第11話
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伊能への詮索は、ひとまず置いておくことにした。
藤堂武彦との面会のあと、陶子はもう一人の事件関係者のもとへ向かった。
山鍋定男。倉田哲人の弁護人だった男だ。足立区の北千住で、現在でも事務所をひらいている。
当時裁判官だった熊谷健三。警察官だった水野裕司。検察官だった藤堂武彦。この三人はいわば、倉田の復讐相手。それに対し、山鍋定男は弁護士で、倉田側の人間だ。
伊能の場合は弁護士もグルだったということだが、倉田の裁判とはそこがちがう。二件の殺人容疑で懲役十五年にとどめたのだ。すくなくとも敵ではない。当時の話を聞くにはうってつけだろう。
山鍋法律事務所は、西口駅前の雑居ビルの二階だった。お世辞にも、儲かっているようではない。陶子は、雑居ビルの階段を上がった。数歩遅れて伊能もついてきているが、あれ以来、会話はなかった。
事務所の扉は、一部がすりガラスになっている。昼間だからなのか、なかの灯りはついていなかった。
インターフォンや呼び鈴のようなものはなかったので、軽くノックをして扉を開けた。
「すみません」
だれの気配も感じなかった。今日は休みなのだろうか……その考えが浮かんだが、それならば鍵はかかっているだろう。
「待て」
なかに入ろうとしたら、伊能に止められた。
「だれもいない。生きている人間は」
その不吉な言葉で、最悪の事態が脳裏をよぎった。伊能の制止を無視して、室内に入った。
事務所内は狭く、デスクが一つしかないことから、ほかの弁護士はおろか、事務員すらいないようだ。書類や雑誌で乱れている室内に、何者かが埋もれるように横たわっていた。
ところどころ皮の破れた来客用のソファセットが壁になって、細かくは様子を見れない。
「あの……」
呼びかけようと声を出すものの、大きくはならなかった。本能で悟っていたからだ。
「見ないほうがいい」
伊能の言葉が、なにかの冗談のようだった。
「……死んでるの?」
ソファーの後ろに回り込んだ伊能が、屈みこんで状況を確認している。
「たぶん、昨夜だな」
「病死……なの?」
伊能は、すぐには答えなかった。
「……殺されてるの?」
「ああ」
殺人……犯人は?
「銃弾を二発くらってる。素人じゃない」
「プロの犯行ってこと?」
「……」
「どうしたの? なにを考えてるの?」
「そうか、そういうことか」
伊能だけが納得をしていた。
「わかったことがあるなら、ちゃんと説明して! それ……、だれがやったの!?」
「もちろん、倉田だろう」
あたりまえのように伊能は答えた。
「……どうして?」
「この弁護士も、やつのターゲットだったってことだ」
仕組まれていた裁判で、倉田は犯人にされたと主張していた。
裁判官、検察官、警察官だけでなく、伊能と同じように弁護士までも裏があったというのだろうか?
「でも……この弁護士は、倉田の減刑を勝ち取っているのよ?」
「そういうことじゃない」
「? なに? なんなの?」
「倉田の経歴、人となりがちがう」
「ちがう?」
「ケチな詐欺師じゃない」
どうやら、だれかからそういうふうに聞かされていたようだ。
「ヤツの正体は……」
めずらしく、伊能が言いよどんでいた。
「なんなの? 倉田哲人は、何者なの?」
「殺し屋だ」
この場面で、なんとも荒唐無稽な言葉が飛び出した。
「裏社会の掃除屋……だからだな。まったく暴力的なものを感じなかった」
「まって。もし本当に殺し屋だったとしたら、逆に暴力的になるでしょう?」
「プロは、ムダな殺しはしない。普段は平凡な人間として生きている。怒りもしない。欲もかかない。ただ冷徹に人を殺す」
まるで、伊能自身がそういう人間であるかのように語っていた。
「じゃあ、これはムダな殺しじゃないっていうの!?」
怒りがあるから復讐するのだろう。そもそも、金という欲があるから、殺し屋という職業をやっているはずだ。
伊能の言葉は、矛盾だらけだった。
「あんたの質問に対する答えを思い出せ」
「え?」
たぶん、倉田哲人にいつもの質問をぶつけたときのことを言っているのだろう。
「やつは、うけた罰に対して冷静な反応をしていた。どうしてだかわかるか? やつが殺していたのは、二人だけじゃないからだ」
二件のうち一件は、倉田の主張どおりなら犯人はべつにいる。いまの伊能の発言は、一旦そのことは置いておく、ということだ。
一人であろうと二人であろうと、たしかに倉田の様子は、刑罰にそれほど不満は感じていなかった。陶子の眼からみても、伊能の言葉どおりだ。
「もっと多くの人間を殺めていたから、仕組まれた裁判だったとしても、懲役十五年は重くないと思ってるってこと?」
「……重くないどころか」
そうだ。重くないどころか、軽すぎる。
いや、たとえ一人だったとしても十五年という刑罰は、けっして重くはない。
どうしても伊能との対比をしてしまうから、倉田も同じように納得がいっていないと考えてしまうのだ。
「なんだか、いやな感じなんだけど」
「あんたにもわかったようだな」
わかっていた。
本当に仕組まれた裁判だっとして……はたしてそれは、どちらの側にとって仕組まれていたことなのか……。
これまでのことを総合すると、まるで倉田哲人にとって有利にはたらいた裁判だったということだ。
「でも……それなら、どうして復讐なんてするの!?」
「復讐じゃないんだ」
「なに? なんなの?」
「やつはただ、仕事をしているだけなんだ」
それはつまり──。
「だれかが……依頼したってこと!?」
伊能の瞳が、無機質な光を放っていた。
「わけわかんない……」
愚痴のようにつぶやいてしまった。
「倉田のことは、とりあえずいまはいい。それよりも、これをどうするかだ」
「あたりまえのこと言わないで」
もちろん、警察に通報する。
「おれは消えるぞ。面倒に巻き込まれるのはごめんだ」
伊能の言うことに理解はできた。
「……そうね。あなたは、いないほうがいいわね」
それからすぐに陶子は警察を呼んだ。
大挙して捜査員が押し寄せてきたときには、当然ながら伊能の姿はなかった。
第一発見者をまず疑う──ドラマではよく聞くフレーズだ。やって来た刑事たちの対応は、まさしくそれだった。
身分を明かしても、それは変わらなかった。それもそうか。職業や肩書で無実かどうかがきまるのなら、政治家や警察官は罪を犯さないことになる。
しかも陶子の任務は、説明がしづらい。
「本所署の溝口です」
何度も同じような質問に答えて辟易したころ、ようやくその人物はやって来た。
最初に陶子が口にしたのが、溝口の名前だった。溝口に話をつないでくれ、と陶子は刑事たちに告げていた。
溝口なら、倉田が関わっているであろう事件の捜査に加わっているから、少しでも面倒なことを減らせると思ったのだ。
だが、これがよけいに面倒な方向へ話を進めてしまった。
「なんで、本所署の人間が来るんだ?」
そんな声が飛び交っていた。よく他県警との軋轢を耳にするが、同じ警視庁だからと気軽に呼んだのがまちがいだったようだ。
刑事たちの会話に聞き耳をたてていたら、どうやら「方面本部」という単語が多く出てきた。そういえば、警視庁管内は十区画に分けられていたということを思い出した。
刑事たちの話やそれらを総合すると、ちがう方面本部だからもめていたようだ。地理的には墨田区と足立区は近いが、墨田区は第七方面本部に属していて、足立区の警察署は第六方面ということらしい。
指揮系統がちがうからなのか、それともくだない縄張り意識なのかわからないが、陶子の眼から見たら少し滑稽に映った。
「たしか、香坂さん……でしたよね?」
「はい」
小競り合いが一段落したのか、溝口が話しかけてきた。
この少しまえに、またべつの刑事たちが現場にやって来たようだが、それで刑事たちの会話が途切れていた。それも関係しているのかもしれない。
「あれは、本庁の捜査一課です」
不思議そうに見ていたからか、溝口が耳打ちしてくれた。
「彼らから見れば、われわれの主導権争いなんて、子供の遊びだ。結局、おいしいところは彼らが全部取り上げてしまうんだから」
どこか達観したように、溝口は言った。
捜査一課といえば、殺人などの凶悪犯罪を専門に捜査するところだ。この現場は、彼らのコントロール下に置かれたということだろう。
「あなたが私を指名してくれたから、一課よりもさきに聴取ができます」
あきらかな皮肉だったが、陶子は反応しなかった。
理由はそれだけではないだろう。溝口自身が、捜査一課にも顔が利くベテランだからだ。
「どうぞ、訊いてください」
溝口は、軽い咳払いのようなものをしようとしたが、それは音にならなかった。
「では、遺体を発見したとき、あなたは一人でしたか?」
「ねえ、溝口さん。いくらわたしがあなたの名前を出したからって、捜査一課よりも早く話を聞けるのは、あなたがそれなりに信頼されてるからじゃない?」
あえて質問とは関係のないことを口にしてみた。
「……香坂さんは、鉄のハートをもっているようだ。この状況で、まったく動揺していない」
いまのセリフを伊能が耳にしたら笑っているだろう。溝口はまだ、この無表情がみせかけだけということを知らない。
「いまの質問に答えてください」
「わたし一人でした」
「嘘ですね?」
溝口は小声になって耳元で囁いた。
「いましたよね、やつが」
「さあ、なんのことを言ってるのでしょう」
「そうですか、一人ですか」
声量をもどして、彼は演技をした。
それからも聴取は続き、発見時の状況、なぜここを訪れたのか、被害者との関係を訊かれた。どこか機械的に思えた。
一旦、溝口が捜査一課らしき刑事と話をして、今度はその捜査員に質問された。
ほぼ溝口と同じ内容だった。面倒臭くなりながらも、同じように答えていく。
警察署につれていかれることもなく、その場で帰っていいことになった。溝口が送ってくれるというから、行為に甘えることにした。
北千住駅はすぐ近くなので、本来なら車で移動する必要はない。だがあえて、遠く離れた駅まで乗せてもらうことにした。陶子のほうも二人きりで話したいことがあったし、溝口のほうも同様だろう。
覆面パトカーの助手席に乗った。溝口は後部席に座るものと思っていたようで、どこか戸惑っていた。
走り出してから、すぐに溝口が口を開いた。
「いたんですよね?」
「ええ」
ここでは正直に答えた。
車内には溝口しかいないし、溝口がここでの会話をほかの刑事に漏らすことはないだろうと考えていた。
「伊能は、どこへ?」
「わかりません」
嘘ではなかった。
「やつが殺したんじゃないですよね?」
「それはありません」
「……あの男を信じてるんですか?」
「べつに信じているわけではありません」
「では、なぜそう言えるんですか?」
「彼とわたしは、ずっといっしょにいました」
「昨夜もですか?」
山鍋定男の死亡推定時刻が昨夜だということは、伊能が口にしていた。陶子は、それをわかったうえで答えたのだ。
伊能は昨夜、護衛の依頼をした人物と会っていたはずだ。だが、そのことを溝口に教えるつもりはない。伊能を思ってのことではなかった。その人物がだれかわからないし、伊能のこれからの動きも予想できないからだ。
そして、この溝口の動きも……。
「はい。昨夜もです」
陶子は嘘を言った。
「警察では、だれを犯人だと思ってるんですか?」
「さっき発覚したばかりの事件です」
溝口は濁した。
「香坂さんは、だれだと思ってるんですか?」
さらに、しらじらしく質問してきた。
「あなたなら、もうわかってるんじゃないですか? 昨夜は、どうしてましたか?」
もちろん、倉田哲人のことだ。
「見張ってたんですよね?」
溝口がずっと張り込んでいたわけではないだろうが、すくなくとも仲間は監視していたはずだ。
「……」
「どうして黙ってるんですか?」
「言えないからですよ」
それは、捜査上の秘密だから言えない、というような意味ではないような気がした。
「いなかったということですね?」
いたのなら、いたと言うだろう。
「だから、言えません」
「どうしてですか?」
「あなたも公務員ならわかるでしょう?」
「上からの命令ということですか?」
「それすら言えない」
言っているようなものだった。溝口も、そのつもりで口にしたのだ。
「倉田を逮捕しないんですか?」
「わかりません」
陶子は、伝えようかどうかを迷った。
「……殺し屋なんですよね?」
「どうしてそれを……」
すぐに溝口は気づいたようだ。
「伊能ですか……」
陶子は、うなずきはしなかったが、それに近いような仕草で溝口を見た。運転中のために陶子へ振り向くことはなかったが、彼にも理解できただろう。
「警察も知ってるということですよね?」
溝口の言動や、上からの指示があったということを総合すると、そういうことになる。
知っていて、手が出せないでいる。
それがなにを意味しているのか……。
「どういうふうに見ているんですか?」
「それに触れるということは、警察組織に反抗するということです……」
触れてはならない闇。
部外者の陶子にも、なんとなく絵図が見えるような気がした。
倉田哲人の存在は、警察にとって不用意にあつかってはいけない危険なものだ。
「あの……高陽会って知ってますか?」
「知ってます」
よどみなく溝口は答えた。
「それが暴力団の名前なら……ですが」
「暴力団……」
「いまはありません。かつてあった組です。どうして?」
「あ、いえ……」
「聞いてないんですか?」
「え?」
「伊能が殺害した被害者が、その高陽会の二代目ですよ」
そうか……その弱みがあって、護衛の依頼をされたのか。
「正確には、二代目になるはずだった、ですが」
「大きい組織だったのですか?」
「拠点は東京です。広域指定もされていないし、よそでは名前も知られていなかったかもしれない」
「小さい……ということですね?」
「いえ、小さくはなかった」
裏社会の常識のない陶子には、溝口の言うことが理解できなかった。
「たいへん力をもった組織でした」
その理由を問いたかったが、溝口の運転する横顔を見てやめた。
さきほど話した、倉田と警察の闇。
そのことと関係があると直感した。そして溝口は、そのことをよく知っている。
「そこでいいです」
地下鉄の駅が眼に入ったので、陶子は車を停めてもらった。
「ありがとうございました」
「……伊能とは、いっしょにいないほうがいい。あの男は、よほどのことでは死なないでしょうが、あなたはそういうわけにはいかない」
「それは、脅しですか?」
「ちがう。お願いです!」
溝口の瞳は、本気だった。
陶子は頭を軽くさげて、車外に出た。
地下鉄への階段を降りるまで、溝口はその瞳でみつめつづけていた。
* * *
混迷を極めている……。でもわたしは、このさき知ることになる。
これはまだ、入り口にすぎないと……。
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