第17話

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 沼崎正二に刺された、もう一人の男性──尾木議員の秘書をしていた男性を調べてみることにした。

 とはいえ、三五年前のことなので、どのように調べればいいものか……。北島からみせてもらった資料には、殺害された尾木政夫の名前しかなかった。

 ネットの検索では、尾木個人についてや、事件については記されていた。が、秘書の名前となると、まったく記載がなかった。新聞の縮刷版で当時の記事を読んでも、秘書の名前だけはどこにもない。

 北島のルートから調べてもらおうとしたのだが、北海道に来てから、なぜだか電話が通じない。

 そこで、警察に問い合わせればいいのではないか、と伊能から意見が出た。しかし事件の発生はこの北海道なので、溝口に協力をあおぐということはできない。

 では、裁判記録を見ればいいのではないか、と伊能は続けた。

 国民は、だれでも裁判記録を閲覧できる権利がある──その原則は、しかし現状では守られていない。事件関係者以外の閲覧は、まず認められない。ただし判決文に関しては、それよりもハードルがさがる。インターネットでも一部の判決文が閲覧可能だ。とはいえ、三五年前のまだデジタル化されるまえの事件が載っているわけもなく、もしそれにかけるなら、札幌地検に直接行くしかない。裁判記録の保管は、検察庁の管轄だ。

 そこで、陶子はひらめいた。

 検察庁に行くなら、札幌ではなく、小樽の支部に行ったほうが得策だと。その支部長とは、面識がある。

「協力してくれると思ってるのか?」

 札幌のホテルで一泊し、チェックアウトしてから、すぐに小樽へ向かった。車中で、伊能が反対の意をしめす。

「藤堂武彦が、その一件にからんでるかもしれない」

「さすがに、それはないわよ」

 五十代の藤堂とはいえ、三五年前なら学生か、検察官になっていたとしても、新人だ。

 伊能もそれはわかっているはずだが、さきほどから反対意見しか口にしていない。楽天家のはずの彼が、どういうわけか慎重派になっている。

「協力してくれるわよ」

「どうしてそう思う?」

「藤堂は三五年前のことには関係していない。とすると、わたしたちとそのことで対立する必要はないでしょ?」

 伊能が、ため息をついた。その仕草が癪にさわった。

「なんなの? 言いたいことがあるなら、ちゃんと言って」

「あんたが、そんなに楽観的だったとはな」

「……」

 このことにたいしては、おたがいの性格が逆転してしまっているようだ。

 話がまとまらないうちに、小樽についていた。さすがに運転にも慣れたから、危険な状況には一度もならなかった。

「藤堂が三五年前のことにからんでいなかったとしても、その系譜にはかかわっているかもしれない」

 車を停めてからも、伊能は反論を続けていた。

「系譜?」

「あんただって、少しは気づいてるんだろう?」

「……」

 陶子は、押し黙ってしまった。

 つまり伊能は、そのころから何者かの権力者によって謀殺が繰り返され、警察組織や裁判をコントロールしている流れが続いているのではないか、と疑っているのだ。

「大丈夫よ、わたしにまかせて」

 根拠もなく、それだけを言い返した。

 藤堂への面会を申し込むと、今度もすんなりと会うことができた。

「こうも連日、よく来るものだな」

 あきれとも、関心ともつかぬような声だった。

「今日は、お願いがあって来ました」

「お願い?」

「ある事件の裁判記録を見たいんです」

「それなら、正式な手続きをとれば見ることができる」

「それは建前でしょう? 実際には、部外者が見ることは難しいはずです」

「それが、わが国の制度だと思ってあきらめるんだな」

「お願いします。知りたいのは、三五年前の事件です」

「三五年前? ずいぶん、むかしのことだな」

 自らがかかわった事件だと思っていたのだろう。無関係の事件だと知って、藤堂の警戒心が薄らいだように感じた。

「政治家の尾木政夫が殺害された事件です」

「ああ、覚えてるよ。当時は、大学生だった。現職の国会議員が刺殺されたんだ」

「わたしたちが知りたいのは、そのときいっしょに襲われた秘書についてです」

「秘書? そういえば、そうだったかもしれんな。重傷を負った秘書がいたかもしれん」

「その方の名前が知りたいんです」

「……いいだろう。その名前を調べるだけでいいんだな?」

「お願いできますか?」

「ただし……今後、私につきまとわないと約束できるなら」

「……」

 陶子が答えに窮していると、伊能が口を挟んだ。

「おれたちのほうから会うことはない。だがいずれ、あんたのほうから会いたくなるさ」

「なにを言っているのか理解できないが……そういうことならいいだろう。こちらから会いたいような状況になどならないだろうからな」

 わかったらすぐに電話をくれるように、陶子の名刺を渡した。



「ね、うまくいったでしょ?」

 地検支部を出て車に乗り込んでも、伊能の顔は憮然としていた。

「なにが気に入らないの?」

「流れがヘンだ」

「なに、それ」

「いくら自分に関係がないといっても、おれたちに協力しようとするか?」

「だから、わたしたちがこれ以上、つきまとわないようにするために、承諾してくれたんでしょ」

「……その気なら、面会を断わればすむことだ」

「それもそうね……」

「このあとの行動が問題だ」

「どういうこと?」

 伊能は、周囲を見回した。だが、車外に不審なところはない。

「藤堂は、安心している。おれたちのことを邪魔だとも思っていない」

「なにが言いたいの?」

「それは、おれたちの存在など、すぐに消せると考えているからだ」

「消すって……まさか」

「その、まさかだ。藤堂の近くに、いる」

 藤堂の雇った人物──。

「倉田のほうから近づいてくるのを待ってるんだ」

「あなたの眼から見て、どうなの?」

「なにがだ?」

「倉田が勝つの? それとも、藤堂の雇った人間?」

「藤堂が、だれを雇ったかによる。が──」

 伊能は、あえてなのか溜めをつくった。

「たぶん、倉田が勝つ」

「どうして?」

「何者かは、倉田を刑務所に入れてまで守ろうとした。それほどの人間だということだ」

 一応、根拠はあるようだ。

「いま、わたしたちをどうにかするということはない?」

「可能性は捨てきれない。だから用心してる」

 とりあえず、車を出した。

「ねえ、これからどこへ向かえばいいの?」

「札幌にもどれ」

 北海道に来てからというもの、札幌と小樽を非効率に往復している。

 しかし、少し走ったところで、

「とめろ」

「え?」

「いいから」

 わけもわからず、陶子はブレーキを踏んだ。

「藤堂の雇ったやつを確かめる」

 ドアを開けると、伊能は軽やかに車外へ出た。

「十分でもどらなければ、おれを待たなくていい。昨日とはちがうホテルに泊まれ」

 それだけを言い残して、伊能は走り去っていった。

 たぶん、地検支部の周囲にいるであろう藤堂の雇った刺客をさがしにいったのだ。

「……」

 そのまま、三分ほどが経過した。

 携帯が鳴った。

「もしもし?」

 相手は、溝口だった。弁護士殺害事件のときに、番号を交換していたのだ。

『いまそこに、伊能はいますか?』

「いえ、いまはいません」

『ちょうどよかった』

 ということは、伊能には知られたくない内容のようだ。

『高陽会について知りたがってましたよね』

「はい」

 高陽会の息子を殺害したのが伊能だと、そのとき教えてもらったのだ。

『そのことなんですけど──』

「なにかありましたか?」

『元組長の高木虎雄のことを調べてみたんですが、妙な噂を耳にしたんです』

「噂? どんなものですか?」

 倉田から命を狙われているというやつだろうか?

『中国の企業で、華西というところが日本にも進出しているんですが、そこの会長と高木虎雄が懇意にしていると……』

「その会社は、大きなものなんですか?」

『日本での規模はよくわかりませんが、本国ではかなり大きいようです』

 元組長と中国の大企業──。

 いったい、なんのかかわりが……。

「その関係は、むかしからなんですか?」

『むかしからの知人という可能性はありますが、華西が日本に進出したのは、十年前です。そのころには、高陽会はすでに解散しています』

 いまはさすがにないだろうが、かつては外国の企業が日本に進出するために黒社会と手を組んでいることは、それほどめずらしいことではなかったはずだ。

 が、十年前でそれは難しいし、そもそも組織を解体したあとで近づくのは、企業側にメリットはないような気がする。

『たんなる知人同士ということかもしれませんが……』

 たしかに気になる情報だ。

『伊能は、おとなしくしていますか?』

「え、ええ……まあ……」

『そうですか、おとなしくしていませんか』

 顔が見ないこのシチュエーションでは、声音だけで判断されてしまう。表情でごまかすことができない。

『いまどこにいるんですか?』

「小樽です」

『小樽?』

 少し驚いたようだった。

『どうしてそんなところに?』

「いろいろありまして……」

 調査のため、と伝えれば済んだことかもしれないが、本来の用事は倉田の件なので、そう言うにとどめた。

『そうですか。とにかく、伊能といるのなら注意してください。どんな危険に巻き込まれるかわかりませんから』

 それで通話は終わった。声を聞くかぎり、本当に心配しているようだった。

 車内の時計を確認した。すでに、十分経っていた。

「……」

 伊能の姿は周囲にない。

 どうすべきか……。

 陶子は、アクセルを踏み込んだ。

 たとえ伊能が何者かの襲撃をうけているのだとしても、あの男なら死ぬことはない。それよりも伊能のいないこの状況で、危機に瀕しているのは自分自身のほうだ。

 いまは遠くへ逃げるのが先決だった。


     * * *


 一人とは、これほどまでに心細いものだったろうか……。

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