すべての病気が治る「泉」
山の頂上。
……すみません嘘です、頂上ではなくて頂上付近でした。それでもかなりの登山道を歩いたのだ。朝方から出発し、今は日が暮れ始めている……夏なので夕方を過ぎてもまだ明るいのだから、季節によっては既にもう真っ暗なのでは?
さらに上へいけば宿泊施設があるので帰りは明日になる……、真夜中に下山するという危険な? 行為をする必要はなかった。
足が棒になりそうだった。何度も何度も何度も何度も休憩を入れたのに……、なんて言われそうだけど、元々体力がないのだから仕方がない。
立てなくなる前に休んで、歩いてまた休んでを繰り返して――今日中にここまで辿り着けたのだから上出来だった。
二度としたくはない。
たとえ仕事でも。お金が出るとしてもこの登山道は地獄だった……。
人の手で管理はされているし、安全な道も整えられているけど、単純に道が険しく長いのだ。慣れた人でもひーひー言っているのに、素人の私が悠々と歩けるわけがない。
まあ、でもそんな疲れも怪我も……そして病気でさえも、浸かってしまえば綺麗さっぱりと消えてなくなる泉がすぐそこにある。
泉というか……あれは温泉だよね? 天然温泉。
『ホットな泉でほっと一息』なんてキャッチコピーをつけられているくらいだ。泉と名付けているのはそっちの方が気を引くフックとしては強いからだろうか。
でも泉だと「温泉」だってイメージできないかもしれないけど……。
いや、温泉も「泉」かな?
「ふう……足だけでもひとまず浸かろうかな……全身だと着替えが面倒だし……」
疲れを癒してくれるけど、入るまでがしんどい……ここまでで疲れ過ぎている。ひとまずもう少し上にある宿泊施設でまったりしてから、あらためてここまで下りてくればいいだろう……。
引き返すのは損をしている気分だけど、目的がこれなのだから損ではないはずだ。
大きさは、よく見る旅館の露天風呂くらいだ。あ、でも施設によるのかな……。五人が集まって入れるくらいのスペースはある。
当然だけど体を洗い流すシャワーはない。そういうのは施設まで戻る必要がある……、幸い夏なので、湯上りに体が冷えるということもない。
それでも夜は肌寒いけど、震えるほどではなさそうだ。
「おっ、あった! あれが噂の『なんでも治る泉』か!」
すると、ここまで登ってきた登山客が近くで服を脱ぎ始めた。慌てて両手で顔を隠す。腰にタオルを巻いて、一応、見られないようにしているけど……、その男性は豪快な着替え方で、一部、はだけたタオルでちょっと見えた……見えたっ!!
その男性はさらに豪快に温泉に飛び込んだ。ばしゃあっっ!? と、勢いで貴重な治癒のお湯が外に飛び出してしまう。
あぁ……減るわけではないけど、もったいないと感じてしまう……。
「ちょっとっ、マナー!!」
付き添いの女性が怒鳴りつける。彼女は足を引きずっており、途中で怪我をしたのだろうか……。それとも登山以前から怪我をしていて、治すためにここまで登ってきた……?
「あ、こんにちわ」
「え、あ、はい、こんにちわ……」
「騒がしくてすみません……」
「いえ……あの、お姉さん、その怪我……」
「これ? 麓で転んじゃって……、この泉がありましたから、ちょうどいいと言えばいいですけど……」
ちょうどいい……いいかな? 怪我がない方がいいと思うけど。でも、せっかく『なんでも治る泉』にやってきて、その効果が実感できないのはもったいないかな?
このお湯をボトルに入れて持ち帰って、他の場所で利用できれば良かったけど……当然、この場でしか効果を発揮しないお湯だ。
私が考えるまでもなく、もっと偉くて賢い人が試しているだろう。
「お先にどうぞ。私は一旦、上の宿泊施設にいくので」
「あ、そうなんですか……ではお先に入らせてもらいますね」
お姉さんが靴と靴下を脱ぎ、足だけを浸からせるようだ。
「ふぅ……」
足を浸けたお姉さんの気持ち良さそうな声である。それを聞くと、私も今ここで足だけでも浸からせておくべきかな、と迷い始める。
でも、私の場合は足を浸けたらそのまま全身まで浸かりたくなるし……悩みどころだった。
あ、そう言えば男性の方は……なんの反応もないけど、どこも怪我とかなさそうだったし、変化がないのかな? と思って見てみれば。
無、だった。
彼の視線は見える景色に釘付け……だとしても、目に色がない。見ているけど見ていないような感じだった……。理不尽な理由で説教されて「もうどうでもいいや」と諦めた学生時代の私みたいな虚無が、そこにあった――。
「ねえ、浸かってみてどうなの?」
「はい、気持ちいいです」
「なにそれ。なんで敬語? あんたがそんな話し方ができるとは思わなかったわ。豪快に、『!』をつけて喋ることしかできないじゃない」
それは聞いているお姉さん次第なのでは? なんて口は挟まない。これ以上、プライベートな会話を聞くべきではないけれど、全身を浸からせた彼の反応が気になって、ついつい、この場に留まってしまう。
「あんたでも全身浸かるとそうなっちゃうくらい気持ちいいんだ? いいなあ……あたしも……――って、え!? 足、痛くない……っ、ほんとに痛みが引いて――治ってる!!」
お姉さんはさっきまで引きずっていた足のまま、ぴょんぴょんと飛び跳ねる。足の疲れも一緒に取れたようで、ここまでの道のりをもう一度繰り返しても平気そうだ。
「すごいっ、すごいわよ!? ねえっ、あんたのバカな頭も一緒に治るんじゃない!?」
酷い言われようだけど……男性の方は見向きもしなかった。
まるで彼の脳がとろけてしまったように、生きているけど自分の意思がないみたいに思えて…………ばしゃ、と彼が立ち上がった。
「そろそろ出ますか。
まだ夕方ですけど、日が暮れたら外は危険です……屋内へいきましょう――姉さん」
「え? ……うん、それは、いいけど……どうしちゃったの? ほんとにバカが治って――」
振り向いた男性の目は、とても白かった。
それはまるで、マネキンのようでもあって――
「ここまでお疲れ様です、姉さん」
その後、その姉弟は私に挨拶をして宿泊施設へと登っていった。
……私は気になったのでここで待機することに。
やがて後続の登山客がやってきた。彼らは中年の男性数人で――「もっと早く着くはずだったろっ、お前がモタモタしてるから……ッッ」
「お互い様でしょ。そっちだって途中で景色の写真ばかり撮って時間を使ったじゃないか。あんたは若い女子か。誰に見せるわけでもないのに……いい歳こいて」
「年齢は関係ないだろうがッ!」……と、言い合いの喧嘩をしていた。
そんな中年おじさんズは私に気づいても一切配慮なく、というか見せつけるように脱いで温泉に浸かった。
肩まで沈んで――やがて静かになる。会話もない。大自然の音が鮮明に聞こえ、しばらくするとさっきまでの言い合いが嘘だったように……「出ますか」「ですね」「そうしましょうか」と、仲の良さも一緒にリセットされてしまったかのようだった。
外に出たおじさんズは、私を見て、
「これは失礼しました。汚いものを見せてしまいました」
「いえ……」
「すぐに去りますので……」
言葉はそうだが遠慮も焦りもそこにはなかった。決まった定型文を当てはまった条件下で言っているように……。それはまるで、理由がなくとも雰囲気で、感情が乗っていなくとも謝ってしまえるような、個人の意思を失った機械のような対応だった――……まさか。
全てを治す温泉って……もしかして。
「人の個性を、『障がい』とカウントしてる……?」
障がい者と健常者の違いとは? と言えば、「普通に」生きることが困難である『差』があることだろう。体の不自由、脳や認知の不自由――それは私たちにとって分かりやすく、目に見えるようにしたものだ。
病名があるから障がい者である――でも、病名がないだけで障がいを持っている人はたくさんいるのではないか……というか、健常者はいるの? なんて話になる。
今の世の中で問題になっていることの原因は、大体が健常者『と思われている人』たちによって引き起こされている。
問題を起こせる人は不自由ではできないのだから、当然と言えばそうなのだけど……、不自由でないからこそ起こせる問題だ。
そして問題を起こすということは、やっぱり欠落している部分があって……それはもう脳や認知の不自由なのだ。
健常者という皮を被った「まだ名前がない病気」を持った障がい者……それが今の健常者と分類される人たちなのであれば――この泉は、そういう障がい者を健常者へ治癒してくれる……。
『個性』を治し、整える。
まるで機械のように意思がなく、その場に合った最適解だけを出し続ける平和の象徴。争いがなく、悲しみがなければ喜びもない。対立がなければ競争もなく、だから文化は発達しないし発明も生まれない。
このまま停滞し、進化も後退もないまま……でも、現状維持もできないかもしれない。
……人間の終わりが見えた。
クレームがなければ反省しないように。
高も低も含めて評価がなければ振り返ってみることもないように。
ただ漠然と、生きているから生きているだけの存在へと、下げてしまう――
全てを治して、余剰を切り取り欠落を埋め、人の完成品を作り上げる。
……だからこその未完成品。
この泉は、全ての怪我や病気を治すと同時に、人の個性を奪い取る。
どんなクセも、綺麗さっぱりと、取り除いてしまう……。
「……うわぁ……気づいちゃったなあ……」
あくまでも推測だけど。
もっとデータが集まれば、答えが出るだろう――すると。
後続から、また登山客がやってきた。
あの若い集団も、この泉に入るつもりだろう……私は止めるべき?
それとも、見捨てるべき?
……ちょっとの正義感が、わたしの背中を押してくれた。
結果、止めることはできなかった。
わたしの言葉なんて信じずに、勝手に入った人たちはもちろん、マネキンのようになった。
ざまあみろ、なんて思ったわたしは、たぶん一番、この泉に入るべきなのだろう。
「気づいちゃったんだから、入るわけないけどね」
……足を滑らせなければ。
誰かに突き落とされなければ。
……カラクリさえ知ってしまえば、この泉に突き落とすことは、最も簡単にできるだろう、証拠を残さない殺人である。
…了
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