第21話

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 沼崎の息子と名乗る男が去り、陶子はもうほかに弔問客はないだろうと、なかへ入ろうとしていた。

「ん?」

 そのとき視界のすみに、何者かの人影が見えた。

 陶子の正確な視力と記憶力は、その人物を倉田哲人だと認識した。

 倉田らしき人影は、沼崎の息子とは逆の方向に歩いて行った。

 危険だとわかっていたが、伊能がいないいま、自分で追いかけるしかない。伊能に連絡を入れることも考えたが、早くしないと逃げられてしまう。

 陶子は、慎重に倉田を尾行した。

 100メートルほど進んだだろうか。倉田は目的地などないように、漠然とした足取りで歩を進めている。

 さすがに歩きすぎだと感じはじめた。繁華街に向かっているわけでもなく、幹線道路に出てタクシーを拾おうとするわけでもない。

 まったく彼の目的が浮かんでこない。

 罠にかけられたことを知ったのは、倉田が脈絡なく立ち止まったときだった。

 無言のまま、振り返った。

 瞬間的に眼が合った。

 陶子めがけて、早足で迫ってくる。

 逃げる時間などなく、一気に距離を詰められた。

 陶子は、あれを瞬時に取り出した。伊能が暴漢刑事から奪った特殊警棒だ。

 が、陶子の想像していたとおり、なんの役にも立たなかった。

 警棒で殴りかかるよりもはやく、倉田の手が陶子の口をふさいだ。そのときになってようやく、大声をあげるべきだと考えがいった。

 とにかく叫んだ。

 だが倉田の手のひらが、がっちりとそれを阻んだ。

「あなたに恨みはないが、クライアントが消せとうるさい」

 以前に会ったときとは、倉田の瞳がちがっていた。ここまで冷酷な色だっただろうか。

 口と鼻をふさがれているから、息が続かなくなってきた。このまま窒息させられる……そんな恐怖が襲った。

「落ち着いて、息を整えろ」

 倉田が言った。

 この状況で、そんな真似ができるわけがない。

「クライアントからは消せと命令をうけているが、こっちにもいろいろあってな。あなたがおれを説得できれば、考えなおすかもしれない」

 なにをもって、そんなことを言うのか……。

 これから殺そうとする人間を、からかっていたぶるつもりなのか。しかし、口を押さえる力は弱まっていた。

「わたしに……なにを言わせたいの?」

 なにかの情報を聞き出すつもりだろうか?

 そんなものはもっていない。

「自分で考えろ」

「……その眼が、あなたの本性なのね」

「お気づきのとおり、おれはそういう人間だ」

「殺し屋ってわけ」

「ずいぶん、ドラマチックな言い方だな」

「人を殺して金を稼ぐ、クズってことね」

 なにを話せばいいのかわからないから、挑発してみた。この男がプロなら、こんなことで激昂はしないだろう。伊能の話を信じればだが。

「たいしたもんだな。だが、聞きたいのはそんなことじゃない」

「じゃあ、なんなのよ!?」

 陶子は声を荒げた。

「……まさか、心当たりがないのか?」

「それ、どういうこと?」

「……」

 倉田は、なにかを考え込んでいるようだ。

「……ではなぜ、あなたたちはこんなところまで来た」

「あなたを追ってにきまってるでしょう」

「それだけじゃないだろう。だったらどうして、あの男の通夜に来た?」

「正規の仕事よ。あなたに調査しようとしたことと同じ……沼崎正二さんがあなたに殺されたのは、こっちにとってはただの偶然──」

 口にしていて、陶子も奇妙な符号を感じ取っていた。

「……」

「その様子だと、本当にわかってなかったようだな」

 次の瞬間だった。倉田が舌打ちのような音をたてると、陶子の身体から離れていった。

 ネコ科の肉食獣のように、しなやかに闇夜へ消えていく。

 陶子は、状況を理解できない。

「大丈夫か!」

 もう一匹の獣のように、伊能が姿を現していた。

「……ええ」

 深く息を吐き出しながら、陶子は答えた。倉田は、伊能の接近を察知して逃げたのだ。

「倉田は?」

 陶子は、首を横に振った。

「どこかへ行ったわ」

「ヤツは、殺そうとしたのか?」

「そうよ。でも……殺さなかった」

 あたりまえのことを言った。

 が、陶子のいまの言葉が真実なのだ。

「おれが来たからじゃないな? ヤツがその気なら、仕留められたはずだ」

 恐ろしいセリフだったが、そのとおりだ。

「なにがあった?」

「よくわからない。わたしから話を聞きたかったんだと思う……」

「どんなことだ?」

「……」

「どうした?」

「わたしが、どうしてここにいるのか……」

「なんて答えた?」

「正直に答えたわ」

 正確な文言については重要なことではないので、曖昧に伝えるにとどめた。

「とにかく、倉田も単純に動いているわけではないみたい」

「そうか」

 伊能はそう言うと、しばらく考え込むような仕種をみせた。

「なに? どうしたの?」

「なんでもない……それよりも、今後のことだ。あんたは、どうするつもりだ?」

「どうって……」

「警察の結論を覆して、倉田の犯行だと告発するのか?」

「……それは、わたしの仕事じゃないわ」

「では、なにが仕事だというんだ?」

 伊能は、どこか責めるような口調だった。いつも他人事のような、この男らしからぬ態度だった。

「犯した罪と、受けた罰のバランスを調査することよ」

「そうだったな。その結果、ここに来た」

「なにが言いたいの?」

「いいかげん、あんたにだってわかってるだろう?」

 うすうすは、そうだと思っている。だが、確実な証拠があるわけではない。

「……まあいい。ホテルにもどろう」

 陶子の運転で、すすきの方面に向かった。

「どこまで行く?」

 すすきのを通り越し、郊外まで抜けた。

 一軒のラブホテルで停まった。昨夜とはちがうホテルだった。名前は『ラブチェイサー』という。

 伊能と二人で、部屋に入った。

「なんで、ここなんだ?」

「だって、こういうところのほうが安全でしょう?」

「昨日も泊ったのか?」

「そうよ」

 一人のときよりも、入りやすかった。

「言っとくけど、ヘンなことしないでよ」

「……っていうか、おれがいっしょなら、普通のホテルでよかったのに」

「それもそうね」

 そこまで頭が回らなかった。普通のホテルなら、それぞれ部屋をとれたが、ここでは二人で一つのベッドを使わなければならない。ソファのような、かわりになるようなものもない。

 しかし、ドッと疲れが出たので、ともにベッドに入ることにも抵抗はなかった。それよりも、身体と心を休めたかった。

 命を狙われたことが、想像以上にこたえているようだ。

 あっというまに、朝になっていた。

「起きたか? 移動するぞ」

 伊能は、ずっとまえに起床していたようで、ベッドのなかにはいなかった。

「一応、確認しときますけど、なんにもしなかったですよね?」

 伊能には無視された。

「はやく支度しろ」

 時刻は、八時過ぎだった。ラブホテルを出るのに早いのか遅いのか、経験不足のためにわからなかった。

 出るときは、不自然でないように恋人のふりをした。

「で、どこに行くの?」

 レンタカーに乗り込むと、問いかけた。

「藤堂のところだ」

「でも……」

 陶子は、戸惑った。例の件はちゃんと調べてくれたし、そのさいの電話では、もうかかわるな、と念を押されている。

「今日あたり、いろいろなことがおこりそうだ」

「どんなこと?」

「まあ、ハッピーなことじゃないな」

 伊能の口から、ハッピー、という響きが出てきたのが気持ち悪かった。

 とりあえず、アクセルを踏み込んだ。

「また物騒なことがおこるってこと?」

「倉田が沼崎を消したのなら、次は藤堂にとりかかる」

「だけど、藤堂も人を雇ってるんでしょ?」

「だから物騒なことがおこるんだ」

「戦争みたいな?」

「ああ」

 半分、冗談のつもりで言ったのだが、伊能の返事からは、ちゃかすようなニュアンスは感じなかった。

 これで何度目になるだろう。札幌地検小樽支部に向かった。周辺に近づいたら、伊能が声を鋭くした。

「ゆっくり行け」

 言われたとおりにした。

「とまれ」

 まだ距離があるのに停車した。

「おれは行くが、あんたは来ないほうがいい」

「わたしも行くわ」

 前回は、このケースで伊能だけを行かせた。それで離れ離れになったのだ。

「やめておけ。それでも行くというのなら、止はしないが」

 陶子は、あくまでも勇気のある決断をした。

 つもりだったが……。

〈バン、バン!〉

〈バン、バン、バン!〉

 癇癪玉が破裂したような音がした。

 いまが平和な日常であれば、なにごとかと疑問に感じる程度だろう。が、これまでのことを総合すれば、どう考えても物騒な音響にほかならない。

「や、やっぱり……やめておく」

「それが賢明だ」

 陶子は車内に残り、伊能だけが地検支部に──銃声のほうへ走り出していた。

 いまのが銃声とはかぎらない。とはいえ銃声に聞こえることも事実なのだから、だれかが警察に通報するかもしれない。

 それとも、陶子自身がしたほうがいいのだろうか……。

 そうだ、躊躇している場合ではない。

 110番にかけた。

『事件ですか? 事故ですか?』

「いま、銃声のようなものが聞こえました」

『聞きまちがいじゃありませんか?』

「そうかもしれませんが、とにかく来てください!」

『いえ、たぶん聞きまちがいです。そういうことでしたら、警察官を派遣するわけにはいきません。念のため、その付近からは遠ざかったほうがいいと思います』

 瞬時に矛盾点がみつかった。

「でしたら、念のために来たほうがいいんじゃないですか?」

 近づかないことをすすめるのなら、警察官に見回らせるべきだ。

「あの、それ……おかしくないですか?」

『そんなことはありません。聞きまちがいなのですから』

 そもそも、聞きまちがいだと決めつけている。

「本当に銃声だったら、どうするつもりなんですか?」

『ですから、遠ざかってください、と忠告しています』

 そのあたりから、このオペレーターに不信感しか抱かなくなっていた。

『もうよろしいですか? こちらも忙しいので』

 一方的に切られてしまった。

 本物の警察官が、いまのような対応をするだろうか? しかし、ちゃんと110番にかけている。北海道警の通信指令室につながったはずだ。

 考えられるのは、汚職されている警察官だったということだ。いや、そう単純なものではなく、いまの相手は上からの命令を忠実に守っただけなのかもしれない。警察組織として、この件にはかかわらないことにした……。

 まさしく、無法地帯。

 ここにいるのは、危険だ……。

 伊能には悪いが、この場から離れるべきだろう。

 アクセルを踏み込もうとした。

 そのとき、車内に何者かが入り込んできた。

「え!?」

「だせ!」

 倉田だった。倉田が助手席に侵入してきたのだ。

「な……」

「いいから、はやくだせ!」

 倉田の手には、拳銃が握られていた。しかしそれよりも気になったのは、倉田の身体から流れる大量の血液だった。

 胴体部分に銃撃をうけたようだ。胸なのか腹部なのかは判別できない。シャツ全体が赤く染まっているからだ。もしかしたら、一発ではないのかもしれない。

「どこへ行けというの!?」

 この状況で向かうべき場所は、病院以外にはないだろう。

「いいから、だせ!」

 銃口が、陶子に向いた。

 ルームミラーに、二人の男たちが駆けてくるのが見えた。

 陶子は、車を発進させた。

「どこへ向かうの?」

「……どこでもいい」

「だったら、病院へ行くわよ」

 倉田が睨んでいるのがわかった。だが視線は合わせず、ずっと前だけを向いて運転を続けた。

「死にたいの?」

「……その覚悟はできてる」

「じゃあ、なぜ逃げるの?」

 このまま病院に行かなければ、確実に死ぬだろう。だとすれば、あの場所で撃ち殺されたとしても結果は同じだ。

「まだやることがあるんだ……」

「藤堂武彦を殺すこと?」

「簡単にいくと思ったんだが……油断した。とんでもないやつを雇ったようだ」

「もうやめておきなさい」

「……あなたは、本当にすごいな」

「え?」

「この状況でも、顔色一つ変えない」

「そんなこと言ってる場合じゃないでしょう!」

 倉田は、それには無反応だった。てっきり、無視されたのかと思った。

 ちがった。意識をなくしていたのだ。


     * * *


 このときのわたしは、必死だった。どう行動したかも覚えていない……。

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