ハニートラップを仕掛ける相手にだって、最低限の予備知識は必要なわけで。
深夜。控えめなノックがあった。
「……誰だ?」
「クローン様……少しだけ、お時間、よろしいですか?」
断ることもできたが、扉の向こうの女性に接触できるならしておきたい、と考えていた。
ここで断れば、貴重な「彼女と繋がる機会」を失ってしまうと考え……この場はリスクが高くとも会うべきだ、と判断した。
扉を開ける。彼女はメイクも落とさず、裸同然の格好で男の寝室に入ってきた。どういうつもりだ……? と深く考えてしまうが、なんてことはない、「そういうこと」なのだ。
「ミネ様……ご用件は?」
「ベッドに座っても?」
椅子に座らせるには、彼女のお尻は肌が見え過ぎている。ひんやりとしている椅子に座らせるのは申し訳ない。「……どうぞ」と、男は彼女をベッドに座らせた。
すると、彼女が隣を、ぽんぽん、と叩いた。……お前も座れ、ということだろう。
「本当に、こんな真夜中にどういうつもりなんですか……、深夜に男の寝室に入ってきて……それは『そういうこと』だと勘違いされてもおかしくないんですよ?」
「勘違いさせるつもりがないもの。そのまま私の意図を感じ取ってもらえればいいの……穿った見方をしないでください。夜中に、きわどい格好で、男性の寝室にやってきた女性は……それは言葉にしなくとも『そういうことをしてほしい』と言っているようなものでしょう?」
女の手が動いた。男の服の下に潜り込む。肌と肌が触れ合った……、まともな思考ができなくなっていく……。このまま女の罠にはまり、男は抱え込んでいた全てを吐き出すことになる。
(……男なんて簡単よ。女の武器を存分に使い、快楽に染めてしまえば、どんなに口が堅い男もその縛りは緩んでくる。漏れるのは液体だけじゃない。他国の機密情報だって、快楽と共に溢れてくるのだからね――)
女が、裸同然だった最後の砦のネグリジェを脱いだ。一糸まとわぬ姿である。彼女の「男を誘惑するため」だけに作られた理想の体型……彼女が迫って堕ちなかった男はこれまでにいない。
(ふふふ、見てるわね……目が男の眼になっていく……。これが勝率百パーセントのハニートラップよ……っ! あなたがどんな風に私を味わってくれるのか、見せてもらえるかしら?)
壊される覚悟もしてきた。
相手がどんな性癖だろうと受け入れる……、その先に膨大な機密情報が眠っているのなら……スパイとしてこれ以上の成果はなかった。
「さあ、きて…………私と一緒に溺れましょう?」
(……寒くないのかな。こんなことになるなら暖房でもつけておいてあげれば良かったけど)
男はスパイだった。
ただし、組織の方針としてかなり尖ったステータスの伸び方をしている。
スパイとして必須項目である『潜入/周囲に溶け込むこと』に極振りしているため、戦闘には不向きだし機械にも疎い。
あらゆる場面に対応できる万能なスパイを育てることが重要視されている昨今では、珍しく専門分野に秀でたスパイだった。
そのため、当然ながらハニートラップに引っ掛かるような予備知識もない。
分かりやすく言えば、彼は童貞である。
同時に、学生が知っているべき性知識もなく(友人との会話の中でそれっぽいシチュエーションだけは知っているようだが……具体的なことはまったく知らない)……、そのため、女のハニートラップを見ても「え、なにしてんのこいつ?」と内心で戸惑っているだけだった。
幸い、女の裸は育ての親、同居している姉や妹で見慣れているのでなんとも思わない。
気になると言えば「筋肉が足りない」、と余計なお世話を考えているくらいだった。
男の寝室に、裸の女が自分から訪ねてきたことの意味を、彼は知らないのだ。
「……あの、クローン様?」
「風邪を引く。上を着なさい……というかこの姿でここまできたのかな? ……今から自室へ戻るのは……人目とかもありますよね?」
「え、あの……」
「……仕方ないですね、今日はこの部屋に泊まっていっていいですから。ホテルで助かりましたよ。使っていない日用品があるので……、歯ブラシなど遠慮なく使ってください。タオルもありますし……顔のメイクを落とすなら、私が寝てからにしてください。その方がいいでしょう? 朝は……、可能であれば私よりも先に起きてメイクをしていただけるとありがたいです」
「いや、あの……意味、分かってますよね……?」
男と女が同じベッドで一夜を明かす……、結局、ハニートラップを回避したように見えて、
「? お泊りは普通ですよね?」
「(こいつ中学生か!?)」
「明日、ミネ様の部屋まで送り届けますので……今日はもう寝ましょう……ふぁあ。私も眠いですし……」
「っ、ちょっと!! 私がこうして脱いでいるのに、興味もなく眠気が勝るのって、どうなんですか!?」
女として見ていない、と言われているようなものだった。
……この場合、彼の方が男としてまだ成熟していないのだが。
スパイとしては(専門的に)優秀かもしれないが、普通の男としては未熟過ぎる。
「電気消しますね」
「聞けよ!!」
部屋が真っ暗になり、「――もういいです!!」と怒った女が部屋を出ようとするが、がっ、だんごとん!? と家具に足をぶつけたのか、転んだような音が響き――……彼女の押し殺した小さな悲鳴が聞こえた。
「大丈夫ですか?」と声をかけるのは、彼女を真っ赤にしてしまいそうなので、男は寝たフリをして聞かなかったことにした。
すると、もそもそ、と、男の隣が膨らんだ。
女が、退出を諦めて男の隣に戻ってきたのだ。
「怪我はないの?」
「……うるさい」
「そこまで元気なら大丈夫かな…………寒くない? 寒かったらもっとくっついていいから」
「……そこまですればあと一歩なのに……ッ」
「?? ……まあいいや。おやすみ、ミネ様……」
スパイとスパイ。
他国の敵同士が、ひとつ屋根の下、ひとつのベッドで眠っている。
それでも添い寝以上のことは起きず……――だけど。
これまでのスパイ生活の中では、最も熟睡した一日となったのだった。
…了
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