第9話
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翌朝九時に、詳細な資料を受け取った。といっても例のごとく、すぐに水で溶かしたが。
北島とは、とくに言葉をかわすこともなかった。挨拶も、おたがい会釈ですませた。
昨夜のうちに伊能とは九時半の約束で待ち合わせをしていた。喫茶店を出ると、その場所へ急いだ。
電話での様子だと、伊能にかわったところはないようだった。あの連中に危害を加えられたわけでもなく、かといって逆に暴力をふるったわけでもないようだ。
そのことに安堵しつつも、実際に会ってみるまで楽観視してはいけないと気を引き締めている。伊能という男は、良い意味でも悪い意味でも大胆で、どこか底が知れない。すべての物事を達観しているようなふしがある。
時間ぴったりに、伊能はやって来た。
「昨日、どんな話があったの?」
開口一番、陶子は問いかけた。電話では、うまくはぐらかされたのだ。
「あんたには関係のないことだ」
「ちょっと……わたしも狙われたのよ。それでも関係ないって言える?」
「いや、それはあの連中じゃない」
「それを信じてるの? それとも、あのあとその証拠でもみせてもらった?」
それはないだろう。伊能という男が、安易にあやしげな人間を信じるわけはない。たとえ決定的な証拠をみせられても、疑ってかかる男だ。まだ少ない交流でも、それぐらいわかる。
伊能の発言からは、なにか裏を感じる。
「ねえ、なんの話があったの? わたしには言えないってこと?」
伊能は答えなかった。
陶子は、追及をあきらめた。
「これから、次の調査をはじめます」
かいつまんで、内容を伝えた。
「もしかするとこれは、連続殺人事件かもしれないわ。その犯人かもしれない男性を調査するの。危険がともなうかもしれない。おりたければ、おりてもいいわ」
伊能がその答えを口にするとは思えなかったし、陶子にも聞くつもりはなかった。
「調査対象者の名は、倉田哲人」
その名前を告げたとき、一瞬だけ視線が動いた。
「どうしたの?」
「いや……」
「まさか、本当におりるなんて言わないでしょうね?」
「心配するな。殺人者だろうが、おれが守ってやる」
「なにかあった?」
そんな殊勝なことを言い出すなんて、やはりおかしい。
「っていうか、そのためにおれを雇ったんだろ」
「否定はしないわ」
「ま、用心棒として報酬分の仕事だけはするさ」
それから陶子と伊能は、倉田哲人が出所後に住んでいるアパートに向かった。荒川区に位置している。周囲には同じような古めかしいアパートが並び、けっして美しい街並みとはいえない。
「ここね」
警察にもマークされているだろうから、はたしてここにいるのかどうか。
本当に犯人だとすれば、おそらく逃亡しているだろう。
住所どおりの部屋の前に立った。現在の倉田哲人についての情報は、この住所しかわからない。ここにいなければ、過去の資料から推察して行動を割り出すしかない。その資料は、もはや陶子の頭のなかに入っているだけだった。
意を決してノックした。
反応はないものと思い込んでいたが、しかし扉は嘘のように開いた。
「どちらさま?」
想像していたよりも、人当たりのよさそうな男性が顔を出した。写真で容姿は確認しているが、実際に会ってみると犯罪者という感じはしない。
年齢は、四一歳になるはずだ。伊能よりも何歳か年上ということになるが、むしろ伊能よりも若く見える。
そういえば、似たような年齢で、似たような判決をうけて、似たような時期に刑を終えたことになる。一致している部分が多い……そのようなことを刹那のうちに考えてしまった。
「どちらさまですか?」
繰り返されたことで、陶子はわれに返った。
「わたしは、法務省の香坂といいます」
「法務省? 警察じゃなくて?」
「警察に追われるようなことをしてるのか?」
伊能が横から割って入った。
なんなんだ!? そんな攻撃的な視線に一瞬だけ変化した。
「元警察官と元裁判官を殺したんじゃないのか?」
「ちょっと!」
大きく踏み込んだ発言に、陶子は伊能をたしなめた。
「なんのことです?」
涼しげに倉田は答えた。知らないふりをしてはいるが、どこか演技がかっている。こういうふうに受け答えすることをきめてあったかのようだ。
「あなたの過去の事件……その関係者が、二人も殺害されているのよ」
「そうなんですか? 知らなかったなぁ」
あきらからに嘘なのはわかる。だが倉田自身、そう思われてもかまわないと考えているのではないか。
「そう……わかりました。その話はやめましょう」
自分の仕事は、現在おきている事件の捜査ではない。
「わたしが知りたいのは、過去の事件についてです」
「いまさらですか?」
「事件をむしかえすわけではありません。あなたの犯した罪と、刑期の重さについて、率直に話を聞かせていただけませんか?」
「? そんな話を聞いて、どうしようというのですか?」
返答に困る質問だった。陶子としても、北島の指示でやっていることであり、それがなんになるのかと問われても答えに窮する。
「……わかりました。汚れていますが、あがってください」
なにも言い返せないでいたら、室内に招かれた。無表情だったことが幸いしたのかもしれない。弱気な顔をしていたら、追い返されていただろう。
部屋には小さな丸テーブルが置かれている。それを囲むように、三人が座った。座布団はないようだ。客人が来るようなことがない家なら、なくても不思議ではない。陶子自身、一応はもっているが、押し入れの奥にしまいこんで自分用のものすら出したことはない。
陶子は正座をしたが、伊能とこの部屋の主である倉田はあぐらをかいている。
室内は、倉田の言葉とはちがって汚れてはいなかった。簡素な部屋ではあるが、ちゃんとテレビもあるし、生活に困っているようではない。暖色系のカーテンもセンスが良く、インテリアにもそれなりに気をつかっている。
正直、倉田本人とこの部屋を目の当たりにすると、殺人事件の犯人だということは信じられない。
「お茶とかはないんで、ビールとかどうですか?」
「いえ、けっこうです」
陶子の答えを聞くまでもなく、倉田にも断わることは予想がついていたようだ。腰を上げる素振りもなかった。
「で、どんな話でしたっけ?」
「あなたの受けた懲役刑についてです。率直にどう感じていますか?」
「どう、とは?」
「重かったと思いますか?」
「さあ、どうでしょう……もう思い出したくもないので」
「二件のうち、一件については裁判でも否認なさってたんですよね?」
「……」
「それもふくめて、考えを聞かせてください」
「……重いとか、軽いとかの話ではない。ただ私は、現実を受け止めています」
本性を隠しているとしたら、相当な役者だ。
すくなくとも、かつて一人は殺害しているはずなので、いまの答えのような人格者ではないはずだ。
「高陽会を知ってるか?」
ふいに伊能が声をあげた。
「それはなんですか?」
「知ってるだろ?」
「なんのことやら」
伊能と倉田の二人に漂う空気が、緊迫したものになっていた。
「なに? それはなんの話?」
「いや、知らないならいいんだ」
陶子が伊能に詰め寄ると、伊能はいまの質問を取り下げた。
「?」
わけがわからない。
高陽会?
そんな名前は、今朝渡された資料のなかにはなかった。すでに溶けているので確かめようはないが、自分が記憶していないとういことは、どこにも記述がなかったはずだ。
「話はそれだけですか?」
「……今日のところは」
妙な雰囲気になってしまったので、出直すことにした。
倉田の部屋を出ると、陶子は伊能を睨んだ。
「さっきの質問は、なに? あなた、倉田のこと知ってたの?」
「いや、はじめて会った」
もしや、刑務所でいっしょだったのではないかと考えていた。
「高陽会ってなに? なんのこと?」
「質問ばかりだな」
「あなたのこと、信用できない」
「そりゃ、マエのある人間なんて信用できないだろうさ」
伊能の言葉には、あきらかな皮肉がふくまれていた。
「ちゃんと答えて! あなたは、わたしのパートナーなのよ」
「なんだ、表情とれるじゃないか」
「え?」
「怒った顔のほうが魅力的かもな」
頭にきたので、陶子は伊能の足を蹴っ飛ばした。
人を蹴ったことなどなかったし、ダメージはほとんどなかっただろう。それどころか、自分の足のほうが痛かった。まるで、丸太のように硬い。
「気がすんだか?」
「うるさい!」
陶子は、アパートから遠ざかった。
曲がり角から数人の男たちが出てきたのは、そのときだ。彼らの目標は、陶子自身だった。
またあの男たちかと思ったが、ちがった。
「あの部屋で、なにをしてたんですか!?」
詰問口調だった。
男たちは四人いて、そのうちの二人の顔は覚えていた。たしか、溝口という刑事だ。そしてもう一人が、名前は知らないが、その同僚だ。昨日、警察署で会っている。
「倉田哲人と、なにを話したんですか?」
「……法務省内で調査していることがありまして……」
あくまでも更生調査室の業務内容は秘密になっているので、調査対象者以外には詳しく口にすることはできない。
「どんな調査ですか?」
「それは言えません」
陶子が答えたとき、伊能が追いついてきた。
「あの男の捜査は、あんたの担当だったのか」
「伊能!」
「どっちだ? 警察官か? 裁判官か?」
「それを知ってるということは、その関係で会ったということだな?」
「訊いてるのは、こっちだ」
伊能の迫力が勝ったようだ。
「……裁判官のほうだ」
捜査内容を伝えたことがほかの同僚たちには意外だったようで、驚いた顔をしていた。だが、このなかで一番のベテランである溝口には、なにも言えないようだった。
「事件はうちの管轄じゃないが、急遽、応援に呼ばれてな」
あのとき急いでいたのは、そのためだったのだろう。
「で、ここの張り込みをまかされた」
「あんたらだけか? 本部の人間はいないのか?」
本部とは、警視庁の捜査一課ということだろう。
「そうだ。いまはおれたちだけだ」
「だったら、倉田哲人はホンボシじゃないってことか?」
「そんなことはない。いまのところ、本流ではないってことだ」
「ほかにどんな容疑者がいる?」
「そんなこと、言えるわけないだろう。さあ、次はこっちの質問に答えてくれ。倉田と、どんな話をした?」
もはや陶子にではなく、伊能に向けて尋問がはじまった。
「倉田はやってないってさ」
「事件のことを話したのか?」
「おれは警察じゃないから、細かなことまでは知らない。たんに犯人なのかを訊いたまでだ」
「だいたい、どうしてやつが容疑者だということがわかった?」
「それこそ、おれに訊くな」
伊能の瞳が、陶子に向いた。
「申し訳ありませんが、それには答えられません」
陶子は、溝口に告げた。
「これは、殺人事件なんですよ」
溝口は声を荒げていた。だが、それでも職務上の秘密をしゃべるわけにはいかない。それは警察官であろうと、法務省の職員だろうとかわらない。
ただし陶子の場合は、オフィシャルな決め事というより、北島個人との約束に近い。どこまでかたくなに口を閉じているべきなのか、判断は難しい。
「そちらの捜査の邪魔をするつもりはありません」
溝口の眼光は、すでに邪魔になってるんだよ──そう訴えていた。そのことは気づかないふりをして、陶子は平静につとめた。
「警察は、彼に直接話を聞いていないんですか?」
「われわれは昨日からの応援なので、聞いていません」
その言い方だと、自分たちは話をしていないが、べつの人間がしているかもしれない──そう解釈することができる。
奇妙に思えた。応援とはいえ、重要な事件の捜査員が、そんなことも教えられていないのだろうか?
「できれば、どんなことを話したか細かく教えてほしい」
「事件のことは知らないと言っていました」
「それは、元裁判官の事件のことですか?」
「そうです」
もう一件のほうもふくまれているが、溝口の耳にも同一の意味として入っただろう。
「では倉田は、われわれがマークしていることを知ってしまったわけですね?」
責めるような口調だった。
「おい、おれたちは警察官じゃねえ。おれたちが調べてるからって、警察が動いているとは思わないかもしれないだろう?」
伊能が言い返した。しかし、警察から容疑者として見られていることを倉田もわかっていた。それを知っていながら、伊能は溝口を攻撃している。かつて逮捕した男を恨む気持ちがあるのかもしれない。
「バカじゃなければ、そう考えるにきまってる」
「だったら、はやいとこ逮捕するんだな。こっちにだって、自由に人と会う権利がある。そっちの捜査とか、こっちには関係ないね。そっちの事情を押しつけるな」
伊能の語気はおだやかではあったが、痛烈なトゲを感じさせた。
まさかここまで言われるとは思っていなかったのか、溝口は鼻白んでいた。同僚たちがいきりたった。
「おまえ!」
だが、それを溝口が制した。
「そうだな。だれに会おうと個人の自由だ。しかし、それが捜査妨害になるのなら、そのときは容赦しないぞ」
「警察権力の横暴だな」
伊能の言葉には、嘲笑するような響きがふくまれていた。
* * *
このときはまだ、警察との軽い軋轢ていどだと思っていた……。
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