第5話
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翌朝、ケータイショップの開店を待って、伊能の新しい携帯電話を契約した。事前の約束どおり、料金は陶子がたてかえた。
その足で二人は、墨田区へ移動した。第一の調査対象者である及川忠文が犯行前に住んでいた町を訪れるためだ。
場所は、スカイツリーにほど近い一角だった。当時はまだ、スカイツリーは建設されていない。むかしの駅名でいえば、業平橋。かつては、なんの変哲もない川沿いの下町でしかなかった。それが、及川が出所したときには、日本の誇る一大観光地と化していた。
はたして及川は、この景色をどう見ただろう。それとも、この町にはもどっていないのだろうか。そして、ふと考えた。同じ時期に収監されていた伊能も、それは同じだ。
「なにも手掛かりはないのか?」
伊能は、長大な塔にはなんの関心もないのか、無感情に言った。
「あることはあるんだけど……」
「どこだ?」
「当時働いていた工場がある」
そこの社長とは仲が良かったと、北島から聞いている。
「無職で盗みを繰り返してたんじゃないのか?」
「そういう人間だって、ちゃんと働いていた期間もあるものよ」
その工場に行ってみることになった。
そこは、スカイツリーの町というのが信じられないほど野暮ったく、むかしながらの工場が並ぶ区域だった。観光客は当然のことながら足を運ぶことはない。時代に取り残されたようなおもむきが漂っている場所だ。
陶子は、なかに入って話を聞くことにした。伊能は外で待つようだ。工場内は、ところ狭しと機材が詰め込まれ、奇妙な音をたてながら、すべてが稼働していた。それでなにができあがるのか、陶子では予想するのも難しい。
「あの!」
大きめに出したつもりだったが、それでも機械の騒音にかき消されてしまった。
「あの、すみません!」
今度は叫ぶように大声をあげた。
「あ!?」
男性が気づいてくれた。年齢は三十歳ぐらいで、こういう町工場では若い人材ということになるだろう。
「お話よろしいですか?」
「え?」
男性は、使っている機械を止めた。それでもほかの機械は動ているから、うるさいことにかわりはなかったが、少しはマシになった。
「遠藤さんはいらっしゃいますか?」
ここの社長の名前だ。
「ああ、奥に」
男性が指さす方向に進んでみた。ガラス戸があり、なかで男性が机に向かって事務作業をしているのが見えた。
案内してくれた男性は、すでに仕事へもどっている。
陶子は、どうせ聞こえないだろうとノックをせずに扉を開けた。
「すみません」
「あ、はい、どなたさま?」
年齢六十歳ほどの男性だった。彼が社長の遠藤なのだろう。
「わたしは、法務省の者です」
陶子は名刺を渡した。
「は、はあ……」
用件を想像できない──そんな顔をしていた。陶子にとっても、これが初めての聞き込みだから、どんな結果になるのか想定もできなかった。
「あの、以前こちらに勤めていた及川忠文さんについてお聞きしたいんです」
「ああ、ただちゃんのこと」
うんざりしたように、社長は声をもらした。
「またやったの?」
「あ、いえ、ちがうんです」
「なんかやったんじゃないの?」
「はい。ちがいます」
「じゃあ、どんな用なの?」
「それはですね……」
一瞬、なんと説明しようか迷った。
「及川さんにお話を聞きたいと思いまして……現在のお住まいとか、ご存じないですか?」
「やっぱり、やったんじゃないの?」
たしかに、そう思われても仕方がない。もし警察官が同じ言い回しをしたら、絶対に捜査のための聞き込みだ。が、陶子は刑事ではない。
「いえ、わたしは法務省の人間ですから」
「だから、悪いことしたから捜査してんじゃないの?」
「法務省には、捜査機関はありません」
「でも、検事さんは?」
「それは検察庁になるので、べつの組織です」
正確には、法務省の『特別の機関』という位置づけになるので、まったくの別組織ということではない。わかりやすくするために、そう説明したまでだ。
ちなみに、法務省のなかにも『刑事局』というそれらしい名前の部署は存在するが、なにかしらの捜査活動をすることはない。
「あくまでも、お話を聞くだけです。べつに犯罪に関することではありません」
とにかく、わかってもらうのが難しかった。
なんの調査なのか明言できればいいのだが、そもそも北島からの指示が曖昧だから、それすらもできない。罪と罰の均衡を調べています──そんなことを伝えれば、相手はますます混乱するだろう。
「ただちゃんなら、ちょっとまえに来たよ。出所したからって」
「いまどこにいるかは……」
「それはわかんねえけど、うちでまた働くかって聞いたら、働き口はあるって言ってた」
「そうですか……」
「正直、そう言ってくれてよかったよ。ここで働かしてやったころは、まだ盗みぐらいだったけど、さすがに人に大怪我させたんじゃ……」
そう言ってくれて──ということは、及川が気をつかって断ったと思っているようだ。
「どこに住んでいるのか、まったくわからないですか?」
「ええ……でも、都内だとは思うけど」
べつに根拠があるわけではなさそうだ。なんとなく、そう思ったのだろう。
「そうですか……ありがとうございました」
陶子は、あきらめて工場をあとにした。
「収穫はなかったみたいだな?」
「そんなことないわ」
伊能があざけるように声をかけてきたから、陶子は強気にそう返した。
「及川は出所後、ここへ挨拶にきている。東京近辺にいる可能性が高いわ」
そのまえに福島の厚生施設にいたことは、説明が面倒になるのではぶいておいた。
「でも、次の手掛かりはないんだろ?」
ない、というのも癪にさわったので、べつのことを言おうとした。だが、それも思いつかない。
「やつは、どこで盗みをやったんだ?」
「……たしか、住んでたのは墨田区だけど、犯行は東京の西部だったはずよ。傷害致傷で逮捕されたときは、三鷹での犯行だった。多摩地域を縄張りにしていたみたい」
「じゃあ、そこに土地勘があるってことだろ」
伊能の言いたいことはわかった。
「だけど、それでも広すぎるわ」
ヘンな沈黙が、二人のあいだに流れた。
救いの声のように響いたのは、陶子の携帯だった。北島からだ。
「局長?」
『調査対象者の所在はつかめたか?』
「いえ、まだですが」
さすがに、昨日の今日で催促の電話ではないだろう。
「どうかしたんですか?」
『いまはどこにいる?』
「かつて勤めていた墨田区内の工場です」
『ちょうどよかった。いまから本所署に寄ってくれ』
「本所署?」
墨田区の南を管轄する警察署だったはずだ。
『調査対象者が逮捕されたようだ』
「え? 及川忠文ですか? なにをやったんですか?」
『窃盗だ』
「強盗ではないんですね?」
『ちがう。万引きだ』
少し安堵したが、万引きでも重大な罪だ。
「本所警察署ですね?」
もう一度確認して、通話を終えた。
「どうした?」
「及川忠文がみつかったわ」
「盗みで、本所署にいるのか?」
「ええ」
それからすぐに警察署へ向かった。
「法務省……?」
担当の警察官は、強い疑問をそのまま声音にのせていた。
「はい。香坂といいます。こちらは伊能です」
「どういう用件なんでしょう?」
「窃盗で逮捕された及川に面会したいのですが……」
「それは無理です。接見はできませんよ」
その刑事は、戸惑うような言い方をしていた。法務省に勤めているのなら、それぐらい知っているでしょう? そういう思いがあるのだ。
勾留前の被疑者には、家族でも面会はできない。万引きの場合、勾留されずに釈放されるケースも多いと思うが、及川は傷害致傷の前科があるので、まちがいなく勾留される。もし前科がなくとも、いまの及川は住所不定の可能性が高いので、やはり勾留はさけられない。勾留の要件に、被疑者の住所が定まっていない──という条文がある。
だから、勾留が決定してから面会を申し出てくれ、と刑事は考えているだろう。
「ですから、そこをなんとか……」
「検察の方じゃないんですよね? でしたら……」
はっきりと断りたいのだろうが、むこうも法務省の効力を推し量れないようなので、曖昧な言葉を選んでいる。検察庁は法務省の『特別の機関』であり、その関係だけでみれば、省である法務省のほうが上であるように感じてしまう。
複雑なところは、法務官僚のトップである事務次官は、退任後、多くが高等検察庁検事長を経て、検事総長に就いている点だ。そこを考慮すれば、検察庁のほうが格上ということになる。
勤めている陶子にすらよくわからないのだから、この警察官の態度も仕方のないものだ。陶子にとって、それは幸いなことでもあった。
「なんでしたら、わたしのほうから検察庁へかけあってもいいですが」
つとめて堂々と陶子は伝えた。
「いや……それは……」
警察は、検察に弱いというのは本当のようだ。警察の仕事は、いわば検察が裁判を戦うための証拠集めのようなものだ。もちろん厳密に上下関係が決まっているわけではないが、検察官よりも警察官のほうが上にくるということは常識的にないだろう。
「……わかりました。十分だけなら」
刑事は折れてくれた。そうしてください、と言われていれば困ったことになっていた。
すぐに取調室を用意してくれた。警察官が一人立ち会っているが、陶子は及川忠文に会うことができた。伊能も同席している。この伊能のことも法務省の人間だと思っているようで、警察からはなにも言ってこなかった。
「はじめまして。わたしは、法務省更生調査室の香坂といいます」
「は、はあ……」
及川は、とてもくたびれた人相をしていた。覇気がなく、年齢よりも老けて見える。現在は五七歳のはずだが、もう七十を超えているように思えてしまう。
「強盗傷害で服役経験がありますね?」
及川は、力なくうなずいた。
「そのことについて、お話がしたいんです」
「? カリシャクの取り消しですか?」
「いえ、ちがいます。それに、及川さんは刑を終えています」
当然、だれよりも本人がそのことを知っているはずだが、及川の反応は鈍かった。
「……前科があるから、万引きでもムショ行きだって話ですか?」
「いいえ、そういうのではありません。あなたは強盗致傷を犯して懲役十六年の刑をうけました。それについて、どうお考えですか?」
「考え? どんな?」
「やったことに対して、刑が重すぎた。もしくは、もっと重くてもよかった──そういうことです」
「大怪我させたんだから、妥当じゃないですか? もっと刑期が長くても仕方なかった」
戸惑いながらも、しかし淡々と及川は答えた。
「べつにこの答えで今回の刑罰が重くなることはありませんので、率直に聞かせてください。たとえば、裁判だったら不利になって言えないような内容のことでもかまいません。その発言によって、あなたが不利益をこうむることは絶対にありません」
陶子は、言葉を選びながら説得した。
「いまのが本心です……」
つぶやくように及川は言った。
「人を傷つけるのは悪いことです……やるんじゃなかった」
感情はこもっていなかったが、嘘とも思えなかった。
予想がちがっていた。もっと自己弁護に終始するのではないかと考えていたのだ。だれかのせいにして、自分は悪くないんだ、と主張するのかと思っていた。肉親のせい、社会のせい、被害者が悪いんだ──そんな最低の言葉が出てくることを覚悟していたのに。
陶子は、かたわらで立っている伊能の顔を見た。彼は、興味深そうに及川のことを見下ろしていた。
「では、刑の重さは相応だったということですか?」
「専門家が判断をくだしたんです……それしかないじゃないですか……」
及川の犯行当時は、まだ裁判員制度ははじまっていなかった。いまよりも一審の判決では、専門性が高かったはずだ。
ちなみに、ただの強盗罪では裁判員制度の対象にはならない。最高刑が死刑または無期懲役か、故意に人を死亡させた場合が対象となる。傷害致傷の最高刑は無期になるので、対象となっているのだ。人が死亡しないのに裁判員制度がもちいられるのは、ほかに通貨偽造や営利目的の覚せい剤輸入・製造などがある。
「……」
及川の言葉は、とても重く響いた。上辺だけでなく、本心で犯行を後悔している。
「なのにあんた、犯罪行為は続けてるんだ」
唐突に、伊能が発言をはじめた。
「……生きるためだ」
ボソッと及川は答えた。
「生きるため? 生活に困っているということですか?」
陶子は、あたりまえのことをたずねた。だが、べつの意味がこめられているような気がしたのだ。
「困ってる……金の問題じゃない。生きようと思えば、ホームレスでもいいし、缶集めをすればちょっとは稼げる」
「あなたは以前勤めていた工場の社長に、働き口はある、と伝えていましたよね?」
「ああ」
「それは嘘だったんですか?」
「嘘ってわけでもない……そういう話もあった」
たゆたう蝋燭のように、陶子の瞳には映った。弱々しく、とても不確かな存在……。
「わざと捕まって、もどろうとしたのか?」
それにくらべて、伊能の声は激しく燃え上がる炎のようだった。
「……」
及川は、言葉や仕草では肯定も否定もしなかった。だが、答えはおのずとわかった。
「なぜ、もどりたいんですか? いまあなたは、ホームレスでも生きていけると言ったじゃないですか」
「そういうことじゃない……こっちの世界にはなかった……どんなにさがしても」
居場所がなかった……刑務所に入った経験のない陶子でも、累犯を繰り返す人間の心理を少しは想像できる。
塀の外よりも、内にいるほうが安心感をえられる。衣食住が保障され、医療もうけられる。外の自由といっても、所詮は金がなければ意味がない。
「なあ、一ついいか?」
また唐突に、伊能が話題を変えた。
「これまで犯行は、多摩のほうだったんだよな? どうして今回は、ここだったんだ?」
「それは、万引きだから──」
強盗ではなく万引きだから、わざわざ遠出をする必要がなかったのではないか、と言おうとした陶子の声は、伊能の手によって制されてしまった。
彼の眼が、本人から聞きたいんだ、と語っていた。
「土地勘があるんだろ?」
「……それは、むかしの話だ。もうずっと行ってない」
刑務所に入っていたのだから、当然だろう。
「それに、あこはイヤだ……」
「え?」
及川の言葉に疑問符をおぼえたところで、部屋にいた捜査員に催促されてしまった。
「もう時間ですよ」
仕方なしに、面会を終えるしかなかった。
取調室から出ても、及川のさびしそうな顔がいつまでも印象に残った。
* * *
伊能にも、もどりたいという願望はあるのだろうか?
わたしは、素朴に考えた。
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