第2話

靴脱ぎ場にあるボロボロの革靴に足をつっかけ、俺はドアノブに手をかけてドアを開けた。


「晩飯までご馳走になって、いつも悪いな。」


時間は夜、八時を過ぎていた。


ドアの外は暗いが、人通りはまだある時間帯だ。


「悪くないって。それより葉瀬さん、また来てよ?」


そんなにしょっちゅう来ていいのかよ、と思いながらも俺は、おう、と頷いた。


またお店でね、と笑顔で俺に手を振るのは、蔵田麻里(くらたまり)。


アパートで一人暮らしをする二十二歳のコンビニ店員だ。


三ヶ月前にふとした事で知り合い、喋るようになった。


以前は、麻里が働くコンビニの近くにある公園で、夜中まで談笑をしていた。


だが今は、俺が毎週水曜日に麻里の家に遊びに行くほど仲がいい。


一人暮らしの女の子に度々世話になる俺は、葉瀬良彦(はせよしひこ)。


大手菓子メーカーに勤める重役だった。


かつては城みたいな家で、妻と仲睦まじく暮らしていた。


だが、泣きついてきた友人の保証人になった事で暮らしは一変。


家も、仕事も、地位も、金も、全てを失った。


そして、妻にも去られた……


何もなくなった俺は、フラフラとある公園にやって来た。


それが、麻里の勤めるコンビニ付近の公園だ。


そこで、ホームレスとして暮らし始めたのは四ヶ月くらい前、冬が到来し始めた十一月だった。


それから今現在に至る。


「はぁ……」


トボトボと、公園へ続く道を歩く。


昼過ぎから夜まで、時間はあっという間に過ぎる。


麻里と過ごす時間は、正直楽しい。


だから、彼女の自宅を後にすると、途端に寂しさに襲われる。


ずっといたいが、図々しく甘えるワケにはいかない。


娘みたいな年の女の子に、親みたいな年の自分が…


「ただいま。」


公園に入りながら、誰に言うでもなく言った。


そして、そのままベンチへ向かう。


「はぁ…」


「また彼女の所に遊びに行ってたの?」


ため息を吐きながらベンチに腰を下ろすと同時に、暗闇から声が聞こえた。


「やぁ、タクさん。こんばんわ。」


どこからともなく現れた声の主は、俺の隣にドカッと腰を下ろして長い脚を組んだ。


「女の子の家に行ってる割には、葉瀬さん寂しそうじゃない。」


「お店に行けば、ほとんど毎日会えるのにね… 何で俺は、寂しいのかな?」


自分でも分からないこの思いを、俺はホームレス仲間のタクさんに投げかけた。


俺が分からないのに、タクさんが分かるワケがない。


答えに期待なんてしていなかった。


「ん~、そうだなぁ。何かしらの気持ちがあるからじゃないの?」


「えっ?」


驚く返事だった。


そんなの、考えた事もない。


思うのは、いつも楽しいって事だけで


「あの子、麻里ちゃんってさぁ、」


タクさんが一呼吸置いた。


何を言い出すのか、俺はその後の言葉を待った。


「葉瀬さんを想ってると思うんだよね。で、葉瀬さんも麻里ちゃんを。」


「俺が、麻里を?」


そっ、と言いながらタクさんは、クスリとイタズラな笑みを浮かべた。


「で、実際どうなの? 麻里ちゃんの事は。」


「どうって… 前に比べると笑うようになったなぁ、くらいしか」


そうじゃなくてさ、とタクさんはため息まじりに言った。


俺と同じく公園周辺で生活する彼、タクさんは自分よりずっと若い。


正確な名字や名前は分からない。


呼んでいる『タクさん』が本名か偽名かも、俺は全く知らない。


年齢はおそらく三十代、身長は一八〇センチを超えていて、モデルのような体型だ。


無精髭を生やしていて長髪だが、身なりを綺麗に整えれば、たちまち女性にモテるだろう。


そんな彼が、なぜホームレスに身を落としたのか、それも分からない。


人には色々と事情があるし、言いたくない事があるものだ。


だから、タクさんについて詳しく聞いた事は一度もない。


そんな謎に満ちた彼、タクさんと出会ったのは、俺がホームレス生活を始めて十日ほど経った時だ。


*****


あれは、俺がホームレス生活に身を落としたばかりの冬。


寒さを凌(しの)げる場所を探して、町を彷徨っていた時だった。


「ねぇ、」


「……はい?」


振り返ると、若い男がいた。


グレーの長袖シャツ、黒いベスト、ジーンズという出で立ちは、どこにでもいる若者に見えた。


「何だい?」


「あんた、ホームレスだよね?」


正にホームレスになりたてだったが、面と向かって言われるとムッとする。


だが、その気持ちを抑えて、一言だけ返事をした。


「俺は今日からホームレスなんだけどさ、初日だからどうしていいか分かんないんだ。教えてくれないかな?」


えっ、と思わず聞き返した。


今日からホームレス?


それ、俺と同じって事?


こんなモデルのような風貌の男が?


「いやいや、君。冗談はやめなさい。おじさんをからかうのはいけないよ。」


男の言葉を笑って一蹴し、俺は立ち去ろうとした。


本当だよ、と言う強い口調で、再度引き止められ立ち止まった。


「もう何も無くなって、やっていく気力がないんだ… それでこうなった。」


若干、俯き加減で言う彼の瞳は、悲しい色をしていた。


俺をからかっている顔じゃない、大きな理由があると察した。


「あんたの事を度々見てたから、ホームレスの主(ぬし)なんだと思ってさ。」


「………そうかい。」


主かどうかは分からないが、この町でホームレスをしているのは恐らく俺くらいだろう。


だから、やっぱり主なのだろうか?


「分かった、いいよ。えっと、何て呼んだらいいかな?」


「……タクさんって呼んで。」


少し考えて、若い男は言った。


いいよ、と答えておきながら、ホームレス生活の何を教えたらいいのか分からない。


何しろ、俺もホームレスになりたてだ。


正直な話、右も左も分からないのが現状だ。


『ホームレスのいろは』などあったら、それは何だろう?


その辺は分からないが、自分なりに分かる事を教えよう。


「それじゃあタクさん、ルールがあるかは分からないけど、俺が分かる範囲でこの町の事を教えるよ。」


「うん、よろしく。」


そう言ってタクさんは、口元に優しい笑みを浮かべた。


それは、どこかホッとする笑顔だった。


だけど、悲しい色は残ったままだ。



あれから俺は、タクさんに色々教えた。


俺たちのような存在を理解し、食料や飲料を与えてくれる店。


住み心地がいい、寝床となる公園。


温まれて涼める施設。


雨風の凌げる場所。


炊き出しが行われる日にち。


俺の熟知した事の全てを…


「この町は、随分優しいんだね。」


「ああ、特にたくみマートの店長さんと、その娘さんはね。」


『たくみマート』は、俺が親切にしてもらっている、家族経営のコンビニだ。


そこの店長である戌亥(いぬい)さんは、俺の状況を即座に察してくれた理解のある方だ。


その娘さんの陽子さんも、父親である戌亥さんから、俺の事を聞いたのだろう。


優しい言葉と、暖かい食事を出してくれる。


この親子には、感謝してもしきれない。


「店長の娘さんって、あの笑顔がない冷たい感じの子?」


「いや、あの子は従業員だよ。もう一人いるだろう? いつも明るくて笑顔の女の子が。」


陽子さんの顔が浮かんだらしい。


ああ、とタクさんが頷いた。


「あの店は、店長親子とあの女の子しかいないの?」


「俺は三人しか見た事がないから、そうなんだろうね。」


へぇ、とタクさんがもう一度頷く。


「それがどうかしたのかい?」


何が言いたいのか気になり、タクさんに問いかける。


「店長の娘さんはいいんだけど、あの女の子は暗いね。」


「ああ、あの子ねぇ。何か抱えているんじゃないかな? 俺にはそう見えるよ。」


何かって、とタクさんが投げかける。


具体的に聞かれても分からない。


ただ、立ち直れないような何かはあったように感じる。


そう感じたのは、レジに立っている時の姿や顔立ち、眼差しを見た時だった。


全てが悲しい色をしていた。 


冬の寒さのような、雪の冷たさのような…


「話した事がないから分からないけど、事情があるんだよ。多分、かわいそうなんだろうね。」


「かわいそう、ねぇ。まっ、確かに人には色々あるよね。」


冬の空を見上げ、タクさんが頷いた。


俺もつられるように空を見上げた。


今日は寒いが、星が綺麗だ。


こんな星を見たら、あの女の子、『くらたさん』も元気になるだろうか?

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