第3話
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手近なビジネスホテルに伊能渉を宿泊させて、とりあえず陶子は北島に連絡をとった。
『で、うまくいったかね?』
「どうなれば、うまくいった結果なのかわかりませんけど、とにかく協力はとりつけました。今日はホテルをとりましたが、彼の住居はどうしますか?」
ほかにも相談したいことは山ほどあった。正直、協力させる自信はなかったので、そのあとの面倒な部分まで考えがおよんでいなかった。
仕事のパートナーになってもらうのだから、住む場所の提供や給金のことなど、決めておかなければならないことは多い。当然、陶子が独断できることではない。直接の上司である北島に手配してもらわなければならない。
『では、これからあの場所で』
こうして陶子は、同じ日に同じ喫茶店を三度も訪れた。時刻は、もうすぐ夜七時になろうとしていた。店員の眼が痛いと感じたが、よく見れば同じ顔はいなかった。朝からの店員は、すでに夜の人員と入れ替わっているようだ。
北島は、陶子に遅れること五分ほどで入店した。
「まずは聞かせてもらおうか。彼の第一印象を」
開口一番、北島は言った。おつかれさま──や、ごくろうだったね──などのねぎらいは、まったく頭にないようだ。
陶子自身、社交的なあいさつにこだわる性格ではなかったので、自然に会話へ加わった。
「粗暴でした」
「それだけじゃないだろう?」
「どうして、そう思うんですか?」
「君の顔色を見れば、わかるよ」
表情ではわからないはずだ……。
が、北島には以前から感情が伝わっているような気もしている。
「……彼は、本当に殺人犯なんですか?」
ためらいながら、陶子は言った。
「粗暴なんだろ? どうしてそう思った?」
「一線を越えないような気がして」
感覚的なものだから、発言していて自信がなかった。
「それは、悪人ではない、ということでいいのかな?」
「はい。悪人ではないと思います」
北島は、満足そうにうなずいた。
「伊能渉のことを知っていたのですか?」
「当時はそれなりに騒がれた事件だったからね。元とはいえ、自衛官だった男が殺人を犯したんだから」
陶子の訊いた意味はちがった。なにか個人的な関係があったのかを質問したのだ。
「そうですか」
その考えを心にしまい込んだ。北島は、なにかを隠している。だが、素直に認めることはないだろう。
いまは追及すべき時ではない。必要になったら聞き出せばいいことだ。
「それと……」
「ん?」
「刑務所の前で、襲われました」
北島は驚かなかった。まるで予期していたことのように。
「そうか」
「だれに襲われたとか、そういう質問はないんですか?」
「だれに襲われたんだ?」
あきらかに興味のない、とってつけたような問いかけだった。
「若い男たちでした」
「そうか」
「怪我はなかったのかとか、そういう質問はないんですか?」
同じようなやりとりを繰り返した。
「怪我がないから、ここにいるんだろう?」
「わたしではなく、彼が怪我をしたかもしれない」
「それはない」
「どうしてですか?」
含み笑いをするだけで、そのことについて北島が回答することはなかった。
単純に考慮すれば、伊能渉の戦闘力を知っているということになる。たしかに、彼は強かった。しかし、いくら強くても限度がある。多勢で、しかも武器を所持していたら……いや、それでも余裕で彼は立ち回った。そして、相手を圧倒した。
まるでアクション映画のヒーローのようだった。殺人犯という過去を知っていなければ、本当にそう思っていただろう。
「もしかして……襲ってきた男たちに心当たりがあるんじゃないですか?」
「さあ、わからんね。その男たちのことは知らん」
男たちのことは知らん──この言い回しにも含みをもたせている。男たち以外については心当たりがあるということだ。はたして、それがなにについてなのか……。
「まあ、彼のこれからの住居と報酬については問題ない。私のほうで手配しておくよ」
強引に話をまとめてしまった。これ以上、彼についての話題を避けたいようだった。
「ついでだから、さっそく第一の調査対象者の資料を持ってきた」
「第一は、彼じゃなかったんですか?」
「伊能渉は、いわば『ケース0』だな。もちろん、第一の対象者と並行してレポートしてもらいたい」
また懐から折りたたまれた紙を取り出した。これも水に溶ける素材なのだろう。
及川忠文。五七歳。懲役十六年。一年前に仮出所をしている。罪状は強盗致傷。盗みに押し入った家の住人を包丁で刺して、大怪我を負わせている。その犯罪のまえにも、何件か強盗を重ねて服役経験もあった。
資料を読むかぎり、典型的なモラル欠如した累犯者だ。
殺害はしていないのに懲役十六年ということは、犯罪の悪質性を裁判所が認めたということになる。強盗致死傷罪の罪は重く、強盗殺人の場合は、死刑か無期懲役になる。限りなく殺人に近い強盗致傷だったということだろう。
「現住所が書いてありませんでしたが」
資料を水で溶かしたあと、陶子はたずねた。
「どこにいるかわからないのですか?」
「出所直後は、自立更生促進センターの紹介で仕事についていたんだがね」
「それって……」
通常、親族の協力を得られない仮出所者の多くは、民間の更生保護施設に身を寄せる。そこで支援をうけて職をさがし、やがて社会復帰をめざす。
が、民間の施設では困難だと判断された出所者を対象として、公的な自立更生促進センターというものが存在する。
ただし、
「たしか、福島と北九州にしかないんでしたよね?」
「ああ。調査対象者の出身が福島県だったのもあって、そういうことになったらしい」
「福島にいるということでしょうか?」
さすがに、行動範囲が広すぎる。
「紹介された仕事はとっくに辞めているから、そうとはかぎらない。人間関係がうまく築けないようだが、強盗をやらかした当時に働いていた会社の社長とはウマがあったようだ。墨田区の町工場だ」
「いなくなったのは、いつですか?」
仮出所中に姿を消せば、逃亡とみなされて、仮出所が取り消される。もしそうだとしたら、みつからなように潜伏しているはずだ。
「いや、二ヵ月前に満期をむかえているから、逃亡ではない。その点は安心していい」
「わかりました。さっそく明日から調査に入ります」
不安は強かったが、陶子は了解した。
北島との面会を終えると、陶子は伊能渉の宿泊しているホテルに向かった。
悪人ではないと思っていても、まだ完全に信用しているわけではない。もしかしたら、ホテルを抜け出して姿を消しているかもしれない。かりに逃げていたとしても、刑期を終えて出所した伊能には、なんの負い目もない。
部屋の扉をノックしたが、応答はなかった。
気配がしない。もちろん、部屋のなかにいる人間の気配を察する能力などないが、直感的にいないと思った。
陶子は、急いでロビーへ向かった。フロントでたずねると、チェックアウトした形跡はなかった。外出したかどうかもわからない。料金は事前に二泊分を払ってあるので、ホテル側としても神経質にはなっていないはずだ。
たとえ伊能が行方をくらませたとしても、ホテルの損失は返却されないキーだけとなる。それについても、このホテルはカードキーを採用しているから、大きな被害ではないだろう。
陶子は、ホテルを出た。すぐ眼の前は交差点だ。信号は赤。交通量は多く、信号待ちをする歩行者も大勢いる。
伊能の姿がないか、周囲に瞳をめぐらせた。
そのときだった。
「え?」
ふわっとする浮揚感に虚を突かれた。
背中を押されていた。
危ない! 心のなかで警告の叫びがあがる。
ブ──ッ!
耳障りなクラクションが鼓膜を痛めつけた。
「あぶねえだろ!」
陶子は、ドライバーの怒鳴り声もうわのそらで、アスファルトをみつめていた。
「大丈夫か?」
知っている声に振り向いた。
伊能渉が見下ろしていた。
陶子は、彼の助けで立ち上がることができた。信号は青になっていたが、通行人の多くは渡らずに騒動を眺めている。
「もどるぞ」
「……いままで、どこに?」
ようやく、それだけを声に出せた。
二人は、ホテルに入った。そのころには、すでに騒動は忘れ去られていた。歩行者はそれぞれ横断する者、信号待ちをする者に分かれ、車もなにごともなかったかのように走行している。
伊能の泊っている部屋につくと、陶子はベッドに腰をおろした。ビジネスホテルのシングルなので、それこそ泊まるための機能しかない。ベッドのほかには一人掛けのソファ、簡素なテーブルのみのワンルームだ。
「どこにいたの!?」
だいぶ落ち着いてきたので、陶子は厳しく追及した。
「おれは部屋も出ちゃいけないのか? もう囚人じゃないんだぜ」
たしかにそのとおりだ。彼は仮出所でもない。完全なる自由の身だ。もし仮出所者だったとしても、陶子に身柄を拘束する権限などない。
「そうね……そのとおりね」
陶子は自らの非を認めた。
「でも、これからは仕事のパートナーになるんだから、できれば居所は明確にしてもらいたいわ。明日にでも、携帯を買いにいきましょう」
「費用は、そっちもちなんだろうな?」
「出すわ。でも、しばらくしたら通信料は自分で払うようにしてね。これから、ちゃんと給料を渡すんだから」
伊能の瞳は、まだこちらを信用していなかった。
「嘘じゃないわ。働いてもらう以上、それにみあう対価を出します」
「どうせ元受刑者だと思って、低賃金でこき使うつもりだろう?」
「そんなことない」
陶子は否定したが、とはいえ実際に報酬を決めるのは北島だから、どれぐらいの額を払うのかは……。
「まあ、どうせ仕事なんてみつからないだろうから、いまのおれには、はした金でもありがたいがね」
嫌味たらっしかったが、それでも一応の納得をしめしてくれて、正直助かった。
「部屋が決まるまでのホテル代も心配しないで。部屋探しも、こちらでやっておきます」
前科があると、いろいろなところに不都合が生じる。職探しだけではなく、部屋を借りるにも自由にはいかない。なによりも一番厄介なのは、保証人の確保だ。
少し恩着せがましかったが、恩を売っておいて損なことはない。いかに彼が凶悪な犯罪者だったとしても、恩や情があるのとないのでは、ぎりぎりのところで行動がちがってくるはずだ。
「それと、ずっとってわけにはいかないけど、最初の何ヵ月分かの家賃もこっちでもつわ」
金で釣るのは卑怯だったが、かまわすに陶子は言った。
北島の了解を得ていない内容だったが、かまうことはないと開き直っていた。
伊能は、そっちの思惑などお見通しだ、という表情をしていた。
「で、仕事はいつからなんだ?」
「明日からよ。携帯を用意したら、すぐにはじめる」
不満をもらすかと思ったが、伊能からはなにも言葉は出なかった。
「……それから、さっきのことなんだけど」
陶子は、切り出した。
「わたしは、だれかに押された。だれに押されたのか、あなたは見ていた?」
「おれが押したと思ってるのか?」
「いいえ。あなたじゃない」
これには確信があった。道路に飛び出したとき、一瞬だけ後ろを振り返った。
彼はいなかった。
「ねえ、見ていたんじゃない? もしかして、あなたはその人物を確認するためにホテルから出ていた……」
まったく根拠はなかったが、自分の勘がそう告げている。
「ああ。見ていたよ」
まるで些細なことを認めるように、彼は答えた。
「だれなの? あなたの知っている人?」
「あんたは、警告をうけたんだ」
「警告?」
「おれに近づくなって」
「昼間の連中と同じってこと?」
「だろうな」
あくまでも、伊能の口調は軽い。
「なんでわたしなの?」
「つけられてたんだろ。おれと同じように、あんたもマークされてた」
「そいつらは、何者なの?」
「質問が多いな」
「ごまかさないで!」
「背負う覚悟があるのか?」
「言ったでしょう。人はだれでも、なにかを背負ってるって」
陶子は、伊能の瞳をみつめた。彼の眼は冷めているようで、どこかに熱をもっていた。
「すべてのことは、つながっている──」
伊能は、これまでのことを語りはじめた。
* * *
彼の過去は、わたしに驚きをあたえた。
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