで楽観視してしまう。
ただし用心だけは厳重にしておいた。その日もランダムに選んだラブホテルで一夜を過ごし、朝をむかえた。
三崎京香との待ち合わせは渋谷駅で、そこから北千住まで電車で移動した。東京拘置所の最寄り駅はそのとなりの小菅だが、北千住からタクシーで移動した。面会することを悟られないためだ。伊能によると尾行や監視はないということだったが、注意するに越したことはない。
拘置所につくと、彼女だけがなかに入った。陶子と伊能は、表で待つつもりだった。だが正門前にずっと立っているのは目立つので、塀沿いに歩いた。しばらくしたら、小さな公園があった。そこで時間をつぶそうと考えた。
面会時間は、通常三十分ほどだ。しかしそれは一般の未決拘禁者(被疑者)に対するものなので、死刑囚の面会ではどうなのか、陶子は知識として知らなかった。が、同じように運用されているだろうと予想をたてておく。申し込みに三十分、面会で三十分。一時間ほど待つだろう。
携帯が鳴った。三崎京香からだった。その電話で、予想がはずれたことを知った。面会が許可されなかったようだ。
急いで、正門前に移動した。
「香坂さん……」
「どういうことなの?」
「面会はできないって……」
どうやら理由は告げられずに、不許可の事実だけを伝えられたようだ。
「肉親はできるんだよな?」
「ええ」
とはいえ死刑囚のあつかいはとてもデリケートだから、そこを配慮したのかもしれない。
死刑囚は、極刑に処されることが罰になる。つまり、そのときまで罰をうけたことにはならない。だから、懲役囚のような強制労働はない。ありあまる時間のなかで日々、死の恐怖と戦い、死とはなんなのかをみつめなおしている。
生への未練を断つということは、すべてをあきらめるということに等しい。
究極の精神修行だ。
そして、そのたどりつくさきにハッピーエンドは待っていない。
正気をたもつだけでも難しい。死刑囚の心情にあきらかなマイナス材料になると判断されれば、家族でも認められないことがある。
もしくは、すでに精神的におかしくなっていて、面会できる状態ではない。脳梗塞などを発症して身体的に無理なのかもしれない。正気であったとしても、本人が拒否をすることもある。
陶子は脳細胞を活性化させて、どれが正解か瞬時に答えを導きだそうとした。
「ま、予想どおりだ」
しかし伊能には、その答えがわかっているようだった。
「どういうこと?」
「簡単だろ。森元拓に、だれも会わせたくないんだ」
「まさか、ここでも圧力?」
「そんなに驚くことか?」
たしかに、伊能の言うとおりだ。だが、法務省の管轄する施設においても、こういうことがあることにショックがあった。
警察官は、警察庁。
裁判官は、最高裁判所。
検察官は、検察庁。
これまでの黒幕による汚染は、いずれも法務省とかかわりのある機関ではあるが、あくまでもそれぞれ独立した組織だった。しかし拘置所を所管するのは、まぎれもなく法務省なのだ。
陶子は、救いを求めるように伊能を見た。
「何度行っても、門前払いだろうな」
異議を申し立てても時間のムダだ──伊能の瞳が、そう語っていた。
「なにか案はないの?」
「ないね」
が、それにしては平然としすぎている。
「……なにかをたくらんでるわね?」
「そういうわけじゃない。もうそろそろ、気づいてもらおうと思ってな」
「気づく?」
「こうなることはわかってた。だが言葉で伝えても、理解してもらえないだろ」
どうやら伊能は、面会ができないことを知ったうえで、わざと陶子の好きなようにさせていたようだ。
「なんなの? なにが言いたいの?」
「あんたは、自分の意思で動いてると考えてるだろう」
「……ちがうというの?」
「たぶん、最初からだ」
「最初?」
「あんたが、いまの任務をうけおったとき……そして、おれと知り合うことになったこと」
「もっと、はっきり言って」
「矛盾があるだろう?」
「なんのこと?」
「拘置所と刑務所。そのちがいはあるだろうが、どっちも法務省の管轄する機関だ」
そんなことは、職員である自分のほうがよく知っている──陶子は思ったが、口には出さなかった。
「一連の関係者の一人に面会した人物がいたな?」
倉田への面会者のことを言っているようだ。
「どうして倉田に面会できた?」
「え?」
それは、面会の申し込みをして、それで許可されたからだ。その基準は、死刑囚よりはゆるい。基本は親族ということなるが、仕事の同僚、恋人や友人でも認められることはある。
つまりは、その人物に許可がおりたということだろう。
「これまでの流れを考えれば、許されるわけねえよなぁ」
「……」
黒幕にとって、最も触れられたくない暗部なのだから、伊能の主張が正しい。森元拓の娘が面会できないのなら、倉田への面会が許されるわけはない。その当時は黒幕の権力が弱かったのなら話はべつだが、黒幕は世代交代をしながらも、三十年以上はゆうに権勢を謳歌しているのだ。
倉田に面会できたとしたら……それは──。
「黒幕の一味……」
「そうだ。それでいて、黒幕に反旗を翻している人間。いや、最初からそのつもりで近づいたのかもしれない」
三崎京香がいっしょにいることも忘れ、陶子は伊能の発言にくぎづけとなっていた。
「すべての絵は、そいつが描いた。そして──」
伊能はそこで、ためをつくった。
「そんなことができるのは、一人しかいない」
陶子だってバカではない。そこまで言われれば……いや、いまだけでなく、伊能はこれまでもそのことを示唆していた。
倉田に面会した人物──すべての絵を描いたのがだれなのか、それはわかっている。
北島だ。
上司として陶子を誘導している。
おそらくは、三五年前の政治家殺傷事件で負傷した尾木政夫の秘書だった北島真司は、父親なのだろう。
(だけど……)
陶子は、そう結論づけることに抵抗があった。伊能は北島に会ったことがない。いわば、知らない人間に対して一方的に論じていることになる。
真偽を確かめたくても、北島とは連絡をとれないままだ。
「あなたの言うとおりだとしても、事態はなにも進展しないわ。こうして圧力をうけて、なにもできない」
「そのことは、大丈夫だ」
「え?」
「奥の手を使う」
「なんなの、まえも言ってたけど……なにをするつもり?」
不安を感じて、陶子はたずねた。
「権力者を変えるのさ」
「変える?」
「かつて黒幕が世代交代をしたようにな」
「……どうやって?」
恐る恐る陶子は声をあげた。
「それは知らないほうがいい」
この男がそう口にするということは、まともな方法ではない。
「犯罪をおかしたら、刑務所に逆もどりよ」
伊能は仮出所ではないから、即収監ということにはならないだろうが……。
「しばらく眼をつぶれ」
「……」
「大丈夫だ。殺しはやらない」
「信じていいんでしょうね?」
伊能は、フッと笑っただけだった。
「わたしは、どうすれば?」
「とりあえず、今日一日は一人で活動してもらうから、身の安全を確保してくれ」
「今日中に、どうにかできるの?」
「ああ」
伊能は、三崎京香へ向き直った。
「できれば明日、同じ時間にここへ来てもらうことはできるか?」
無茶なお願いだった。今日だって、どうにか休みがとれたのだ。
「……わかりました」
しかし彼女は、少し考え込んだだけで了承してくれた。陶子は意外に思ったが、
「とても重要な局面なんだと思います……わたしの家族のためなんです」
自身に言い聞かせるように、彼女はそう続けた。
「じゃあ、あんたは溝口にでもかくまってもらえ。彼女のほうは、この時点ではなにも知らないから狙われることはない」
「待って、溝口さんのことを疑ってるんでしょう?」
「ああ。だからこそ、やつを使う」
「?」
「あれをよこせ」
「あれって?」
「倉田のレコーダーだ」
言われるままに陶子は、重要な証拠を渡した。彼の手にのせる寸前、ためらいが生じた。
この男を信用しきっていいのだろうか?
倉田の残した証言を土産に、黒幕に寝返るかもしれない。多額の現金と引き替えにすることは、充分に考えられる。
「……」
表情は変わらなくても、伊能にはいまの危惧がわかってしまったはずだ。
が、伊能も陶子自身も、そのことは受け流した。
「いいか、溝口に会ったら、こう言え。倉田が残した証拠は、おれが持っていると。そうすれば、たとえやつがむこう側の人間でも、おれをどうにかするまでは、あんたを守ってくれるはずだ」
* * *
まさしく、ここからが正念場だ。
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