第13話

       13


 倉田哲人のアパートを監視できる場所に、一台の車が停まっていた。運転席と助手席に刑事らしき人影がある。

 溝口とは、さきほど北千住で会っているから、べつの捜査員だろう。

「どうした?」

 伊能に声をかけられた。

「え、べつに……」

 そう答えたが、本当は違和感を抱いていた。

 あとになって思い返せば、この勘を大切にしておけばよかった、と後悔することになるかもしれない。とはいえ、ここで立ち止まるつもりはなかった。

 陶子が先導するかたちで、倉田の部屋の前に立った。ノックをしようと、伊能の眼を見て確認をとった。だが、伊能は首を横に振った。

「どうしたの?」

「いない」

「わかるの?」

「たぶん、いない。気配がない」

 一応、ドアノブをひねってみた。一瞬、さきほどの弁護士事務所でのことが脳裏をよぎったが、鍵がかかっていた。

「警察が見張ってるのに、どうやって?」

「よく考えてみろ。昨夜に犯行をおこなったのなら、この状況でも外へ出たことになる」

 たしかに、そういうことになる。

「だがいまは、べつの可能性もあるがな」

「え?」

 そのときだった。

 シュン、と風を切るような音。

 ほぼ同時に、陶子の身体は跳ね飛ばされていた。

 天と地がわからなくなる浮遊感。

 その直後、背中に衝撃がきた。

「う……」

 なにがおきたのか理解できない。

「な、なに……?」

 陶子は、地面に倒れていた。

 伊能が、二人の何者かと格闘している。

 二人の暴漢の手には、棒のようなものが……。

 その武器と、その二人の顔を見て、ようやく状況が脳内に浮かび上がった。

 張り込みをしていた刑事たちだ。

 彼らは、倉田哲人を監視していたわけではなかった。倉田に接触しようとする人間を見張っていたのだ。

 特殊警棒で襲われたところを、伊能に突き飛ばされて、救われた。

 縦横無尽に走る警棒の軌道をすべて見切っているかのように、伊能にはまったく当たらない。それどころか警棒の攻撃よりも速く、伊能の右手が相手の顎をとらえた。

 嘘のように、一人が失神した。

「あんたらは、警察か?」

 微塵も息を切らすことなく、伊能が問いかけた。

 その様子で格闘での勝機のなさを悟ったのだろう。残りの一人は、さらなる暴挙に出た。

 特殊警棒をあっさり捨てると、懐に手を入れた。引き抜いたのは、自動式の拳銃だった。

 陶子は瞬間的に、この男たちは殺すつもりだったのだ、と想像した。

 信じられないものを見た。

 伊能の動きだ。

 銃口が向けられた刹那、疾風のように接近すると、流れるような動作で左腕が踊り、その銃をつかんでいた。敵の指をからめるように拳銃をひねると、相手はあっさりと手放した。

 引き金に力をこめる時間をあたえなかった。

 暴漢の顔が、嘘だろ、と眼を見開いていた。

「しょせん警察官とはいえ、銃器に関しては素人だ」

 拳銃と相対したとは信じられないほどに、伊能の声には恐怖も緊張もなかった。

 まるでオモチャをいじっているように、拳銃が解体されていく。分解されたパーツが、落ち葉のように地面へ散った。

「どうする?」

 その伊能の問いかけが、ひどく場違いだった。

「ちなみに、おれなら四五秒で組み立てもできる」

 銃器も奪われ、打撃武器も通用せず、暴漢は完全に戦意をなくしていた。不用意に逃げることもできないのだろう。ここまで圧倒的戦力差をみせつけられると、背中を向けるということが自殺行為に思えるはずだ。

 伊能が、一歩前に出た。

 それだけで暴漢は尻餅をついた。

「倉田哲人に近づく人間を見張ってたのか?」

 暴漢は答えない。それは警察官としての矜持のためだろうか、恐怖で反応できないためだろうか……。

 もし職責のためだとしたら、陶子は失望する。闇討ちを仕掛けるなど、警察官のやることではない。

「あんたらは溝口の仲間じゃないな? だれの指示で動いてる?」

 口をきくつもりはないようだ。

 伊能が、落ちていた特殊警棒を拾い上げた。

「どうするつもり?」

 陶子の声はうわずっていた。拷問で口を割らそうとしていると考えたからだ。

「これはもらっておく」

 しかし伊能はそう言っただけで、男に危害をくわえる素振りはなかった。

「行っていい。はやく消えろ」

 言われた暴漢は、倒れている仲間を抱き起こして退散していく。伊能の興味はすでに失せているようで、逃げていく暴漢たちを見もしなかった。

「もっとけ」

 いま奪ったばかりの警棒を渡された。

「今後も、こういうことがあるかもしれない」

 護身用に持っておけ、ということのようだ。

「あつかえないわ」

「なにもないよりはマシだ」

「奪われたら、よけい酷いめにあう」

「大丈夫だ。そんな状況のときは、奪われようと奪われまいと、どっちにしろ助からない」

 身も蓋もないことを言われた。

「それとも、あれにするか?」

 伊能が見ていたものは、いま自らが解体した拳銃のパーツだった。銃刀法違反になるし、奪われたらそれこそ大変だ。

 陶子は首を横に振って、警棒を受け取った。伸縮するはずだから、短くしてみた。刑事ドラマで観たとおりだった。これなら、ハンドバッグにも入れることができる。

 すると伊能が、アパートの共用物らしいホウキとチリトリを持ってきた。それで拳銃の部品を掃除しはじめたではないか。

 あろうことか、やはりアパートのものらしきゴミ箱に棄ててしまった。

「……」

 てっきり拳銃は伊能自身が使うのだろうと物騒なことを考えていたのだが、彼には武器など必要ないらしい。

「倉田は、すでに姿を消している。そして、あいつらがここを監視していた」

「どういうことなの?」

「まともな警官じゃないってことだ。そんなのが出てきたってことは、なにがなんでも倉田に殺しを続けさせたいってことだな」

「その黒幕は、だれなの?」

「さあな」

 他人事のように、伊能は言った。

「猿渡?」

 陶子がその名を出したとき、伊能のポーカーフェイスが一瞬、崩れた。

 伊能が、かつて叩きのめした暴君……だと思う。裁判でも影響力を発揮して、重罪に陥れた──と、伊能は信じている。

「倉田のターゲットは、おそらくあと二人」

 伊能は、陶子の問いに答えることはなく、そう続けた。

 一人は、検察庁の藤堂武彦。もう一人は、伊能に護衛を依頼した高陽会の元組長。

「どっちに行くつもり?」

「それを決めるのは、あんただ」

 意外な返答だった。

「いいの?」

 護衛対象である元組長の安否を心配すると思っていた。

「こっちの都合は、考えなくていい」

 では、遠慮なくそうさせてもらうことにした。素性のよくわからない人物よりも、多少なりとも知っているほうが気にかかった。



 一時間後、検察庁を訪れた。

 しかし、藤堂武彦は在庁していなかった。

「え?」

「ですから、異動されました」

「異動って、どこかに転勤されたということでしょうか?」

「そうです」

 担当者から、そのようなことを聞かされた。

「どちらでしょうか? どこに行ったのでしょうか?」

「それはお答えできません」

「どうしてですか?」

 陶子の追及にも、その担当者は折れそうになかった。

 そこで、すぐに考えをあらためた。検察庁を出ると、北島に連絡をとった。北島のルートで、藤堂の異動先をさぐろうとした。

『そのことだったら、すでに調べている。藤堂氏について興味があるようだったからね、いろいろと動向をさぐっていた』

 昨日、アポをとってもらったときからだろう。

『小樽だ』

「小樽? 北海道ですか?」

『そうだ』

「どんな人事なんですか? 滅茶苦茶です」

 通話を終えると、伊能が好奇心をむきだしにしていた。

「なんだ? なにがあった?」

「……藤堂は、小樽よ。札幌地検の支部がある。そこの支部長に就任よ」

「それのなにが問題なんだ?」

「藤堂は、高検の次席検事だったのよ。つい昨日まで」

 それが地検の支部長になるなど、前代未聞の降格人事だ。

「本当に降格なのか?」

 伊能の口調は、素朴に質問しているようだった。しかしちがう。ことの裏側を見抜いているのだ。

「降格じゃなくて……本人の希望を聞き入れたってこと?」

「それしかないだろう」

「東京から逃げたと言いたいの? でも、いくら偉い立場の人間でも、人事はそんな簡単に決定されるものじゃないわ」

「この場合、どっちの思惑が動いてるのかわからないが、簡単に人事を動かせる黒幕の意向ってことだ」

「黒幕?」

 陶子は、途端にわけがわからなくなった。

「待ってよ。逃げるために小樽に行かせたのなら、藤堂の側に立ってる人間でしょう?」

「そうとも言えない。藤堂を始末するために、東京から離したのかもしれない。それにおれは、どっちの思惑、と言ったはずだ」

「どっち? それって、もう一人、黒幕がいるみたいね?」

 伊能の表情を読み解けば、そう本気で考えているようだった。

「……いずれにしても、倉田も向かうでしょうね」

 藤堂の命を狙っているのだとしたら、小樽まで行くはずだ。それとも、それはべつの人間が任されるのだろうか?

 いや、それはない。

「だろうな」

 伊能も、それを認めた。陶子の素人考えだが、殺しを請け負う人間がそうそういるとは思えない。

「小樽に行くのか?」

「イヤ? 元組長のことが気にかかる?」

「気になるわけないだろう」

「……でも、負い目があるのよね?」

「まえにも言ったが、おれに罪悪感はない」

「本当?」

 どんな人間であれ、殺害した被害者の親に対して、なにかしらの情は抱くものだ。それが少しでもあったからこそ、依頼を引き受けたのではないだろうか……。

「倉田を追っていれば、守ることにもなる」

 伊能の言うことはもっともだったが、真剣に護衛の依頼を遂行するつもりがあるのか、ないのか──いま一つわからない。

 倉田が小樽に行かなければ、元組長は簡単に殺されてしまうのではないか。

「どうした?」

 伊能に心の動きを読まれた。表情ではなく、この男は瞳で感情を読み解く。

「……なんとなく思っちゃったの。あなたじゃなければ、倉田の犯行は止められないって」


     * * *


 こうして、わたしたちは北の大地へ向かうことになった……。

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