第2話

       2


 え? おれが、あの女に出会った第一印象?

 色気がないってだけだね。

 それしかねえよ。


     * * *


「もう、もどってくるなよ」

 とってつけたような言葉に送られて、渉は塀の外に出た。

 十五年。

 地獄のような日々は、ただ苦痛でしかなく、夢も希望もとうに消えていた。

 番号で呼ばれ、まともな人間としてのあつかいはされない。伊能渉、という名すら忘れてしまいそうだった。

 許されない罪を犯していたのなら、それは自業自得だ。だが渉は、自分が逮捕されたことにも、有罪判決を受けたことにも、刑務所に入れられたことにも、すべてのことに納得していない。

「ん?」

 視線を感じた。

 すべての物事は、ふた通りに分けられる。不快なものと、そうじゃないもの。

 これは、不快なほうだ。

 渉は、周囲を見回した。高い塀がそびえる道には、人の姿があった。ゆっくりした足取りで、女が近づいてくる。

 腑に落ちなかった。いまの不快な視線が、その女性のものだとは思えなかったのだ。かといって、その女以外にはだれもいない。ただ、少し離れた場所にワンボックスカーが停まっていた。

「伊能渉さんですね?」

 眼の前まで来たところで、女のほうから声をかけてきた。

 年齢は、二十代半ば。

 身長は155㎝といったところか。190㎝の渉と並べば、その差は際立つ。

「だれ?」

 渉は、警戒して応じた。さすがに暴漢ではないだろうが、しかしそれは見せかけで、銃器を隠し持っているかもしれない。このすさんだ世の中では、なにがおこっても不思議ではない。

「わたしは、香坂といいます」

「用件は?」

「少し込み入った話です」

 香坂と名乗った女は、渉の迫力に気押されたのか、表情こそ変わらないものの、後ずさりした。

 容姿は整っているのに、これほどまでに色気を感じない女を見るのは、はじめてだった。

 美人にも、ふた通りある。

 残念な美人と、そうじゃない美人だ。

「できれば、どこか落ち着ける場所でお話をしたいんですけど」

 やはり、さきほどの視線はまちがいではなかった。

「え?」

 香坂という残念な美人が、驚いたような声をあげた。渉は、数人の男たちに囲まれていた。

 どこに隠れていたのだろう。やはり臭いのは、あのワンボックスカーか。扉の開く音はしなかったから、車内ではなく、陰に潜んでいたようだ。数えれば、八人いた。

 これほどの大勢を簡単に接近させたということは、自分の感覚が鈍っていることを痛感せずにはいられなかった。これが、ブランクというやつか。

「あなたたちは?」

 香坂が声をかけた。演技をしているわけでないのなら、この男たちは仲間ではない。

「おれを待ってたのか? むかしの用件か?」

 やはり男たちは答えない。

 そのとき、シュッと一人が動いた。

 渉は、反射的に応戦していた。

 動いた男の右手には、小型の刃物が握られていた。塀のなかにいて身体がなまっているとナメられたようだ。勘や感覚が鈍っていても、肉体は万全だ。

 たった八人で。

 薙ぐように襲いかかってきたナイフを持つ腕を、左手でガッシリと受け止めて、そのまま両手を使って相手の腕をひねりあげた。

 短い悲鳴が不快に響いた。

 これだけで終わらせはしない。

 ひねりあげた腕を弱めずに、前屈みになっていた顔面を、左の膝で叩いた。

 手ごたえ──いや、足ごたえがあった。

 一人を二秒で失神させた。

「うっ」

 男たちの息をのむ音すら不快だった。

 一気に距離を詰め、みぞおちに左の拳をめり込ませた。

 二人。

 鉄パイプのようなものを持っている男がいた。目障りだから、振り下ろされるまえに蹴り上げてやった。胸を強打して、その男は軟体動物のように崩れ折れた。

 三人。

「まだやるか?」

 渉のひと睨みで、残りの五人は戦意を喪失させていた。

「バ、バケモノか……」

 男たちは、みな腕に自信があったのだろう。全員が二十代で、体力的にも精神的にも自分たちの有利を疑っていなかった。今年で三九になるオッサンに負けるはずはないと、タカをくくっていたのだ。

 その慢心の結果が、このざまだ。

 男たちに教えてやりたくなった。塀のなかでも肉体を鍛えることができるということを。いや、それぐらいしかやることがない。だから元兵士にとってムショ暮らしは、ハンデにはならない。

「だれに頼まれた?」

 渉は、穏やかに訊いた。

 声を荒げたり、威嚇する言葉を吐くのは、弱い者のやることだ。

「だれから命令された?」

「お、おい! やめろ!」

 渉が問いかけたのとはべつの男が、香坂という女性を人質にとっていた。

「おれらに逆らうな!」

 その男は刃物などは持っていなかったが、後ろから香坂の首に腕をまわしていた。それで形勢を逆転できると思っていることに、笑いがこみあげてきた。

「おいおい、なんのつもりだ? 言っとくが、おれはその女と、いまここで初めて会った」

「う、うっせえ!」

 男は興奮して、こちらの言葉が耳に入っていない。

「いいから聞け。その女は、人質にはならない。おれにとっては、どうでもいい人間だ」

「だ、黙れ!」

 渉は、ため息をついた。その男だけではなく、ほかの男たちも同様に冷静さを失っている。

「き、聞いてるぞ……おまえは、そんなヤツじゃないって!」

 人質をとっているのとはべつの一人が、勇気を振り絞るように発言した。

「人を助けるために殺したんだってな! バカなヤツだ……それでナガムシくらいやがって!」

 心底、軽蔑するように、その男は続けた。

 こんな輩にからかわれるとは、おれも落ちたもんだ──渉は自虐した。

「それがどうした? またおれが助けるとはかぎらないだろう?」

「この女を見殺しにできんのかよ!」

 男が凄んだ。

「おいおい、殺すつもりか? おまえら、人を殺すってことが、どういうことかわかってるのか?」

「それぐらいなんだよ!」

「粋がるな、ガキどもが」

 渉は、嘲笑した。

 驚くことがあった。渉よりも、はっきりとした笑い声をたてた人物がいた。

「ふふふ、そのとおりよ」

 人質にとられた香坂という女が放ったものだった。よく見れば、おびえていない。ただし声だけで、笑ってもいない。

 おれが助けるものと信じて疑っていないかのようだ──渉には、そう感じられた。

「あなたたち、殺人の最高刑は知ってる? まさか、一人だけなら死刑にはならないと本気で思ってるわけじゃないでしょう? たとえ殺したのが一人でも、死刑の可能性があることを忘れないで」

「バ、バカにするな! 死刑なんか怖いかよ!」

「そう言ってた被告が、死刑判決を受けた瞬間に失禁したのを知ってるわ。執行のまえにも泣き叫ぶのよ。そのときになって反省しても遅いの。ねえ、あなたたち、こんなことはやめなさい。どう分析しても、あなたたちに勝ち目はないわ」

 むしろ諭すように、香坂は言った。

「それとも、わたしを殺して死刑判決を受けてみる?」

「お、おまえは黙ってろ!」

 実際にこのケースでこの女を殺したとしても、死刑にはならないだろう。いや、法律の専門家ではないので断言はできないが、しかし常識と照らし合わせてもそれはないはずだ。

 それなのにこの女は、男たちに恐怖を植えつけた。死刑廃止論者のなかには、死刑制度が犯罪の抑止にならないと主張している人間もいる。だが、やはりそれは犯罪者の心理に深く作用しているようだ。

「足枷をはめられたな」

「な、なに言ってんだ!?」

 男たちには、意味が通じなかった。

「逃げるんだったら、おれは追わない。どうする?」

 男たちの返事を待つのも面倒だった。

 答えが来るまえに、渉は動き出していた。

 人質をとっている男に一歩で接近し、掌底を手加減なく叩き込んだ。女の顔スレスレに手が伸びたが、女の冷静さは予想どおり崩れなかった。

 男のほうは、清々しいほどに崩れていた。

 意識を飛ばして、白目むいて空を見ている。もちろん、実際には見えていないだろうが。

 次の男を仕留めようと踏み込んだが、残りの男たちの虚勢もそこまでが限界だった。

 恥も外聞もなく、背中をみせて逃げ出していた。

 これが殺し合いなら、全員を追いかけて、瞬時に仕留めることができただろう。いまは殺し合いではないので、当然だが追いかけることはしない。

 刑務所沿いの道路に、渉と香坂だけが残された。いや、気絶した男四人もいるが、それを数に入れるつもりはない。

 男たちは、あのワンボックスカーに逃げ込んだから、自分たちが去れば、この間抜けどもを回収していくだろう。

「ぜんぜん怖がってなかったな?」

 渉は言った。この女が男たちの登場に本気で驚いた声をあげていなければ、男たちとこの女の関係性を疑っているところだ。

「言っときますけど、わたしの知らない人たちです」

 香坂は、キッパリと言った。渉が、その疑いをもったことも察している。見た目に比例して、洞察力はあるようだ。

「感情が出ないのか」

 驚いていたのも声だけだった。

「……」

 表情は変わらなくても、不快な思いをしていることはわかった。

「知ってるよ、そういうヤツ。特殊部隊の仲間もそうだった。どんなに困難なことに直面しても、感情が面にあらわれないんだ。かといって、内心も動じていないわけじゃない。人並み以上にビビリだったよ、そいつは」

「……わたしも、ビビリって言いたいの?」

 あきらかに『ビビリ』という表現を言いなれていない。おれに合わせたんだろう──渉は、そんなどうでもいいことを考えた。

「そうよ。スッゴイ怖かった」

 正直に香坂は認めた。

 渉も、認めなければならないことがあった。この香坂という女に、興味がわいていた。

「話を聞いてやる。場所を移そう」



 十五年ぶりの都会は、思ったほど進化していなかった。電車での移動も、驚きはない。自動改札も当時からあったし、携帯での支払いもサービスを開始していた。むしろ、いまでも切符が使われていることに驚いたほどだ。

 香坂と向かったのは、官庁街のはずれにある喫茶店だった。

「どうしてこんなところまで?」

 喫茶店の数が減っていると、ここに来る途中に教えられていたが、それにしても、もう少し近いところにだってあっただろう。

「ここが、わたしのオフィスなのよ」

 表情が変わらないから、どこまでが冗談なのかわからなかった。

 おたがいが紅茶を注文して、香坂が本題を切り出した。

「出所したばかりで、仕事がないでしょう?」

「それが?」

「わたしが、それを世話してあげる」

「……」

「なにか疑ってる?」

「ただ仕事を紹介してくれるわけじゃないだろ? あんたの目的は?」

「簡単よ。わたしの仕事を手伝ってもらいたいの。つまり、あなたに紹介する仕事がそれってこと」

「楽な仕事なわけないよな?」

「楽かどうかは、わからない。だって、わたしだってこれからはじめるんだから」

 それで人を雇うというのは、ずいぶんといい加減な話だ。

「なにをさせるつもりだ?」

「あなたのような人を調査するのよ」

「おれみたいな?」

「そう。犯罪をおこして、出所してきた元受刑者」

「具体的には?」

「おこした犯罪と、うけた刑罰の重さをくらべるのよ」

「そんなことをして、どうする?」

「調査をしたさきのことは、わたしにもわからない。あなたの場合はどう?」

「おれの?」

「喧嘩の末、相手を殺害。裁判の結果、懲役十五年」

 渉は、不快感をのせて香坂を睨んだ。

「率直に、あなたはどう考えてる?」

「まったくもって、納得いかないね」

「どの部分?」

「すべてだ」

「すべて?」

「おれは、殺人なんて犯しちゃいない」

「いまになって無罪を主張するの?」

「そうだ」

 渉は、堂々と宣言した。

「殺していない、と?」

「殺しはした。だが、殺意があったわけじゃない」

「傷害致死?」

「それもちがう」

 香坂が顔を歪めた。

 なんだ、表情をつくることもできるじゃないか──そう考えたが、自然に出たものではなく、こちらに心情を知らせるため、わざとそういう顔をつくったのだと、すぐに悟った。

「どういうこと?」

「おれが反撃しなけりゃ、死んでいた」

「あなたが、ってこと? 正当防衛を主張するの?」

「法律の解釈は、専門家のほうでやってくれ。だが、おれが殺さなければ、べつの人間が殺されていた」

「なんのことを言ってるの? 裁判記録には、そんなこと載っていなかったわ」

「それが、おれにとり憑いた業だ」

「業? カルマということ?」

「そんなものだ」

「意外ね。カルマ哲学でも専攻していたの?」

「あんたが読んだ資料には、なんて書いてあった?」

 渉にはわかった。この女は、実際に裁判記録を眼にしたわけではない。かいつまんでまとめられた何者かのレポートを読んだだけなのだ。

「……大学には行っていない。高卒で自衛隊に入っている」

「それから?」

 からかうように、渉は言った。さすがに眼の色が不快になった。だんだんと彼女の感情が読めるようになっていた。

「怒ったんなら、やめておけ。おれといると不快なことしかおこらない。さっきの男たちを思い出せ」

「彼らは、なんなの?」

「業だよ」

「……よくわからない。もっと具体的に言って」

「おれの背負ったものの結晶が、あれだ」

「なにを背負ってるの?」

「それは知らないほうがいい」

 渉は、それ以上の介入を許さなかった。

「でもあなたがなにを背負っていたとしても、手伝ってもらうわ」

「あんたも背負うことになるかもしれない」

「かまわないわ」

「ほう」

 その心構えだけには、感心しておこう。

「だって人間はだれしも、なにかしら背負ってるものでしょう?」

 もっともなことを言われた。

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