第2話
現実と夢が覚めない雲の狭間。動き出さなければならない。頭では分かっている。だが、体がだるい。だるいという言葉が仮病扱いのようになる。概念が変わらない。それは彼女も分かっていた。動けない事はない。気がのらない。ただそれだけ。
身支度を終えたアテナは鞄を持って家を出た。
いつものように家族と挨拶をしたはず。前の日に教材や文具を入れたはず。はずの事を思い込んでいて中身を開いて見たときに何も無かったらと考える。引き返す選択肢は無い。
もう歩いているだけで世界や人生が終わっていくように道ばたが灰色に変わっていく。塵が積もる。地面が裂け溶岩が暴発すればアテナもただではすまない。今にでも終わって欲しいとばかりにそれでも足は前へ進んでいた。
小学生が元気に横を突っ走る。元気が良いことが羨ましい。何も傷の無い彼らが憧れだった。
一つ重い息を吐く。今日も空は青い。温かい残暑の風が渡る。道ばたにある石ころを見るだけで胃がムカムカする。自分が未来へ進んでいく事をちょっとした障害に対して八つ当たりをされている気分になる。
周りを歩く人達が何も知らない。何も苦労していない。そう見えているだけ。だが、それだけで自分が世界から遅れを取っているよう。自分はお荷物。なら。なぜ。学校へ行こうと思うの。
呼吸するだけでも重い。ネガティブな感情を持ち合わせたままで進んでいた。
外見からは見えない心の傷と持ち合わせてしまった十字架。無の感情と痛々しい心臓。
いつもの校門を潜り立ち止まる。続々と中学生が入ってくる。いつもと変わらない和やかな景色が広がる。ポツンとした点。紛れもない黒いオーラを放つ金髪の少女。周りは至って変わらない。変わらないはずなのに、アテナは入学前からあった闇の深度が深まってしまった。
「はぁっ……」またため息。こんなばかりなりなくなかった。したくなかった。
賑やかな校舎。クラスメイトが何人かいる。会話をしている者もいれば、淡々と勉強する生徒。いつもと変わらない朝が広がっている。
俯いた姿勢のまま教室へ入る。
「アテナさん。おはよう」
「おっおはよう……」なんとか怪しまれずに挨拶は出来た。椅子を引く。鞄を机の上に置いて教材を机の引き出しに入れる。
ここまで死なずに登校した事だけでもこんなボロボロな状態で来た事への感謝があるべきか。しかし、生きた心地の無い日々を過ごす中でこれが現実なのかも分からない。
ここ数日に湧き上がる謎の怒りと悲しみ。喜怒哀楽の端から端へ行く落差を体感すると闇の小学校時代をじわじわと思い出させる。
バタバタと足を鳴らして教室へ入ってきた。
「はぁあ!」
「おはよう。ミツキさん」
「おはようっ!」
「どうしたの?朝から」
「いや。なんでもない!」
「そっそう……」
ミツキも同じ精神状態でいるのか。自分の事を口にするのにもどこか心配や不安がある。噂をされる事は無いと思いたい。だが、過去に縛られている脳は陰で自分の態度や打ち明けた話への噂と自分にとって悪い作り話を広めた人間同士の悲観的な広がりが思い起こさせられる。
きっと聞かれても何も話せない。そんな気がした。
「アテナちゃん。おはよう」
「あっ、おはよう」
サーカが登校してきた。いつものように優しい雰囲気を出している。
「アテナちゃん。あれからちゃんと眠れた?」
「うっうん。大丈夫だよ」
「そっか。私はちょっと寝不足かな。あまり寝たく無いみたい」
「そっそうなんだ」
「んん?」
「何?どうしたの?」
「いや……。なんでもない」
何か言いたげな態度にも見えた。なぜ、何も言わないのか不思議に思う。普段なら、何事にも口に出してくれる彼女なはずだから。
「はぁ~い!皆さん、席に着いてくださ~い!」
サーシャが教室へ来た。たまにある声を出して生徒達を席に着く事を促す行動。いつものように生徒達は席に戻っていく。
数日の休校から明けた学校の連絡は特に無い。と言いたいところだが、肝心の副校長がいないことには何も話が進むことは無い。直接的な関わりを持った生徒は数知れず。委員会の役員を務める生徒や部活の表彰で不在だった校長の代行として立っていた。
事前に教育委員会を通して訃報は学校の連絡網で伝えられていた。
特に大きなトラブルなどは無かった模様。しかし、連絡をしたのと同時に学校によって設置されているカウンセリングや相談の窓口は紹介されていた。
目の前でメルタの死を目撃したアテナ達には必然的なものだった。
「あ~。アテナさん達は後で一階に来てください」
「一階・・・・・・」
「アテナちゃん。行きましょう」
「うっうん……」
サーカに呼ばれてアテナは一階の職員室廊下前に来た。
「うわっ!」
「あっ、すみません」
十数人で職員室前に集まっていると何か物々しい事案の為に来たのかと思われてしまう。それこそ、アテナやミツキ。エレンなど学校が関わる秘密裏に行われているトレーニングに参加している者ばかりだと顔を見るだけで一瞬にして悟られてしまう。
ずっと気まずい。学校内では何事も無く過ごせているにしても、一部の教員からは色眼鏡的に見られているに違いない。
アテナ達は疲弊と視線へのストレスと闘っている状態だった。
扉の奥に人影が映る。ドアノブを手にして横に引く。
「皆さん来ましたね」人影の正体はサーシャだった。
「来てください」言われるがまま。アテナ達は教員室の隣にある空き教室へ入っていく。
「好きな席に座ってください。時間も無いので」
生徒達は速やかに席へ座る。
「ひとまず、先日の件ではお疲れ様でした。事態が事態なので、皆さんが無事に学校へ来てくれるのか心配でした。こんな事にまで踏み込ませる事は当然考えていませんでした」
「でも、それは……」
「そう。考えてはいなくても。予想される最悪のシナリオ上経過の一部でもあった。それに代わりはありません。ここでメルタ先生の代弁をするつもりはありません。そんな事をすれば先生に泥を塗る事になります」
「……」部屋中に沈黙が広がる。
「後で、メールの方に皆さんへ登録してもらいたいものがあります。か・な・ら・ず!今すぐに申し込んでおいてください」
「そんな強調してまで、何をするんですか?」
「最初の横須賀での戦いが終わってからも考えていましたが、今必須だという打診を受けたので。今日から一番開いている日付や時間からカウンセリングを受けてください」
「なんで、そんな事を――」
「ミツキさん。今日はどうしたんですか?」
「えっ!?」
「今日。朝の会からずっと貧乏ゆすりがうるさかったです。指先も机にカタカタと打ち付けて……」
「そっ、それは……」
心臓にチクッと刺さったような衝撃が走る。ずっと言われたく無かったと思っていた事。ここ数日の間に現れた気持ちと痛みという自分を保護する膜。
「今日は授業を欠席してもいいので、あなたはこの後すぐに行ってください」
「はっ……はい……」
強烈な上位の圧力だけが彼女に承認のサインを出した訳では無い。これはただに以前のような自分らしい自分になる事。自分として戻りたいと思うから、口にしたイエスの声だった。
そう。アテナも戻るチャンスがすぐ目の前にあったら良かったのに。
今はもうあの頃には戻れない。本当に戻りたい。あの元気だった。何も自由だと思っていた頃みたいに。
「皆さんもお願いします」
サーシャは教室を颯爽と出た。
「はぁあ~」ミツキはため息をつく。
「ミツキ。この後は数学だから、もうカウンセラー室へ行きなさい。先生には言っといてあげるから」
「ありがとう、エレン。行ってくるね」
椅子から立ち上がったミツキ。学校へ来た時には見せなかった暗い背中が廊下の陰に隠れていく。
エレン達も二年い組へ帰って行く。
彼らとの距離を感じた。今日、しゃべったっけ? 何も覚えていない。覚えているのは、身が舞う海上の地獄。それが脳の大半を埋めていた。
二年い組担任のサーシャが送ったメールの内容は対面でのざっくりとした話とはかけ離れた理論的な内容だった。
横須賀作戦の戦いを経験した生徒達。カウンセリングの打診をした張本人は教育委員会の偉い人でも、学校の教員・職員・関係者でも無かった。
アテナ達をサポートして来た研究会の医師三人達からのものだった。
生徒と関わる仕事の上、メンタルケアに対して無知という訳ではない。しかし、公認心理師などのメンタルケアに携わる関係者へ相談をするべきかと言われればグレーゾーンな気がしていた。
その曖昧な判断を中学生だからと軽んじてはいなかった。
結果的に必ず一度面会・相談するようにという結論に至った。
午後三時。蝉の鳴き声など興味がない。
授業は見た目では受けていた雰囲気を出す。頭は何も無い。ただ白くぼやけた世界が広がる。
誰かいるのに、誰もいないように感じる空間。
感覚が盲目に感じる。サーシャが帰りの会を終わらせて教室を後にする。
清掃も終わり、生徒は誰もいない。
スマホを開いて、今朝見たカウンセリングの受付ページを見た。
今朝よりも埋まった。優先すべきは運動系部活に所属する生徒。スケジュールの申請は生徒本人が出す事になっている。埋まれば、その日の時間に指定された空欄が埋まる。
一週間と四日の放課後は既に埋まっている。そこまでしてまで不調を抱える生徒が多いという事だ。
横須賀へ行ったのは二年い組のアテナ達数人とと中学の他クラス、高校生の数人。そこまでいない。だが、用意している時間が良い意味では充実している。悪く言えば長い。
長く時間を使って相談などした事がない。半信半疑だ。にしても、早々にここまで埋まれば後は文化系の時間に余裕がある生徒だけになるだろう。
アテナは来週の金曜日に予約を入れた。通院は再来週。時間が被らない方がいい。何をしても両方とも相談時間と待ち時間が掛かるだろうから。アテナは見越していた。
自分は大丈夫だから。
鞄を背負い学校を後にした。
足取りも体も重くだるい事は変わらない。すぐ家に帰ればいい。ただそれだけなのに、柄にも合わず寄り道というより家に帰りたくないみたい。
家を大きく通り過ぎて川付近の場所へ来た。青々とした草花がムシッとした空気を視覚的に変えようとしているように見える。
アパートに囲まれたこの場所には知っている人など誰もいない。怪しく思われない。
ポツポツと雨のような涙が流れてきた。
「何も出来なかった・・・・・・。何も・・・・・・」
声に出して泣いたのはいつ以来だろう。そうだ。きっと、小学校の日々だ。暗い。真っ暗い。逃げる事しかできなかった。あの時だ。
あの時と同じだ。ただ見ているだけしか出来なかった。十字架が二つ目になった。
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