第25話
25
その夜は、車のなかですごした。
陶子が眠るときは停車させて、伊能が起きていた。伊能が寝るときは、陶子が起きて運転していた。
空港で一番早く帰れるチケットを購入し、昼前には羽田に到着していた。
陶子はまず、北島に連絡を入れた。やはりつながらず、留守電にメッセージを残しておいた。
「これから、どうするの?」
「とりあえず、別行動はひかえたほうがいいだろうな」
「やっぱり、こっちも危険なの?」
「むこうほど、あからさまなことはおこらないだろうが、用心はしたほうがいい」
警察組織すら操って、殺し屋が跋扈する。まさしく無法地帯だった。
息を引き取った倉田がホテルで発見されているはずだが、それすらニュースになっていない。ということは、あの巨漢の殺し屋も捕まっていないということだ。
伊能にとってそれは、驚くことのない想定内の出来事のようだった。
「ねえ、溝口さんに会ってみない?」
伊能は、なぜ?、という瞳を向けた。
「言ったでしょ、心配してくれてたって」
「どうせ、おれといることをだろ」
そのとおりだ。
「でも、情報をくれたわ」
「どんな?」
そのことは、まだ伊能には話していなかった。
「あなたに護衛を頼んだ男についてよ」
元高陽会の組長で、伊能に息子を殺された男──高木虎雄についてのものだ。
「その男は現在、中国人と親しくしてるって」
「中国人?」
「なんだっけ……『華西』という企業だったと思う」
それを聞くと、伊能は少し考え込んだ。
「ほかには?」
「それだけよ」
あとは、伊能に対する注意だけだ。
「かけるからね」
伊能の了解をとらないままに、陶子は溝口に連絡をとった。しかし留守電になっていて、つながらなかった。
「ねえ、それはそうと、いまの話だけど」
場をつなぐために、陶子は会話を続けた。
空港内のベンチに座った。
「なんだ?」
「高木虎雄のこと」
途端に、興味がうせたような顔になった。
「もう倉田から守るという依頼は関係なくなったのよね」
「そうだな。まあ、本当に倉田から守ってほしかったのかは疑問だが」
伊能も、となりに腰をおろした。
「でも、藤堂と同じようなものだったんじゃないの?」
黒幕のしもべだった彼らは、黒幕が世代交代したことによって、だんだんと邪魔な存在になっていった。そして、倉田によって消されることになった。
倉田自身が、そのように語っていた。
「どうだろうな……。それにしちゃ、おかしな感じだ。《
高木虎雄の下で動いていたのが、あの沼崎の息子だという。
「やつが黒幕の反対勢力なのかどうか……」
「なんと言ってたの?」
「そこは曖昧に答えてた。もし黒幕側の人間なら、高木が狙われていたのは嘘になる」
「反対側なら?」
「本当に狙われていて、高木虎雄には守ってくれる人間が必要だった。やつは、そこにつけこんでおれを紹介した。やつは、おれと高木を結びつけたかったようだからな」
「なぜ?」
「さあね。だが、倉田の話にヒントがあるだろう」
倉田は、自分の身代わりで死刑囚となった人物を気にしていた。森元拓という名前だ。
「そのことも、溝口さんに聞いてみるつもり」
携帯が鳴った。ちょうど、溝口からの折り返しがかかってきた。
「溝口さん? 香坂です」
『いま、どこにいるんですか?』
「羽田です。いまもどってきたばかりです」
『そうですか……』
溝口の声音は、どこか普通ではなかった。
「なにかあったんですか?」
『伊能はそこにいますか?』
「はい、いっしょです」
『ずっといっしょでしたか?』
「え、ええ……いっしょでしたけど」
『彼が一人になったことはなかったですか?』
溝口は詰問口調だった。
「なにかあったんですか?」
『高木虎雄が殺されました』
「え!?」
『ちょうどあなたと、その話をしたあとにです』
それで伊能を疑っているのだ。
「伊能さんはやっていません。北海道では彼一人になるときもありましたけど、東京にもどるような時間はありませんでした」
そもそも、その高木虎雄から命を守るように依頼されていた伊能が、その相手を殺す意味などない。
が、溝口の立場では、そう推理してもおかしくはない。伊能には、高木虎雄の息子を殺した過去があるのだ。
『そうですか……』
「溝口さんに会って話しがしたかったのですけど……」
高木虎雄の件が彼の担当かわからないが、そんな時間はとれないかもしれない。
『マル害のことで、本庁から事情をきかれてたんですが……いろいろと調べていた人物が殺害されたので、眼をつけられたんです』
高木虎雄を調べたことが災いしてしまったようだ。
「申し訳ありません……」
『あやまらないでください。あなたが悪いわけじゃない』
「もし、今回のことで立場が悪くなるようなら、わたしの名前を出してもらってかまいません」
そんなことでは彼にとってプラスにはならないだろうが、責任を感じて陶子は口にした。
『大丈夫です。うまくごまかしましたから……夕方ぐらいになら、会えるかもしれません』
「本当ですか?」
『はい……なんとか』
場所を決めて、通話を切った。伊能が、意味ありげにみつめていた。
「なんか、うれしそうだな」
「なんのこと?」
「いや、いい」
「……それより、あなたに護衛を依頼した人物が──」
「消されたんだな?」
「え、ええ……」
「まあ、藤堂をやった連中だろう」
結局、倉田からは守っても、悲劇からは逃れられなかったというわけだ。
「……約束の時間までだいぶあるけど、どうする?」
暗い話題を避けたかったので、陶子は言った。
「おたがい自分の部屋には帰らないほうがいいだろうな」
北海道でのようなことがあるかもしれない。厳密には、ラブホテルで狙われたのは倉田だが、あんな場面に出くわすのはもうごめんだった。
「溝口に話を聞くまえに、おれたちでも調べておくことができる」
「森元拓の事件ね?」
北島とは連絡がとれないままだから、自分たちで調べなければならない。沼崎の事件のときのように裁判記録からさぐるべきだろうか?
しかし、もう藤堂はいない。ホームページ等で公開されている以外の裁判記録を閲覧することは、さきにのべたように簡単ではない。
「詳細まで知る必要はないだろう?」
伊能にそのことを伝えたら、そう言い返された。
「沼崎の事件──尾木議員殺害だって、まずは図書館やネットで調べたじゃないか」
「それもそうね」
とりあえず、概要だけでも予習しておくべきだ。
溝口とは押上で会う約束をしているから、空港から押上まで直通電車で行き、普通に乗り替え、となりの曳舟で降りた。近くに図書館があるのだ。
新聞縮刷版で、おそよ十七年前の事件を調べた。倉田が逮捕された時期におきたはずの事件だからだ。
犯人とされたのは、森元拓。四人の殺害。
それらをヒントに、その記事をさがした。
「……うーん」
なかなかみつからない。携帯で検索もしてみたのだが、それらしい情報はなかった。四人も殺害された事件なら、当時は大きく報道されていたはずだ。
陶子自身も記憶はない。もっとも、そのころはまだ小学生だったはずだから、たんにニュースを観ていなかっただけかもしれない。
「伊能さんは、覚えある?」
場所を考慮して、小声で話しかけた。
「おれも知らない」
ただし伊能についても、同時期に逮捕されているので、それで知らないだけかもしれない。
「これかな……?」
それらしい記事をみつけた。
十七年前の事件だ。『三鷹市で四人死亡』という見出しだった。内容のわりには、とても小さなあつかいだ。
被害者の名前も記されていない。三鷹市の住宅で、何者かによって一家が刺殺されていた──それだけの記述しかない。新聞とはいえ、これほどまでに無駄のない文章が存在するだろうか。
それから一ヵ月後の記事に、犯人が逮捕されたことが書かれていた。だが、犯人の名前などは載っていない。
「なんなのこれ?」
重大事件でも、犯人の氏名が公表されないことはある。未成年だった場合と、精神疾患が疑われる場合だ。しかしこの事件に関しては、そのどちらもあてはまらないはずだ。
「なにより、あつかいが小さすぎるわ」
それこそ一面で報じなければ、おかしいのではないか?
「簡単な話だ」
乾いた声で、伊能は言った。
「警察、検察、裁判所──それらを自由自在に操れるんだ。マスコミだって同じだろ?」
言われて納得した。たしかにそうだ。
「それじゃあ、調べてもムダね」
「だろうな。たとえ裁判記録を読めたとしても、ろくなことは書かれてないだろうな」
「ICレコーダーに、森元拓という名前が出てきてよかったわ」
それすらなかったら、途方に暮れていただろう。館内を出て、普通に話せる場所まで移動した。
「とにかく、被害者家族が三鷹市に住んでいたことだけはわかったわね」
が、それすらも伊能は否定した。
「信用できない」
「あの最低限の記事でも?」
「たぶん、あの事件については、だれも信じられないし、信じてはいけない」
「……そうかもね」
「だいたい、どうしてその家族が殺されたんだ? 倉田が殺したのなら、なにか陰謀が隠されてるということだ」
怨恨や強盗目的で倉田が犯行をおこなったとは思えない。そこには、黒幕の指令があったはずだ。
「被害者について調べたいわね」
「この調子じゃ、難しいぞ」
加害者ということになっている森元拓も知らないだろう。実際に犯行をおこなった倉田ですら、命令をうけただけで、殺害の理由は教えられていなかったかもしれない。
「それをまちがいなく知っているのは、黒幕本人ね」
「だろうな」
「その人物についてなんだけど……あなたの話した《暴君》じゃないの?」
本人ということはないだろう。年齢が合わない。おそらく、暴君の親……そして祖父。
三五年前の国会議員殺害を指示したのは祖父で、十七年前に世代交代して倉田を刑務所に逃がしたときには、父親──そういう構図ではないだろうか。
「名前は、猿渡というのよね?」
「ああ」
「どうなの?」
「そうかもしれんし、そうじゃないかもしれない」
口ではどちらかわからないように言っているが、伊能自身もそれを確信している。陶子には、そう思えた。
「どんな人物なの?」
「おれは、猿渡本人しか知らない」
「本人の話でいいわ」
「以前、話した以外にはないな」
「じゃあ、その家族については? 噂でも聞いたことないの?」
「噂にすらならないほどの大物だってことだ」
「どこに住んでるとか、わかる?」
「わからない。まさか直接たずねようとしてるんじゃないよな?」
「それがてっとり早いでしょ」
伊能が笑った。
「おれよりも過激になってるな」
時刻を確認した。まだ約束の時間には早かったが、押上駅に向かうことにした。
「ねえ、溝口さんは、どこまで知ってるの?」
「なにについてだ?」
「暴君のこととか……」
「さあね。おれを逮捕したってことしか」
伊能は、答えをはぐらかした。
図書館前でタクシーをつかまえられたので、それで押上に行った。
待ち合わせは、駅から少し離れた場所にある喫茶店だった。その周辺は人通りは多かったが、観光客はあまりいないようだ。
伊能がスカイツリーを感慨深げに眺めていたが、それにはふれず店に入った。いや、入ろうっとしたところで、伊能に止められた。
「こっちだ」
手を引かれたまま、路地に入った。
「ちょっと、どうしたの!?」
路地の先は、行き止まりだった。
背後を振り返ると、数人の男たちがこちらに向かっていた。
てっきり、逮捕前にはまだなかったスカイツリーの高さを堪能していたと思ったのだが、そういうわけではなかったようだ。
伊能は、この男たちの接近を、ツリーを眺めるふりをしてさぐっていた。
この路地に誘い込んだ目的も、これまでの彼の行動からは簡単に読み解くことができる。
伊能が、ス、と男たちに近寄った。
まるで風が絡みつくように、伊能は男たちを瞬時に打ち倒していた。
四人いた男たちが、伊能が触れたと思った刹那、おもちゃのように崩れおれた。彼の戦いぶりを何度も眼にしている陶子でも、驚くほどの体さばきだった。
「う……」
二人は完全に意識を失い、一人は腕を折られて反撃どころではない。残りの一人だけが、かろうじて動けるようだ。
伊能が手加減なしで男たちに迫った理由がわかった。その一人が懐に手を入れて、拳銃を取り出そうとしたからだ。全員が銃器を所持している。
もちろん、彼がそんなことを許すはずもなかった。
足で腕を踏みつけて、男の自由を奪った。
「二つのビルからスナイパーが狙ってたな」
恐ろしいことを伊能は口にした。
「く……」
「撃てなかったろ。射線は、消しておいた」
「き、気づいてたのか……」
悔しそうに男は呻いた。
「伊能さん?」
どうやらこの男たちだけではなく、スカイツリーを眺めながら狙撃手の位置も見破っていたのだ。そういえば、タクシーを降りてから何度か歩くコースを変えれらた。なにげない仕草だったので、たんに歩きやすいところを選んでいるだけかと思ったが、そういうことだったのだ。
「なりふりかまわず消そうとしているようだな」
その口調からは、深刻な色はまったく感じなかった。
まるで撫でるように男の首筋に手をあてると、波が引くように男が意識をなくした。
「倉田が録音した証言を、おれたちがもってると気づいたのか……いや、それはないか。そんなものがあることも知らないだろう……」
「……」
「が、なにか不都合な話を倉田から聞いてると思われたのかもな」
「さっきから、言ってることが呑気なんだけど……」
陶子は、あきれていた。
「とりあえず、行くぞ」
その言葉を、逃げるという意味だと解釈してしまった。
「こいつらは、ほっといてもいいだろう」
「どこへ?」
「待ち合わせ場所にきまってるだろ」
「あ……」
頭から、そのことは消失していた。
「でも──」
陶子は言いかけて、やめた。
「だろうな。ここに来ることを知ってたのは、あの男だけだ」
罠だった……そういうことだ。
「それでも、会いに行くの?」
そもそも、待ち合わせの店に来ているのかもあやしい。
そのことを伝えると、伊能は断言した。
「いるよ」
その根拠は?
陶子は声に出さず、瞳で伝えた。
「溝口が罠にかけたとはきめつけられない」
「どういうこと?」
「やつがマークされていたことはまちがいないだろう。その監視していた人間たちが仕掛けたかもしれない」
「どれぐらい自信があるの?」
その答えによっては、待ち合わせの喫茶店に入るのは危険だ。
「五分五分だな」
「……」
半分の確率なのに、この男が行こうとしているということは、それなりの勝算があってのことだろう。
「……わかった。行きましょう」
「うれしいか?」
「なにがよ」
「いや、なんでもない」
釈然としない思いを声にのせると、陶子は待ち合わせた店へ足を向けた。
* * *
だんだんと、人を信用できなくなっていく……。
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