第7話
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伊能と別行動をとってから、陶子は急ぎ北島に連絡をとった。報告もあるし、聞き出したいこともある。
午後六時、例の喫茶店で待ち合わせた。
「及川忠文の報告です」
まだレポートは用意していないから、いまは口頭で伝えるしかない。それに北島は、ここでの書類のやりとりをしないつもりのようだ。あの溶ける紙を使えば、そのかぎりではないのだろうが。
「自身のおこないを後悔し、刑罰にも納得していました」
「そうか」
北島は意外そうでもなく、また予想どおりだった満足感もないようだった。しいて表現すれば、無の表情だ。
「あの、本当にわたしたちの調査は意味があるのでしょうか?」
「意味を考えるのもこれからだよ」
なにを言っているのだ? 陶子は、あきれながら北島の言葉を聞いていた。
「……局長は、わたしをからかっておられるのですか?」
思わず怒りが口をついてしまった。
「そう熱くならんでくれ。からかっているわけではないし、君の仕事は必要なものだ」
意味さえあるかどうかわからないのに……いい加減なことを言っていると思った。
「……それから、伊能渉のことですけど」
「なんだね?」
「彼を狙っている人間が、わたしの近くにいるみたいです」
「どういうことだね?」
「というよりも、狙っている人間と通じている……」
北島の表情からは、推し量れなかった。
「ここまで秘密主義でやっているのですから、今回のこと、知っているのは局長とわたしだけですよね?」
そうであるならば、襲撃者たちに情報を流しているのは、北島ということになる。
「そういうわけでもないが……しかし、信用のおける人員だけだ」
「猿渡、という人物を知っていますか?」
伊能があの男たちに語った名前の持ち主が、昨夜の話に出てきた《暴君》なのだろう。
「よくわからんね。知り合いにも、そういう名はいなかったと思うが」
よどみなく北島は答えたが、陶子はそれを直感的に嘘だと思った。
「そうですか」
そのことを追及はしなかった。伊能が男たちについていった話もしなかった。だれが味方で敵かわからない。こちらから出す情報は、最小限にとどめなければ危険がおよぶ。
「私のほうでも、伝えたいことがあるんだ」
「なんでしょう」
「これを見てくれ」
北島は、入店したときから新聞を手にしていた。それを広げて、ある記事を指さした。
「この事件がなにか?」
それは、都内でおこった殺人事件だった。それほど紙面をさいているわけではない。小さいとまではいわないが、たくさんある事件のなかの一つにすぎない記事だ。
殺害されたのは、無職の熊谷健三(六四歳)。元裁判官という経歴をもつ。日課である散歩の途中に、背後から鈍器のようなもので殴打された。
「この事件の二週間前にも、殺人がおきている」
殺人事件など毎日のように発生している。そうふくみをもたせるということは、新聞記事の件と関係があるのだろう。
「殺されたのは、水野裕司という元警察官だ」
「その二人が関わった事件があるということですよね?」
「察しがいいね」
むしろ、そう推理するほかない。
「十七年前、倉田哲人という男が二人を殺害した罪で逮捕された」
「その男を逮捕したのが、二週間前に殺された警察官で、判決を言い渡したのが、熊谷健三という元裁判官なんですか?」
「そういうことだ」
「では、今回の犯人も?」
北島は、意味深な溜めをつくった。
「……警察は、まだその結論を出していない」
「局長は、そう思っているということですよね?」
「どうだろうね」
この期におよんで、北島は認めなかった。そう考えていないのなら、この話をすることはなかっただろう。
「そこで、次の指令を出したい」
「まさか、この事件を調べろ、ってことですか?」
「そうだ」
「捜査中の事件ですよね? さすがに、まずいんじゃないですか?」
「いま言ったように、警察はまだ倉田哲人を犯人だと決めつけていない」
決めつけていないだけで、捜査対象者ではあるはずだ。俗にいう重要参考人というやつだ。
「倉田は、懲役を終えて出所したばかりだ。次の調査にはちょうどいいだろう」
いささか不謹慎な表現だと感じた。
「しかし局長……疑問があるのですが」
「なんだね?」
「十七年前に二人を殺害したということは、裁判の期間などを差し引くと、刑務所に入っていたのは長くても十五年ですよね?」
仮出所しているのだとしても、刑期は二十年ほどになる。だが、二人を殺害して二十年ということはないはずだ。
死刑か無期。
死刑でないのなら、無期懲役でなければおかしい。が、無期懲役の仮出所にしては短すぎる。
むかしは無期懲役でも十五年ほどで出所できたそうだが、いまはそういうわけにはいかない。これには刑法改正の影響が大きい。
2005年の改正で、有期刑の上限が二十年から三十年に引き上げられた。それにより、仮出所まで三十年はかかるようになった。どんなに素行がよくても二五年は必要だ。出られない受刑者は五十年以上も入ったままになっている。
それに、出てきてすぐに復讐するような人間を仮出所させたとは思えない。
「懲役は君のいうとおり、十五年だった」
「軽すぎませんか?」
「裁判所の判断だからね」
話をもってきておいて、他人事のような言動だ。
「まあ、いろいろとあるのさ」
「局長は、その事情を知っているということですか?」
「どうだろうね」
こういう答え方をするときは、知っているということだ。
「また、いわくつきの裁判だったんですか?」
そこで気がついた。
また──。
なにに対して「また」なのか。
伊能だ。伊能のときと似ている。いや、懲役は同じ十五年でも、結果は正反対だ。伊能は、過剰防衛による過失致死を殺人にされて刑期を長くされた。もちろん、伊能の主張が本当だとしてだが。
かたや倉田哲人のほうは、無期どころか死刑でもおかしくなかったのに、刑期が短くなっている。
だがどういうわけか、似ていると感じている自分がいる。
「これは、私の個人的な見解だが」
そう前置きを入れてから、北島は語った。
「二件のうち、一件はやっていない」
「え? 冤罪ということですか?」
「一件については」
「根拠はあるんですか?」
「私見だと言ったはずだ」
北島の語調が、一瞬だがきつくなった。
「ですが、たとえ一件が冤罪であろうと、二人の殺害で裁かれたのなら、やはり罰が軽すぎます」
「似ていると思ったのだろう?」
伊能の件と。
「……」
伊能の裁判は、仕組まれたもの……。
その主張をすべて信じたわけではないが、それとは逆に、すべてが嘘とも思えない。
権力をもつ者が、裁判をもコントロールする。本当のことだとしたら、この国は法治国家ではない。
「裁判官、検察、弁護士……全員がグルで、そういう判決を出したということですか?」
北島は、明言をしなかった。
「でもそれなら、もっと重い罰にもできたはずです」
いや、そうするべきだったのだ。倉田哲人のことが邪魔で消したいのだとしたら、それこそ極刑に処せばよかった。
「それが目的ではなかったということだろう」
「その目的というのを、局長は……」
訊こうとしてやめた。どうせ答えてくれない。
「君がつきとめればいい。それをふくめた調査だよ」
「……わかりました。最後に、これだけは確認しておきます。一件は冤罪だとおっしゃいましたが、もう一件のほうは確実にやっているんですか?」
「それについては、自供している」
「詳しい資料は?」
「明日、渡す。九時でいいかね?」
「はい」
それで、おたがいの話は終わりのはずだった。
陶子は、伊能のことを報告しようか少し迷った。が、北島がその人間たちと裏でつながっているのなら、わざわざ報告するまでもない。
「どうかしたのかね?」
「いえ」
陶子は、ごまかした。
更生調査室に任命されてから、目まぐるしく事態が動いている。だれが敵で、どんな思惑が絡んでいるのかわからない。
これからの言動、行動、思考、すべてが重要になる。慎重にことをはこぶのだ……陶子は気を引き締めた。さいわいなことに、陶子の顔には心情があらわれない。
だが、油断は禁物だ。北島には、心を見透かされているような怖さがある。つとめて平静に、陶子は立ち上がった。
「では、明日九時に──」
喫茶店を出てから、ふと考えたことがある。
更生調査室の創設自体が、なにかの思惑の一つなのかもしれない……。
だとすれば、伊能と出会ったことも、これからの自分にとって大きな意味があるのではないか……。
考えすぎと思いながらも、陶子は推論を打ち消せなかった。
* * *
彼とは、出会うべくしてめぐり会ったのだろうか?
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