断罪の行方

てんの翔

第1話

       1


 罪と罰の均衡を、どう思う?

 そう訊かれたとき、香坂陶子は、それがなにを意味するものなのかわからなかった。

 朝。喫茶店のなかは静かで、クラシックがゆるやかに流れている。省内ではなく、ここで会うことになったことでも、自分の雲行きが予想できた。

「閑職……ということですよね?」

「そういうわけじゃない。辞令のとおりだよ」

 北島は、涼やかな表情をしていた。法務省保護局の局長をしている人物だ。

「これから、わたしはなにをすればいいんですか?」

「答えをまだ聞いていなかったね。もう一度質問させてもらおう」

 涼やかな顔は変わっていないのに、どこか眼つきだけが鋭くなっていた。

 北島は四十代で局長の椅子を手に入れた男だが、威圧的でも傲慢でもない。だが心の底が覗けない、したたかさもあわせもっている。普段は信用できたとしても、ぎりぎりの窮地に追いやられたときほど信じてはいけないタイプだ。

「罪と罰の均衡……でしたよね?」

「そうだよ」

 何度耳にしても、質問の意図が理解できなかった。

「それは、罪状の重さと刑罰の重さがつりあっているか、いないか……ということですか?」

「そういうことになるのかな」

 北島の返事は、じつに曖昧なものだった。

「刑事裁判の現状を憂いているのですか?」

「そうではないよ。裁判とは、べつの話だ」

「局長は、なにがおっしゃりたいのですか?」

 さっきから質問ばかりしている……陶子は、いまの会話に苛立ちを感じていた。北島の受け答えが、とてもぼやけているのが原因なのだ。

「更生調査室の仕事に関することだよ」

「……ですから、閑職なんですよね?」

「そういうわけではない」

 繰り返しになった。

 心底、この会話に嫌気がさした。

「そんな顔をしないでくれ。君には、期待してるんだ」

「わたしの顔ですか?」

「そうだよ」

 嘘だ。陶子には自信があった。

 物心ついたころから、陶子は表情の変化というものをもちあわせていない。

 どんなときでも無表情。

 法務省内で『氷の彫像アイス・スタチュー』と呼ばれているのを知っている。

「まあ、君には期待してるということだよ」

 その言葉も信じられるわけがなかった。

 法務省保護局に『更生調査室』という部署が急遽つくられて、そこの室長に任命された。室長とはいっても、人員は陶子一人しかいない。しかも、陶子はもともと保護局の人間ではなかった。

 保護局とは、更生保護──出所する受刑者の更生をになう部署になる。陶子のもといた部署は、刑務所などの収監施設に関する矯正局の総務にいた。

「どうして、わたしなんですか?」

 すぐには答えが返らなかった。

「わたし、なにかヘマをやらかしたんですか?」

「ふふ、どうして君はそんなに自分を卑下するんだい? 君の実力が認められたとは思わないのかね?」

「わたしは、楽天家ではありません」

「まあいい。そんなに不安なのなら、詳しい仕事の話をしようじゃないか」

「ここでですか?」

 てっきりここに来たのは、左遷人事についての釈明だけだと思っていたから、素直に陶子は驚いた。

「いやほら、まだ部屋も決まってないしね。それに君一人なんだから、これからもこの店で待ち合わせをしよう」

 どこまでが冗談なのかわからなかった。

「では、どこでわたしは仕事をすればいいんですか? それとも、こなす仕事もない暇な部署ってことですか? 早期退職をさせたいのでしたら、そうおっしゃってください!」

 語気を荒げて皮肉を言ってしまった。

「落ち着いてくれ。君の任務は、罪と罰の均衡をはかることだ」

「……」

「最初の質問にもどろう。罪と罰の均衡は、つりあっていると思うかね?」

「……犯した罪の重に対して、刑罰が適正かどうかということですか?」

 北島は、首を横にも縦にも振らなかった。

「ケースバイケースだと思いますけど……。ですが、一般的な見解では、罰が軽すぎると考えられているんじゃないですか?」

 昨今は、凶悪な犯罪が増えている。いや、じつは過去とくらべれば、殺人事件の発生件数が減っていることを、陶子も知っている。たとえば、戦後まもなくのころは、いまよりもずっと多くの凶悪犯罪が発生していた。

 だが、貧しかった時代のそういうものとはちがい、現代の犯罪はより恐ろしく感じてしまうものだ。

 それはたんに、当時を知らないだけかもしれない。一度に大勢が殺害された事件はむかしからあったものだし、猟奇殺人だって同様だろう。

 しかしそれでも、近年における犯罪の重大化を意識してしまう自分がいる。

「局長は、どうお考えなのですか?」

 人にばかりその質問をしているから、腹が立った。本当に北島の答えを聞きたかったわけではない。

「どうだろうね」

 が、拍子抜けする返答を耳にして、イライラはさらにつのってしまった。

「では、わたしにもわかりません」

「それを調査するのが、君の仕事だ」

「言葉の意味を理解しかねますが」

 もう遠慮するのはやめた。不快感を表情と声にのせて、陶子は言った。ただし、表情のほうは効果がないだろうが。

「出所した受刑者を追跡調査してもらいたい」

「それは、保護観察ということですか?」

「いや。それなら、すでにそういう制度があるだろう」

 陶子が指摘しようと思っていたことを北島は口にした。

 仮釈放となった者や家庭裁判所で保護観察を言い渡された少年、保護観察付きの執行猶予をうけた者──それらを担当する機関が保護観察所になる。法務省設置法と更生保護法にもとづいて設置されている。

 ちなみに、その保護観察における事務を担当するのが、法務省保護局ということになる。

「君がこれからおこなっていくのは、元受刑者たちへの更生保護ではない。調査そのものだよ」

「なんのためですか?」

「刑罰の重さと軽さを、ここらへんでだれかが検証しなければならないだろう?」

「そのだれかが、わたしってことですか?」

「そういうことだ」

「具体的には、なにを?」

「元受刑者の現在を調査して、レポートにまとめてもらいたい」

「現在? 素行調査ということですか?」

「どういうものでもかまわない。その人物にあたえられた刑期が……罰が適正だったかを推し量るものだ」

「では、本人が反省しているか──」

「いやいや、そういうことではない」

 発言の途中で、北島にさえぎられた。

「反省の度合いは関係ないということですか?」

「関係がないわけではないが、なんというか……もっと本質的なものだよ。個人の感情ではなく、絶対的な罪と罰のバランスだよ」

 聞けば聞くほど、わからなくなっていく。

「だが、さすがに君一人では荷が重いだろう」

 北島は、スーツの内ポケットから三つ折りにたたまれた紙を取り出した。

 渡されたので、その紙を開いた。A4サイズで、だれかの顔写真と、プロフィールらしきものが記されていた。

「これは?」

「まず最初にことわっておくが、この書類は部外秘だ。けっして、外には漏らさないでもらいたい。これから私がここで渡すものは、すべてそうだと思ってもらいたい」

「そのわりには、雑ですね」

 封筒にも入れず、じかに内ポケットにおさめるなんて……。陶子は、素直な感想を口にした。

「このほうが、重要なものだと感じないだろう?」

「そうですね……」

 思いはしなかったが、会話の流れに従って、そう答えておいた。

「これを読んで、記憶してくれ。君になら、できるだろ?」

 陶子は、戸惑いながらもうなずいた。この程度なら、一分もいらない。

「覚えました」

「よろしい。ところでこの紙、気になったことはないか?」

「え? この紙ですか?」

 意味ありげに、北島はうなずいた。

「いえ、べつに……」

 どうやら記述内容ではなく、紙そのものをさしているようだ。

「ただ、少しごわごわしているような……」

 あまり良い紙を使用していない。率直に、そのようなことを考えた。

「これは、こういう紙なんだ」

 北島は、コーヒーカップの受け皿に、折りたたみなおした書類を置いた。そして、まだカップに残っていたコーヒーの残りをかけた。

「え!?」

 小学生のころの理科の実験を見ているようだった。紙が、コーヒーによって溶けていく。

「それは?」

「水で溶ける紙を使用している。ここでの内容を外部に漏らさないためさ」

「スパイ映画の観すぎじゃないですか?」

 嫌味がこもっているな、と陶子は自分でも思った。

「それだけ、慎重にいきたいってことさ」

「あの噂、本当なんですね」

「噂?」

「はい。局長が、事務次官を狙ってるって」

「おいおい」

「今回のこと、そのための布石じゃないですか?」

「君だって、うちの仕組みは知っているだろう?」

 法務省は、その他の省庁とはキャリア制度がちがう。

 一般的には国家公務員試験Ⅰ種(現在は総合職)に合格した者がキャリアと呼ばれ、苛烈な出世レースを繰り広げていくことになる。官僚のトップである事務次官は、当然そのキャリアのなかから任命される。だが法務省には事務系キャリアのほかに、法曹系キャリアが存在する。いわゆる司法試験組だ。検察庁から出向するかたちをとっている検察官。もしくは裁判官(裁判官の場合は出向の時点で検察官になる)。しかも、そちらのほうが主流になる。事務次官も司法組から出るのが慣例となっている。

 Ⅰ種キャリアは、局長のポストでも難しいとされている。それを北島は、四十代のうちに手に入れているのだ。

「これまでの仕組みを吹き飛ばすおつもりなんでしょう?」

「ふふ、おもしろい推理だ。いいね。これからの任務に、その洞察力をいかしてもらいたい」

「わかりました。本題にもどってください」

 これ以上語り合ったところで、本心がわかるわけでもなかった。

「いまの書類の男性は?」

「名前は覚えているかね?」

「伊能渉」

 1984年七月生まれ。元陸上自衛隊所属。罪状、殺人。懲役十五年。

 以上のようなことが記されていた。実際にはもっと細かな情報も書かれていたが、この会話には必要のないものだ。

「その彼が、最初の調査対象者であり、君の重荷を軽くしてくれる協力者でもある」

「殺人犯が……ですか?」

「これから君が相手にするのは、そういう連中だよ。眼には眼を、凶悪犯には凶悪犯を」

「その男が、わたしに危害を加えるとは思ってないんですか?」

「たぶん、大丈夫だろう」

「だぶん?」

 腹立たしかった。そんな根拠もないことで、自分の命を危険にさらせというのか。

「殺人といっても、彼はいわくつきでね」

「どういうことですか?」

 いま水に還った資料には、上官への暴行で除隊になったあと、繁華街で酔ったあげく喧嘩で相手を殺害した、となっていた。

 それだけで判断するのなら、頭に血が昇りやすく、暴力に見境がない。傷害致死でないことが、さらにその傾向を決定づけている。かなり残虐な殺し方をしたにちがいない。

 人の命を命とも思わない悪鬼。

 それが、伊能渉と会うまえに抱いた感想だ。

「いま君が考えたことは、きっと本人を前にすれば、くつがえっているだろう」

「真実は、資料のとおりではないということですか?」

「会えばわかる」

 そこで北島は、腕時計に眼をやった。意外にも、高級品というわけではなさそうだった。

「まもなくだ。いまから向かえば、ちょうどいいだろう」

「?」

「今日が出所の日だ」

「仮釈ですか?」

「いいや、満了だ」

「受刑態度も最悪のようですね」

 ますます、北島の言葉が信じられなくなっていた。

「伊能渉本人は、このことを知っているのですか?」

 これから出所ということは、本人から了承をとっているわけがない。もし事前の面会などで話をもちかけられるような人物ならば、懲役刑の満了をむかえるまえに仮釈放が決まっていただろう。

「その交渉も、君の任務のうちだよ」

 さらに気が重くなった。

 伊能という男が仮釈放であるのなら、つけいることはたやすいだろう。仮釈放とは、厳密にいえばまだ刑が残っている状態だ。保護観察をうけなければならないし、完全なる自由とはちがう。

 だが、刑が満了しているとなると、完全なる自由を得ていることになる。もちろん法律を犯せば捕まってしまうが、普通に生きていくぶんには自由が保証されている。どこに行こうが報告の義務はないし、警察だろうが法務省の人間だろうが、従う必要はない。

「協力してくれなかったら?」

「君の重荷が減らないだけだ」

 北島は、どこかおもしろがっているように答えた。


     * * *


 これが、わたしが一連の事件に遭遇するきっかけだった……。

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