第4話 春子のアパート

 タクシーの運転手は、明神のアパートの前まで行ってくれた。春子を降ろす手伝いまでしてくれて、

「あのアパート」

と、指差した。アパートは二階建てだ。

「何階」と吾朗が聞いても、タクシーの運転手は首を傾げた。

「じゃあ、私はここで」

と言うと、タクシーに乗り込み、車をスタートさせた。吾朗も、このまま春子を置き去りにしようかと思った。しかし、春子は吾朗の上着をしっかりと握り締めていた。

 寒くはない。上着一枚くらい、どうでもいい。背広の上着代として、春子のバイト代をちょろまかしても構わないんじゃないか。そんな思いが吾朗の頭をかすめた。

 吾朗の時代よりはまだ空がちょっぴり暗い夜空に、星が煌めいている。思い切りはいいはずなのだが、今はどうしたらいいか悩んでいる。何分立ったのだろう。吾朗は、春子の姿がないのに気づいた。

 慌てて捜す。

 春子はアパートの二階の欄干に寄りかかっていた。吾朗は外階段を二階に駆け上がった。

「大丈夫か」

 春子は吾朗の言葉が聞こえていないかのように、フラフラと歩いていく。手には小物入れのバッグをしっかりと持っている。同時に、なぜか、吾朗の背広の上着も引きずっていた。

 バッグをまさぐり、何かを探している。春子の指の間からかすかに光るものが落ちた。吾朗が慌てて受け止めると、それは鍵だった。

 春子はそのまま座り込んでいる。吾朗は、仕方なく、目の前の部屋の扉に鍵を差し込んでみた。かすかな金属音がして、鍵が空いた。

「ここか」

 吾朗はちょっと安堵した。これで帰れるというか、解放されると思ったのだ。

 扉を開けて春子を中に押し込んだ。春子は狭い板の間にひっくり返っている。吾朗はそのままにして扉を閉めようとした。何かがない。よく見ると、吾朗は上着を脱いだままだ。春子が握りしめて引きずってきていたのを思い出した。外廊下にも上着はない。

 吾朗は扉を開けて、中を覗いた。

 ひっくり返っている春子が、しっかりと吾朗の背広を抱き締めている。引っ張っても離さない。吾朗はそのまま春子を抱き上げて、奥の畳の間に入った。ベッドでもあれば助かると思ったが、そんなものはなかった。押入れを開け、布団を取り出した。

 布団に春子を横にすると、春子は背広を抱き締めたまま丸くなる。五郎が背広を引き剥がそうにも、意外なほどの力で抵抗する。起きているのかと思うと、そうではない。

 吾朗は諦めて、春子にうわ布団をかけてやった。そして、自分は窓際で外を眺めた。街灯以外明かりはほとんどなく、住宅街のように見えた。考えてみれば、周りの部屋からもほとんど物音は聞こえない。もうみんな寝静まっているのだろう。

 空を見上げれば、星が綺麗だ。吾朗は星を眺めているうちに、寝入ってしまった。


 目が覚めたら、もう朝日が差していた。今度は、吾郎がうわ布団をかけて寝ている。隣の板の間の方から何かを切る包丁の音が聞こえていた。

 吾朗が見回すと、背広はハンガーに掛けてあった。壁の梁に引っ掛けてある。吾朗は背広を取ろうと立ち上がった。その時、板の間のガラス戸が開いて、春子が顔を見せた。湿らしたタオルを手にしている。

「体でも拭いたら」

 春子はタオルを投げてよこした。タオルはちょっと熱いくらいで、吾朗は思わず落としそうになった。

「もうすぐ朝食もできるわ」

「何で」

 朝食をご馳走になるというのは吾朗にとって意外だった。

「迷惑かけたみたいだから」

 と言うと、ぴしゃりとガラス戸を閉めた。

 吾朗に下着になって身体を拭いた。最初は熱かったタオルも拭いているうちにいい加減になり、目が覚める思いがした。

 吾朗が背広を羽織り、布団を畳んだところで、ガラス戸が開き、春子が現れた。

「押入れにしまって」

 吾朗は言われたまま、布団を押入れに入れた。その間に春子はちゃぶ台を出して、台拭きで拭き始めた。

 春子の手際はよく、お盆にご飯とみそ汁を装うと、すぐにちゃぶ台が並べた。きゅうりの漬物も、小皿に盛ってある。

「上手だな」

 吾朗が思わず口にすると、当たり前よと言うかのように、春子はニコッとした。

 食べてみると、美味い。腹が空いていたせいもあるけど、夢中で食べて、おかわりまでしてしまった。

 春子は面白そうにご飯をよそいでくれた。そして、湯飲みにお茶を注ぎながら、

「あなた、私のこと探してたの」

と聞いてきた。

「どうして」

「ポケットの写真」

 吾朗が慌てて背広のポケットを探ると、春子のブロマイドが出てきた。

「私は、まだそんな写真とってないけどね」

 春子は面白がっているような、意地悪な目で吾朗を見た。吾朗はどう言い訳したものか、困った。

「でも、女優さんだろ」

「違う。エキストラ。昨日もそう、今日も同じ」

「今日も、撮影があるのか」

「ゲリラロケだけどね」

「何だ、それ」

「警察の許可取ってないの。だから、警察が来たら……」

 と言いつつ、春子は走るふりをした。

「危険じゃないか」

「今は、当たり前よ。お金もないし、時間もない。仕方ないの」

「今日もあるのか」

「そうね。今日は、下谷の当たりだったかな。行けば、分かるよ。来る?」

 そう誘われて、吾朗がちょっと戸惑ったが、折角、本人に会っているのに、チャンスを逃す手はないと思った。それでも、わざと気の無い返事をした。

「ああ」

 春子は何か分かっているかのように、もうそれ以上何も言わなかった。立ち上がると、さっさと食器を片付け始めた。

「出る準備しといてね。片付けたら、私もすぐだから」

 手際は良さそうだと吾朗は思った。

 そして、その通り春子は着替えると、「行くよ」と先に部屋を出て行った。吾朗が慌てて追いかけたら、ドアの外で待っていて、

「鍵するから」

 ガチャリと閉めて、鍵を昨日と同じ手提げバッグの中に放り込んだ。

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