第15話

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 夜のうちに北島へ報告を入れたが、北海道へ行くことを伝えたら、明朝会いたいと言われた。

 飛行機は八時半の便がとれたので、いつもの喫茶店で会うことはできない。開店が九時だからだ。北島のほうから、羽田空港に来てくれるということだった。

 第1ターミナル駅内の喫茶店で待っていると、約束の時間ピッタリに北島はやって来た。伊能はいない。彼が空港に来るのは、あと三十分ほどあとだろう。

「おはようございます」

 この喫茶店は、六時半から営業している。陶子は、ほぼ開店時間に来店していた。早朝だというのに、店内はこみあっている。

「倉田哲人が北海道へ行くというのは、本当かね?」

「はい」

 自信があるわけではなく、そもそもこの考えは伊能のものなのだが、陶子はそう答えた。出張費を出してもらう手前、たぶんとか、だと思います、というような曖昧な表現をつかうわけにはいかない。

「君の活動に制限はない。必要だと思うなら、海外にだって行っていいさ」

 実際には、さすがにそこまで許してくれないだろう。

「それで……」

 陶子は、本題をうながした。わざわざ会いたがったのは、ねぎらいや自由にやっていいという言葉を伝えるためではないはずだ。

「ああ、そうだったね」

 北島は、いつものように書類を取り出した。

「せっかく北海道まで行くんだから、それにあった調査をお願いしたい」

 新しい任務をうけるとは思ってもみなかった。

「まあ、小樽ではないが」

 そう前置きをしてから、続けた。

「二年前に出所している沼崎正二。札幌にある更生保護施設の所長が身元引受人だ」

「でも二年前なら、施設はもう出てますよね」

 通常、施設に入居できるのは六ヵ月ほどだ。二年だと、刑期も満了になっているかもしれない。そうなると保護観察も必要ないから、札幌にいるとはかぎらない。

 その旨を伝えると、

「いや、それはない」

 ということは……。

「沼崎は、無期懲役だ」

 無期懲役をうけた調査対象者は、これがはじめてだ。

 無期懲役囚の仮出所は、刑期満了が存在しない。毎月、保護観察官や保護司との面談をしなければならないし、転居や旅行が制限されてしまう。

 そして、犯罪を一度でもおかそうものなら……たとえそれが、無免許運転や万引きのような凶悪犯罪と呼べるものではなかったとしても仮出所は取り消しとなり、刑務所にもどらなければならない。その場合、まず二度と塀の外に出てくることはないだろう。

 当然、行方をくらますようなおこないも取り消しの対象となる。

「わかりました。その男性を調査すればいいんですね」

「これが、資料だ」

 眼を通した。いつものように、水をかけてすぐに消した。

「あと、これは溶けないやつだ」

 そう言って北島は、一枚の写真を出した。倉田の顔写真だ。今朝会うのならと、昨夜の電話で陶子自身が求めたものだ。倉田を追う以上、聞き込みのときに写真が必要になるかもしれない。

「とりあつかいには注意してくれ」

「わかってます」

 了解したうえで、写真を受け取った。

「……本当に行きますけど、いいんですよね?」

 昨夜の伊能の言葉があったので、念を押した。もしかしたら、北島にもなにか情報が入っているかもしれない。

「もちろんだよ」

 北島には、なにも懸念はないようだった。伊能の思い過ごしなのか、それとも……。

「では、私はこれで失礼するよ」

 北島は帰っていった。それを席で見送ってから、陶子も立ち上がった。

 もし北海道で危険が待っているとして、北島がそのことを察知しているとしたら……そのうえで、止めないのだとしたら……。

 北島と伊能。

 陶子の信じるべき二人のうちの一角が、崩れることになる。



 伊能と合流すると、昨夜の真意を問いただした。

「どれぐらい危険なの?」

「行ってみなけりゃわからん」

「暴君が言ったの?」

「そうだ」

 だとすれば、不吉だ。

「いま、あっちは無法地帯だとよ」

「どうして猿渡という男が、そんなことを知ってるの?」

「ヤツも噛んでるってことだろ」

 なにに噛んでいるというのか……?

「倉田のこと?」

「ああ。きっと、それだけじゃない。いろいろな悪事には、あの男が一枚噛んでるんだ」

 倉田の裁判と、伊能の裁判が、なにかしらつながっているというのは、同じ藤堂武彦がからんでいることで、うすうすはわかっていた。

「じゃあ、あなたの言っていた黒幕って、やっぱり暴君なの?」

「そこまでは、わからん」

 答えの出ないまま、陶子と伊能は飛行機に搭乗した。

 その間──札幌空港に到着し、空港を出るまでは、おたがい会話はなかった。

 北海道でのはじめての会話は、レンタカーを借りるかどうかを相談したことだった。おたがい借りたほうがいいと考えていたのだが、だれが運転するのか、という難問があったために揉めたのだ。

 伊能はかつて免許をもっていたそうだが、服役中に失効している。陶子は免許をもっているが、ほぼペーパードライバーなのだ。

 どちらが運転するのかと問われれば、答えは明瞭だ。真っ当な社会人が、無免許運転を推奨するわけにはいかない。

「わたしが運転するの?」

 それしかないのは、陶子にだってわかる。

「公共交通機関でもいいんじゃない?」

 北海道では、車が便利──そういう常識は当然知っている。が、小樽の地検支部は街中だし、新たな調査対象者は札幌市内に住んでいる。札幌・小樽間の交通は充実しているから、必ずしも車でなくてもいいはずだ。

「さっき言ったろ。なにがあるかわからないんだから、車がベストだ」

 たしかに危険があるのだとしたら、伊能の言うとおりだ。

「大丈夫だ。おれが横でアドバイスするから」

 そんな気休めに騙されたわけではないが、到着して早々、こんなところで時間を浪費するわけにもいかないから、レンタカーを借りた。

「やっぱ、おれが運転しようか……?」

 わずか三分ほどで、伊能が言い出した。

「そんなわけにいかないでしょう!」

 陶子は、なかば怒っていた。不慣れな運転をさせられて、なんだかムカついていた。べつに伊能に対しての怒りではなく、かといって自分自身へのふがいなさに憤っているわけでもない。

 怒りの矛先が曖昧で、なおかつ反省のしようのない、もやもやした感情だ。

 キィィィー!

 けたたましいブレーキ音が、北の大地に響き渡った。

 赤信号になったからブレキーを踏んだのだが、助手席の伊能が呆然としていた。

「おれを殺す気か?」

 青に変わったので、アクセルを踏み込んだ。

 想像以上に、Gがかかった。

「踏みすぎだ!」

 いつも飄々としたこの男が声を荒げたところをみると、本気で怒っているらしい。

「もっとやさしく運転しろ」

「だから、ムリだって言ったじゃない!」

 陶子は、自身でも逆ギレしているのは承知していた。

 そんなことを繰り返しながら、どうにか運転にも慣れてきた。

「で、どっちに向かってるんだ?」

 ようやく安心できたのか、伊能がそう問いかけた。

「小樽よ。藤堂武彦に会いに行く」

「本当に、小樽まで行くのか?」

「そうよ。文句ある?」

 本当に、小樽まで行けるのか──という意味だったらしい。

「おれは、たいがいのことでは死なないと思ってたんだが……」

 伊能の戯言は無視して、目的地へ急いだ。

 札幌自動車道に乗ってしまえば、あっというまだった。

「おれの寿命は確実に縮まったがな」

 もはや、伊能の言葉は耳に入れないようにしていた。

 札幌地検小樽支部は、地図で見ると小樽駅の近くで栄えている場所にあるのではないかと思えるが、実際には閑静な住宅街のようなところだった。観光客が出入りするのは、バスターミナルのある線路の向こう側だ。

 たずねると、赴任したばかりの藤堂武彦に会うことが許された。予想していたよりも、迷惑そうな素振りはなかった。

「遠いところ、ご苦労だったね」

 嫌味はふくまれているだろうが、それほど強烈ではない。

「突然の転勤でしたね」

「そうだな。まさか、こんなことになるとは思わなかったよ」

 しらじらしく、藤堂は言った。

 それとも、本当に自身の希望は反映されていないのだろうか?

「異例のことじゃないですか?」

 異例の降格じゃないですか──と言うべきところを、オブラートに包んだ。

「異例といえば、異例だろうね」

 それ以外のなにものでもないのに、藤堂は「稀にあること」ぐらいの口調で語っていた。その表情を見るかぎり、落胆はしてない。それと同時に、恐怖などもない。

 もしここへ逃げるために転属を画策したのだとしたら、もっとおびえていなければならないのではないか。東京にいる倉田から離れたといっても、倉田だって北海道に来ることはできる。

「うらやましい」

 それまで黙っていた伊能が、唐突に口を開いた。

「ここは空気もいいし、食べ物もおいしい」

「そうだな。せっかくこっちに来たんだから、せいぜいのんびりするさ」

 地検の仕事は激務で、支部長ともなると、ゆっくり休む時間もないはずだ。どこかの天下りポストとはわけがちがう。

 結局、たいした話もできず、二人は地検支部をあとにした。

「どう思う?」

 伊能の率直な感想を聞きたかった。

「なるほどな」

 伊能は、一人だけで納得していた。

「なに?」

「そういうことなのか、と思ってな」

「なんなのよ。説明して」

「藤堂は、自ら進んでここに来た」

「逃げてきたってことでしょ?」

「ちがう。逃げるために、ここへ来たんじゃない。だいたい海外ならまだわかるが、同じ日本なんだから、逃げたことにはならないだろう」

 陶子も考えていたことを、伊能は指摘した。転勤先を守秘したとしても、倉田の背後に大きな力が控えていた場合、そんなものは無意味だ。藤堂にも、そのことはわかるだろう。

「じゃあ、その逆で、ここに左遷されたってこと?」

 それはつまり、何者かの思惑で、ここに追いやられた。

「倉田が始末しやすいように?」

 物騒なことを陶子は口に出してしまった。

「逃げたのでもなく、ここに追いやられたのでもない」

「じゃあ、なに?」

「たとえ黒幕の力によって追いやられたのだとしても、藤堂にも策があったんだ」

 陶子は、少しイラついた。

「はやく結論を言って」

「藤堂も、やる気なんだ」

「なにをやる気なの?」

「目には目を、ってやつだ」

「それって……」

「猿渡の言葉が真実なら、ここは無法地らしい。藤堂にとっても、やりたい放題ができるってわけだ」

「藤堂は、反撃するつもりなの?」

 倉田がプロの殺し屋だというのなら、勝負は眼に見えている。

「自分でやる必要はない」

「え?」

 それはつまり──。

「藤堂も、プロを雇ったってことだ」

 伊能の声には、不謹慎にも楽しげな響きがこもっていた。


     * * *


 せっかくの北海道。

 卒業旅行以来だというのに、のんびりするどころか、ますます物騒になっていく……。

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