第18話
18
北海道の思い出?
なんだそれ。旅行だったのか、あれは。
まあ、いいところだったよ。おもしろい人物にも会えたしな。
* * *
そこを通りかかったとき、ふいに気配を感じた。
地検支部の建物へ向かう途中だ。
「……あんたが、そうか?」
「ほう。よくぞ、わしをみつけることができたな」
その人物は、そんなことを言った。みつけるもなにも、路地の真ん中につっ立っているではないか……。
だが渉には、その意味が痛いほどわかった。
そこにいたのではなく、そこにあっただけなのだ。もっとわかりやすく表現すると、人としていたのではなく、物として存在していた──。
年齢は六十歳前後だろうか……いや、もっと高齢かもしれない。若い可能性もある。
肉体から滲み出る生気のようなものが色濃いから、年齢をわからなくさせているのだ。むろん、それも気配をおおやけにしたいまだからわかることだ。左の頬に、ダイヤ型の痣がある。
「おれが、こんなに近寄らなければ存在がわからなったやつはいない……」
伊能は、冷や汗にも似たものを感じていた。
「ふふふ、こんな北方まで来たかいがあった。おまえさんのような、おもしろい男に出会えたんだからな」
得体の知れない人物は、愉快そうに言った。
「あんた、何者だ?」
「わしは、《かかし》という」
「かかし?」
通り名なのだろうが、奇妙なネーミングだと思った。
「藤堂に雇われたのは、あんたなんだろ?」
「軽々しく、依頼人を明かすことはできない」
その言葉はむしろ否定ではなく、認めているようなものだった。
「安心しろ。おまえさんや、いっしょにいた女性をどうこうするつもりはない」
「倉田をやるつもりか?」
「それは、わしの領分ではない。わしの役目は、監視だけさ」
本当のことなのか、それとも自身の力を謙遜しているのか、かかしはそう言った。
「おまえさんこそ、わしをみつけてどうするつもりだった?」
危険な人間だとしたら、排除することも考えていた。それを言葉には出さなかった。
「物騒なことは、おれの領分じゃないんでな」
相手に合わせるように、渉は答えた。
自分でも気持ちのいいぐらいの嘘だった。
「ははは」
かかしは、屈託なく笑った。
「おまえさんのような清々しい男を、もう一人知っている」
「へえ、どんなやつだい?」
本気で知りたいわけではなかったが、まったく興味がないわけでもない。
「その男は、裏社会の人間だ。おまえさんは、どうやら表の世界で生きようとしているようだ。ならば、会うこともあるまい」
「裏社会に行ったとしたら、会えるのかい?」
「会えるかもしれんが、会ったときが最期になるかもな」
会ったら殺される、ということを伝えたいらしい。
「その人物を藤堂が雇うことはないのか?」
「倉田という男が悪人なら、その可能性はあるかもしれん」
「? どういうことだ?」
「その男は、悪人しか殺さないのでな」
そんな殺し屋が、この世の中にいるというのだろうか?
「さあ、もう行くがいい。わしも、依頼主へ連絡をしなければならないのでな」
「……」
「そうなったら、こんな老いぼれではなく、生きの良い連中がやって来るだろう」
「あんたほどの人間か?」
「さあ、そこまでは関知していない」
この男ほどではないだろう。こんなのが何人もいるわけがない。
それこそ、いま彼の語った殺し屋でなければ、怖がるほどでもない……とはいえ、いまは自分一人ではない。そしてこの《かかし》も、そこの部分を忠告しているのだ。
渉は、その場を離れた。
さすがに忠告してきた人物が襲ってくることはないだろうが、警戒心は消さなかった。
だいぶ離れてから、息を吐きだした。
この世は、広い。いろいろな人間がいるものだ──それを実感していた。
あれから十分経っている。
はたして、香坂はさきに逃げただろうか?
車を停めてあった場所についたとき、二人の男がうろついていた。一人は携帯を耳にあてている。二人がコンビで動いていることは、一目瞭然だった。
どうやら香坂は、男たちが来るまえに発車していたらしい。
「さて」
渉は、わざとらしくつぶやいた。
この男たちは、藤堂の指示で動いている。であるなら、藤堂に警告をあたえなければならない。
音もなく二人に近寄った。
一人の腕を取って、瞬間で肩の関節をはずした。
しかし悲鳴はあげさせない。
口を押えながら、同時に首筋へ打撃を放った。
白目を剥いて、おもしろいように男が崩れ折れた。
そのときになってようやく、携帯を耳にしていた男は渉に気づいた。
正面から掌底を喉に当て、声を殺した。
周囲に人はいないが、これで多少騒がれても、かまわなくなった。
喉への一撃で、意識こそたもっていたが、男の戦意はなくなっていた。もし抵抗されていたとしても、手間が一つ増えるだけで、男をどうにでもできた。
それほどの戦力差がある。
「電話中だったな。相手は、雇い主か?」
渉は、男の背後にまわった。
携帯を持っている腕を動かして、男の耳元にもどした。
「おれの声が聞こえるか?」
渉はそこで、自分の耳にあてたほうがいいことに思い至った。
「聞こえるな?」
『だ、だれだ!?』
「いま会ったばかりだろ」
藤堂が、うめき声のようなものを漏らした。
「おまえが雇った消し屋は、このとおりだ」
男の口元に、携帯を移動した。
だが、男はまもとにしゃべれない。
「なにか言え」
渉は、男のこめかみに掌底を当てた。
それで、どうにか声が出た。
「うう!」
「わかったろ。こういう状態だ。おれたちをどうにかしようとしたのは、失敗だったな」
『ち、ちがう……そんなことはしていない』
「敵にまわったわけではないんだな?」
『あ、あたりまえじゃないか』
いけしゃあしゃあと、藤堂は言った。
「なら、さっき彼女がお願いしたことを忘れたわけじゃないだろうな?」
『も、もちろんだとも』
「しゃあ、一時間以内に調べて、香坂に連絡しろ。わかったな?」
『一時間……』
「どうした? 調べる気がないのか? おまえの雇った《かかし》という男はできるみたいだが、ほかはダメだ。いつでもおまえを狙えるぞ。倉田とおれ、二人に狙われたら、おまえなんてすぐにあの世だ」
『わ、わかった……』
「約束を破ったら、おまえがこの男のようになる」
もう一度、首筋に掌打を放つと、男はくぐもった悲鳴を漏らし、完全に意識を失った。
携帯を地面に落とし、踏みつけて壊した。
これだけ脅しておけば、すぐにでも香坂に連絡をとるだろう。
渉は、気絶した男を人目につかない植え込みのなかへ隠し、その場を離れた。
とりあえず、小樽駅に向かった。
自分がもどらなかったことで、香坂は警戒している。忠告どおり、ホテルを変えて宿泊するはずだ。周囲にも気を配るだろうから、当面は一人でも危険はないだろう。
それよりも、身の安全をはからなければならない人物がいる。
藤堂ではない。正直言って、藤堂が殺されようと、渉にはどうでもよかった。仕組まれた裁判で検察官だった藤堂には同情もしないし、むしろ恨みを晴らすことができる。
列車で札幌にもどり、そこからタクシーに乗った。沼崎正二の働く工房へ急いだ。
沼崎が狙われる確率は、しかしそれほど高いわけではない。本人が語っていたように、尾木政夫殺害が沼崎の犯行でなかったとしても、いまさらそれを証言したとして、だれが信じるというのだ。沼崎は認知症を患っている。どうやっても信憑性を疑われる。そしてなにより、真犯人がいたとしても、すでに時効が成立している。尾木殺害は、時効撤廃よりもだいぶ以前の事件なのだ。
が、渉には胸騒ぎあった。本能で危機を知らせる、太古のご先祖様がもっていたような野生の勘だ。
理屈や論理ではない。
なによりもこの北海道に来てから、倉田の影がまったく見えないことが、この予感を呼び覚ましている。あの《かかし》がいるから警戒して近づかないとも考えられるが、いくら倉田が凄腕の殺し屋であったとしても、かかしの存在を簡単に見抜けるとも思えない。
ということは、倉田の関心は、いま藤堂にはないのではないか?
倉田にしろ、沼崎にしろ、藤堂にしろ、すべてのもとをたどれば同じ人物に突き当たるはずだ。つまりその人物は、すくなくても三五年前から司法・検察・警察をあやつり、裏社会の人間をつかって、思いのままこの日本を牛耳っているということになる。
沼崎に渉たちが接触したことは、おそらく黒幕にも伝わっているだろう。協力を求めた段階で、過去の事件について調べはじめたのを藤堂は知ったことになるし、その藤堂の動きで、黒幕にも流れる可能性がある。いや、そう考えていたほうがいい。
それでなくとも、最初から不安分子である沼崎の抹殺は考慮されていて、倉田がこの北海道に来たついでに消そうということかもしれない。
沼崎の職場は、外から見たら平穏に見えた。
なかを覗いてみても、とくに異常はなく、作業をしている従業員の姿があった。
「どうするか……」
香坂がいない状況で、これからどう行動すべきか、渉は思案した。
法務省の由緒正しい名刺をもっているわけでもなく、元犯罪者で出所したばかりの自分が、のこのこたずねてもよいのだろうか……ガラにもなく、そんなことを考えてしまった。
そうためらっていると、なかから人が出てきた。咄嗟に隠れてしまった。従業員が、いっせいに出てきたようだ。どうやら、午後三時の休憩のようだった。もうそんな時間になっていたのだ。
みな、工房の外にある自動販売機で飲み物を買っている。
そのなかに、沼崎正二はいなかった。なかにいるのか、それとも今日は休みなのか。
渉は、いまここに来たふうをよそおって、作業員のなかにまじっていった。昨日、香坂に応対した男性の顔をみつけていた。
「あ、昨日の」
渉が眼の前に行くと、男性のほうから声をかけてくれた。
「沼崎さんは?」
「ぬまさん? 具合が悪そうだったから、さっき帰ったよ」
「どこに住んでるんですか?」
一瞬、警戒するような瞳になったが、香坂と同じく法務省の人間だと思い込んでいるのか、住まいを教えてくれた。すぐ近くのアパートだった。
渉は、そこへ向かった。歩いて三分ほどのところにある古びたアパートだった。部屋は一階になる。ノックをしてみるが、反応はない。ノブを回すと、鍵はかかっていなかった。
在宅してるなら、鍵をかけないことも多い。が、それにしては人の気配がなかった。
渉は、ためらうことなく、室内に入った。
布団のなかで、沼崎が眠っていた。
もう二度と眼を覚ますことはない……。
沼崎の顔のすぐ横に、枕があった。それを顔に押し当てて、窒息させられたのだ。
倉田の犯行だろう。
調べればすぐに窒息死だと判明するはずだが、おそらく病死として片づけられるはずだ。それを計算して、入念に痕跡を消すようなことはしていない。
警察にも息がかかっているだろうから、検視官はあてにならない。かといって、この北海道の地は監察医制度の外になるから、行政解剖もおこなわれない。
これらの知識は刑務所に収監されるまえのものなので、現在でも通用するかわからないが、たぶん自分の読みどおりだ。
「……」
渉は、これからの展開で、一つ注意しなければならないことを思い描いた。さきほど、沼崎の工房で話を聞いたのは失敗だったかもしれない。
倉田を動かしている勢力の人間からすれば、このまま病死で片づけるのではなく、殺人にして渉に罪をなすりつけるという選択もできることになった。
とにかく自分の痕跡だけは消して、渉は部屋を出た。この周囲に防犯カメラはないようだから、あの工員たちの証言がなければ、自分にまで捜査がおよぶことはないだろう。
どっちに転ぶかは、半々だ。
警察が少しでも殺人の線を追えば、証言をとるだろう。はじめから、かたくなに病死と断定すれば、それはない。
渉にとっては後者が望ましいが、もし最初に現場を見た刑事が黒く染まっていなければ、前者になるかもしれない。ただし、証言をとって渉の存在がわかったとしても、上からの命令で捜査がストップすることもある。ヘタに罪をなすりつけることによって、三五年前の件が公になることを黒幕がよしとしない可能性も残されている。
あまり考えても意味がないことに、そこでようやく気がついた。
つまりは、黒幕がどう結論を出すか……それにかかっているのだ。
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