第6話

       6


 警察署での話? なにかマズいことでもやらかしたか?

 いっとくが、おれは身分を偽っちゃいないぞ。香坂もだ。むこうが、おれの身分を確認しなかっただけだ。それに、おれのことを知っているやつもいた。問題ないだろ?


     * * *


 及川忠文という男との面会を終えて、警察署の廊下を歩いていた。

 香坂陶子は、うかない顔をしていた。いや、顔というより眼だ。表情は、あいかわらず変わらない。何度も刑務所生活を重ねる人間に対して、虚しさのようなものを感じているのかもしれない。

 及川の気持ちは、渉にも理解はできた。ムショ暮らしが長くなればなるほど、外の世界が恐ろしくなる。自由を欲すると同時に、窮屈さが心地よくなる。

 なによりも、本当の自由などないことを犯罪者は思い知らされている。欲望のために犯罪に手を染め、その結果、逮捕されているのだ。本当の自由がこの世にあるのだとしら、そこは犯罪天国と呼ばれているだろう。

 無機質な通路には、ほかに人影はなかったが、近くの部屋から数人が飛び出すように姿をあらわした。

「!」

 そのうちの一人を、渉は知っていた。

 むこうのほうも知っている人間だと気づいたようだが、深くは思い出せないのだろう。足を止めて考え込んでいた。

「溝口さん?」

 同僚に呼びかけられて、その男は早足で歩き出した。しかし、数歩で再び止まった。

「おまえ……」

 渉は、顔をまじまじと見られた。

 男の年齢は、四十代前半。うっすらと日焼けした顔には、老いの証拠である皺が幾本か刻まれている。とはいえ、渉の記憶するむかしの面影は強く残っていて、同年代の男性とくらべれば、若く見えるほうだろう。

「たしか、伊能だったな……」

「名前を覚えられてるとは思わなかった」

 渉は、不快感を言葉にのせた。

「なにかやったのか?」

、はつけないのか?」

「……」

 溝口は、困ったような表情になった。

「溝口さん!?」

「悪い。さきに行っててくれ」

 同僚を行かせて、溝口は渉と会話することを選んだようだ。

「この方は?」

 香坂に訊かれた。無視しようとしたが、また無遠慮な詮索をされるのがいやだったので、答えることにした。

「おれを逮捕した刑事だ」

「あのころは、捜一の若手だったがな」

「いまは、ここの署か? なんかやらかして飛ばされたのか?」

「そういうもんなんだよ。捜査一課にいるやつのほうが若いんだ。そのまま刑事畑で出世するのは、そこで運よく手柄をたてたやつか、上司にかわいがられたやつだけだ。そうでない普通のやつは、ベテランの歳になると所轄で若手の育成をやらされる」

「あんた、手柄をたてただろう? おれを逮捕したんだから」

「……」

 溝口の顔に、後悔の念が浮かんでいた。それがわかっていても、許す気持ちにはなれなかった。

「あれは、そんなんじゃない……」

「いまさら罪悪感か?」

「……」

 黙り込んだ溝口は、しかし気持ちを切り替えたようだ。

「どうしてここにいるんだ? いつ出所した?」

「昨日だ」

「こちらの女性は?」

 溝口の注目が香坂に移った。

「警察官ですか?」

「ちがいます」

 香坂自身が答えた。

「法務省の者です。香坂といいます」

 香坂の自己紹介に、溝口はあきらかな混乱の色をみせた。想像していた答えとはちがっていたのだ。おおかた、警察官でなければ、弁護士とでも思ったのだろう。

「またおれが捕まったと思ったのか?」

 渉は、嫌味をそのままぶつけた。

「なぜ法務省の人間といる? こんなところに来て、なにをやらかすつもりだ?」

 溝口は、香坂と渉の取り合わせに不穏なものを感じたようだ。

「ちょっとな。新しい仕事だ」

「出所したばかりなのに?」

「そういうことは、この女に聞いてくれ」

 溝口が香坂をみつめた。観察するような粘っこい視線だ。

「この男は、危険です。どんなご用で警察署にいるのか知りませんが、あまり目立ったことはやめたほうがいい」

「伊能さんは、罪を償ったんですよ?」

「償う?」

 うっすらと溝口は笑った。

 やはりこの刑事は知っているのだ。一連のことが、どういうたぐいのものなのか……。

 後ろにだれがいて、どれほどの闇を抱えているのかを。

「どうされました?」

 溝口の笑みを眼にして、香坂が疑問をもったようだ。

「いえ、失礼しました。たしかに、彼は償いをすませて出所したんですよね」

 溝口は白々しく言って、頭をさげた。

「では、これで」

 そして、仲間のあとを追っていった。

「なにか、ふくむところがあるようね」

「警察官なんて、みんなそうだろ」

「伊能さん、あなたの話が本当だとして、いまの刑事さんは、どう関わっているの?」

「どう?」

「敵なの? 味方なの?」

「味方のわけないだろ」

「でも、敵でもないみたいだった」

 言われて、渉は複雑な感情を抱いた。

 同時に、この女の鋭さを怖いと思った。



 警察署を出たところで、彼女の携帯が鳴った。部屋の手配がすんだという連絡だったらしく、これからそこへ行くことになった。

 その場所へ近づくにつれ、違和感だけが心に積もっていった。

「どこに向かってる?」

「もう少しよ」

 港区、麻布──。

 閑静な街並みが、荘厳な雰囲気に包まれている。

 さきほどから、あっちにもこっちにも国旗が掲揚されている。周囲は大使館だらけだった。渉は、こんな場所に足を踏み入れたことは、いままでに一度もなかった。

「ここみたいね」

 建物は一般的なアパートの造りだが、まわりがまわりだけに格式高く見えてしまう。

「ここに住めってことか?」

「いいところじゃないですか」

 香坂は、お気楽に言った。

「おれは、こんなとこに住むような人間じゃない」

 彼女には、意味が伝わらなかったようだ。

「ただのアパートですよ?」

「……」

 口にするのも無駄だと悟ったので、渉は部屋へ向かった。

 アパートは三階建てで、部屋は二階の奥だった。部屋の前には、不動産屋らしき男性が待っていた。鍵と契約書を受け取ると、その男性は去っていき、香坂の先導で室内に入った。

「いいところね」

 リビングに寝室、キッチン、浴室、トイレ。家賃はわからないが、一人暮らしとしては上等な部類になるだろう。テレビやベッドなどの家具も完備されている。

「今日は、もういいわ」

 このまま解散、という意味だったのだろう。

「いや、荷物がある」

 まだホテルに荷物を置いたままなのだ。

「そうだったわね。荷物を持って来たほうがよかったわね」

 あたりまえのことではあったが、彼女だけでなく、渉もそこまで頭が回らなかったのだから、同罪だ。

「わたしは行くけど」

「いっしょに行く」

 最寄りの駅まで同行するという意味で言った。

 入ったばかりでくつろぐこともせず、部屋を出た。渉には、もう一つ思惑があった。

「どうしたの?」

 アパート前で、周囲の気配をさぐった。

「いや、行こう」

 彼女には真実を告げずに、歩き出した。

「まさかと思うけど、なにかあるの?」

「どうしてそう思った?」

「だって、あなたと会ってから、こんなことばっかり」

 彼女のほうも、不審な空気を感じ取っていたようだ。

(いや、おれから読み取ったんだ)

 渉は思った。緊張感を隠しきれなかったのだ。

「どっちを狙ってるの?」

「わからん。だが、おれがいるのなら、おれになるだろう」

 昨夜は、おれがいなかったから、おまえが警告をうけたんだ──そういう意味で、渉は答えた。

「どうするの?」

「とりあえず、こっちだ」

 渉は、細い路地に入った。何度も曲がって道を変えた。行き着いた先には、小さな公園があった。

 時刻は、午後四時。ほかにだれかがいてもいい時間のはずだが、子供一人いない。

 そこに男たちが追いついてきた。

 昨日、出所したばかりで襲ってきた連中ではない。昨夜、彼女を突き飛ばした男の姿もなかった。

 新手だ。

「なんの用だ?」

 一応、そう言ってみた。

 だれからも返事はなく、男たちからは剣呑な雰囲気だけが漂っている。合計で、七人いた。

「どうやって、ここにいるとわかった?」

 その言葉に、香坂が眼を向けた。

「おれたちをつけてきたわけじゃないよな?」

 昨夜、彼女はつけられていた。が、いまはそうではない。

「尾行はいなかった」

 昨日も二人でいっしょにいた段階では、つけられていなかった。彼女一人になってから尾行がついたことになる。しかし、そんなに都合よくいくわけがない。

 考えられることは、あらかじめ彼女の居場所がわかっていた。今日でいうと、ここに来ることがわかっていた……。

「あんたたち、この女の仲間か?」

「なに言って……」

 香坂は戸惑っていたが、男たちから反論はなかった。

「ど、どういうこと!?」

「こいつらは、あんたの行動を知っていたのさ。だから、ここがわかった。尾行してるんじゃない」

「あなたたち、何者なの!?」

 男たちに答える素振りはない。

「あんたの関係者が情報を流してる」

「そんな……」

「おい、一つだけ答えろ」

 渉は、命令口調で言葉を投げた。

「猿渡は元気か?」

 バカにするような響きで問いかけた。

 男たちは顔を見合った。

「そうか。おまえらも、よく知らないんだな?」

 渉は、一歩前に出た。

「ここに追い詰めたと思ってるだろう」

「……なんだと?」

 ようやく、男たちに言葉として反応があった。

「ちがう。おれが、ここにおまえらをおびき寄せたんだ」

 強がりではない。だれもいない公園で、こいつらを迎え撃つためだ。

 動いた。男たちが抵抗する間もなく、ほぼ同時に二人を地面に叩きつけた。どんな投げだったのか、見ていてもわからなかったろう。

 さらに二人を打撃で悶絶させた。腹部に掌底をくらわせたのだ。

「残りは三人だな」

「ま、待て……おれらは、こんなことをするために来たんじゃない!」

 三人のうちの一人が、代表して声をあげた。

「命乞いか?」

 命まで取るつもりはなかったが、渉は言った。

「お、おれたちは……話をもってきた」

「なんの話だ?」

「仲間になれ」

「だれのだ?」

「ここでは言えん」

「それでどうやって仲間になれというんだ?」

「あんたに敵意がないのなら、会ってもらいたい」

「だれだか知らないのに、会うことはできない」

 きっぱりと渉は答えた。

「……まえにも襲われたのか?」

「出所して早々な」

「だがそれは、おれらの雇い主とは関係ないはずだ。猿渡だったか? そんな名前じゃない」

「昨夜、彼女を襲ったのは?」

「それも知らない」

 嘘を言っているようではなかった。

「どこにいけばいい?」

「行ってくれるのか?」

 渉はうなずいた。

「ちょっと!」

 香坂が異論をとなえた。

「こいつらの雇い主の顔を拝んでくる」

「なにされるかわからないわ」

「おれなら大丈夫だ」

「わたしも行く」

「やめたほうがいい。おれ一人のほうがやりやすい」

 彼女には悪いが、正直なことを言わせてもらった。自分一人なら、どうとでもなる。

「……そう、わかった。でも危険があれば、すぐに連絡して」

 渉は、どちらともとれる表情をつくった。香坂にも理解できるだろう。そんな状況に迫られたとしたら連絡している余裕などないし、たとえ連絡して助けが来たとしても、そのときには手遅れとなっている。

 渉は香坂と別れて、男たちのあとについていった。

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