第12話 祭囃子
一週間ほどで吾朗は原稿を書き上げた。その間、ずっと多賀出版に泊まりこんだ。田村が「冷蔵庫にあるものは食べていいぞ」と言ってくれたので、助かった。
写真を現像し、原稿と一緒に田村に渡した。修正を何度か繰り返し、田村のOKが出たのは、もう六月の末のことだった。そこまでほとんど缶詰状態にさせられた。勿論、京子にも花江にも連絡取れていない。
だから、田村がOKした時には、「後はよろしく」と言って、そのまま多賀出版を後にした。
田村は一言「任しとき」と言っただけだった。
吾朗は、その後すぐに巴集団の事務所に行った。まだ、京子と花江がいてほしいと思っていたからだ。
割とスムーズに巴集団の倉庫に来た。それなのに、もう間に合わなかったようだった。倉庫のシャッターは閉じられ、鍵がかかっている。角田さん、高辻さんと呼びかけても、何の返事もなかった。
吾朗は気が抜けた。
しばらく呆然と立っていた。誰かが吾朗に気づいて声をかけてくれたらいいのに、という淡い期待のようなものが胸の内に漂っている。
常巖大学は歩いて行けそうだったが、今は道成に会う気はしなかった。
歩くともなしに歩き、ニコライ堂のドームが見えて、その先に聖橋が見えてきた。橋を渡れば神田明神の方に向かう。橋の上で、幼い頃に聞いた祭囃子を聞いた。遠くで鳴っているらしく、かすかに耳に届く。
また、何かに引っ張られるような感覚に襲われた。吾朗は、祭囃子に心惹かれて、先を急いだ。白い霧のようなものも、広がってきた。
橋を渡りきると霧も晴れ、吾朗は坂道を登っていく。大学と湯島聖堂の間を抜け、神田明神の参道が見えてきた。見慣れた景色に、吾朗は現在に戻ってきたことを感じた。よかったと思う反面、もう京子さんや花江さんと会えないのかと思うと、残念な気もした。
いや、花江さんはまだ生きているかもしれない。もっとも、もうおばあちゃんだと思う。会いたいかと言われれば、ちょっと悩むところだ。
京子さんは、おそらくこの時代には生きていない。生きていれば、百歳越えだ。
吾朗は、自分が失業者だったことまで思い出されて、だんだん嫌になってきた。行くところもないので、足の向くまま神田明神の参道を登っていた。
境内に入ると、どこか遠くからサイレンの音が聞こえたような気がした。空が一瞬赤く染まったように見えた。耳をすまし周囲を見回しても、救急車両も慌てて走り回る人もいない。というより、人影は全くない。こんなに誰もいない時間帯があるのかと、吾朗は驚いた。
見上げた空は青空。さて、お参りでもするかと本殿に向かって歩き始めた時、不意に誰かがすぐそばを通り抜けていった。肩か腕が一瞬当たったように感じられた。
誰れ?
見ると、目の前数メートルのところに一人の女性が立っている。思わず立ち止まったとでもいうかのように、呆然としている。頭に頭巾をかぶっているのが印象的だ。戦時中の写真やドラマでよく見るやつだ。分厚い半纏のような着物を羽織っている。おかしいのは、その下だ。赤いワンピースにハイヒール・・・変な取り合わせだ。吾朗より少し年上のように見えた。
じっと見つめる吾朗に向かって、その女性が振り返った。
「三沢春子・・・いや、京子さん」
思わず、吾朗の口からその名前が出た。
目の前の女性は年をとって、服も汚れ、髪も乱れている。何かから逃げてきたものと思われた。その見知らぬ女性の顔の、わずかばかりの面影が、吾朗に直感させた。
その女性は怯えていたが、吾朗を見て、安心したかのような表情になり、少しずつ近づいてきた。女性は、何か懐かしむように吾朗の顔に手を近づけ、一言呟いた。
「吾朗さん」
そして、まじまじと吾朗の顔を見つめ、少し強い調子で付け加えた。
「変わってないのね」
「あなたも」
と吾朗は言った。
「嘘ばっかり」
春子はちょっと恥ずかしそうに笑った。
「わたしはもうすぐ、おばあちゃんよ」
春子の声には、寂しげな調子が隠れていた。
「そんなことはない」
吾朗は、強く否定した。その言葉は、春子にとってはわずかばかり慰めになった様子だった。
「時代が違うのよ。あなたも、もう気づいているんでしょ」
「春子さん、今のあなたは、わたしと会った記憶を持っているのか」
春子は嬉しそうに、頷いた。
「やっと、同じ思い出を持てたのね」
吾朗は、言葉にならない思いに身動きができなかった。春子は、その吾朗の頬に優しく手を触れてくる。その手は柔らかく、温かかった。
吾朗はその温もりを感じつつ、聞いた。
「今度はどの時代から来たんだ」
そう言われて、京子は急にハッとした表情になり、空を見上げた。
「空襲は・・・」
「今は2007年だ。空襲はないよ」
京子はまだ怯えたような顔で吾朗を見ている。吾朗は京子のことを愛おしく思った。
「空襲から逃げて来たんだ」
京子は目を潤ませ頷いた。
吾朗は京子に聞きたいことはたくさんあった。しかし、怯えている京子をまずは安心させることが大切だと思った。そこで、「行くとこあるの」と聞くと、「あるわけない」と言う。
「じゃあ、狭いけど、僕のマンションに行こう」
と言って、吾朗は京子の手をとった。京子は黙ってついて来た。吾朗のマンションは田端の近くにあるので、ちょっと歩かなければならない。途中、谷中のあたりを歩くと、京子は「あんまり変わってないのね」と言って、ちょっと嬉しそうだった。
京子はお腹は空いてないと言ったが、吾朗は途中の店で食物と飲み物をいくつか買った。吾朗がマンショに戻るのは久しぶりなので、冷蔵庫の中のものも食えるかどうか心配だったからだ。
羽多田というところに吾朗のマンションはある。中古だが、久しぶりに見るととても安心できた。小さなマンションで、ワンフロアに二部屋くらいしかない。それなのにエレベーターがついているところが売りだった。
5階建てのの4階に吾朗の部屋はある。
吾朗にとっては、ひと月以上部屋を空けていた感覚だったが、部屋の中の汚れは実際のところそうでもなかった。ただ、人がいなかった部屋にある独特の臭いや埃っぽさを感じたので、吾朗はすぐにベランダのサッシを開けた。
風が流れ込んできた。
「見晴らしいいのね」と京子が、気持ち良さそうに言う。
「この辺りは高い建物がないからね」
「掃除道具はどこ」
「うん。ありがとう」
吾朗は玄関脇の戸棚を開けた。
「これは何かしら」
電気掃除機を京子が指さす。
「使ったことはない?」と吾朗。
「知らない」
吾朗がコンセントに繋いでスイッチを入れると、機械音が響く。
「ちょっとうるさいわね。わたしはこっちでいいわ」
京子は箒と塵取りを手にして、手早く室内を掃いていく。塵取りで取りきれない埃はベランダに掃き出しだ。
「外は明日ね」
その頃には、吾朗は買ってきた食べ物を皿に盛り、グラスにもビールを注ごうとしていた。
京子はそれを見て、「キリンビール?」と聞いてきた。
「飲んだことある?」
「戦争前まではね。夫も好きだったから」
夫と言われて、吾朗は胸の内に嫉妬心が漂うのを感じて、逆にドキドキしてしまった。
「ご主人は、まだ健在ですか」
「戦争に行ってるの。東南アジアの方だから、手紙も来ないし、生きているのやら」
「東京空襲のときって言ったよね」
「そうよ」
「もうほとんど戦争は終わりの頃だ。後は、広島と長崎か」
「何かしら」
「新型爆弾・・・聞いたことありますか」
「実家で聞いたことがあるかな」
「実家は大丈夫ですか」
「分からないの。わたしは、片付けと身の回りの物を取りに家に戻って、夜が明けたら実家に戻るつもりだった。そしたら、夜中に警報が鳴って、外に出たら、あちこち燃えていた」
「着の身着のままで逃げたってわけか」
「そうね。もう終わりかと思うと、急に頭にきて派手なワンピースを着ちゃったけどね」
「それで、あんな格好だったのか」
京子は急にしおらしくなって、「そんなに変だったかしら」と言う。
吾朗は、そんな京子の様子が可愛らしく思えて笑ってしまった。
「ひどい」と、京子はむくれた。
「でも、ここに来てくれてよかったよ。空襲の中にいたら、もう死んでいたはずだ」
京子も、真顔になって頷いた。
吾朗が大きなあくびをすると、京子も釣られて欠伸をした。もっとも女性らしく口元を手で隠していた。
「眠くなったね」
「泊まっていい?」
「ノープロブレム。ベッドをどうぞ。僕はソファーで寝る」
「ありがとう」
京子は、そのままベッドルームに消えた。風呂はお互いあしたの朝だなと吾朗は思った。
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