第3話 Barラフガン

 春子は路地をぐるぐると通り抜け、三階建のビルに入って行った。

 その二階に、ちょっと洒落た扉の店があり、表の看板に「Barラフガン」と出ていた。春子はその扉を開けた。

「いらっしゃいませ」と元気な声が迎えてくれた。続いて、「あら、春ちゃん」

 更に続いて、「お客さんも?」

 春子は、何でもない相手だとでも言うかのように「付き合ってもらったの。ママ、ちょっと飲ませてあげてよ」

「いいわよ。春ちゃんの奢りね」

「一杯だけ」

と言い残して、春子はトイレの横の扉を開けて、消えた。ママと呼ばれた女性は吾朗に「何がいい?」と聞いてきた。

「たぬきって、ある? サントリーの」

「店ので出してあげる」

 ママは丸味のあるグラスに氷を入れながら、「友達?」と聞いてきた。

「初対面。もっとも、向こうは知ってるようだがね」

「不思議ね。あたしもよ」

「ママもうおれのこと知ってんの」

「あなたと同じ。あの子、あたしのこと知ってたみたい。知ってて、この店に来たみたいだった」

「彼女がそう言ったのか」

「言葉の端々で分かるじゃない」

 そこで、着替えた春子がプライベートルームから出てきた。ちょっと短めのスカートに、ブラウス姿だった。吾朗が驚いた顔になっているのを見て、

「バイト」と春子は言った。

 客がいない間は、カウンターに中で洗い物やおつまみの準備をしていた。客が来ると、ママが先に客のところに行き、氷とグラスを持って、春子が追いかける。

 連携が取れていると吾朗は思った。

 その間しばし吾朗はひとり酒になった。春子が来るか、ママが来るかと俟っていたら、ママが来た。

「お客さん、いいの」と吾朗。

「春子がいるから。あの子、初めての客に意外にうまいのよ」

 さすがは女優の卵といったところだろうか。

「さっきの話、聞いてもいいかい」

「何の話」

「春子さんがママのことを知ってた話」

「その前に」と言って、名刺を差し出しつつ、

「角田花江。花江でいいわよ」

「じゃあ、花江さん。花江さんは春子さんとは面識はないんだ」

「そうなのよ。変じゃない、会ったこともない人があたしを知ってるなんて」

「俺も同じことを感じている」

 花江は声をひそめて、「しかもよ、あたしの先のことも知っているみたいなの」

「花江さんの未来」

「そう」

「占いでもやっているのかな」

「まさか。でも、これから十何年間か先の話をちらりとしてくれたことがあったの。相当酔っ払ってたときだったけどね」

「明るい未来だった」

「もう、店はやめてるんだって」

「結婚?」

「そうじゃないから、嫌なの」

「何やってんの」

「会社の破産整理」

「自分の会社じゃなくて」

「そう。嫌になるでしょ」

「知ってる会社なわけ」

 花江は少し考える振りして、「知らない仲でもないかな」

「なら、役に立ってあげても、いいんじゃない」

「でも、何となく嫌なの」

 そこへ春子が氷を取りに来た。春子は吾朗に、「ママと仲良くなるの、早すぎ」と文句を言う。

「放ったらかしだから」

 春子は、バツ悪そうに笑って、客のところに戻った。吾朗は背中で様子を伺っていたが、その客たちはかなり盛り上がっていた。付き合っている春子の声も、次第にテンションが上がっていくのが分かった。

 案の定、客が帰った頃には、春子はグデグデになっていた。

 ちらほらと立ち寄る常連客には花江が対応したので、自然に吾朗が春子の介抱をする羽目になった。

 常連客もひと段落したときに、花江がため息混じりに、吾朗に言った。

「悪いけど、タクシーで送ってやってくれない」

 吾朗はちょっと戸惑った。自分の持っているお札は、どうせタクシーでも使えないはずだと思ったからだ。

 それを知ってか知らずか、花江が、

「タクシー代はあげる。お釣りは、その子のバイト代」

と付け加えた。

 タクシーはすぐに捕まった。問題は、行き先だった。酔っ払って呂律が回らない春子から、家の所在地を聞き出すのは難儀だった。

 吾朗が困っていると、花江が追っかけて来て、タクシーの運転手に、

「北区の明神まで」

と告げた。そして、吾朗に「言い忘れてたから。後は、よろしくね」と付け加えた。

 タクシーの運転手は、黙って車をスタートさせた。五郎は、タクシーを降りてからが心配だなと思った。そこで、タクシーの運転手に聞いた。

「運転手さんは、初めて?」

「何です」

「酔っ払いを乗せるのは、多いの」

「しょっちゅうですよ。その子も知ってるし。あたしゃ、自慢じゃないけど、この辺りを一日中走ってんだ。いろんな奴、知ってますよ」

「そう。ちょっと安心した」

「お客さんは、初めてだね」

「そうだろうね。僕も、初めてだから。悪いけど、この子の家も知らないんだ」

「近くまで、行きますよ。だけど、タクシー降りたら、あんたが連れて行ってね」

 吾朗も、それは仕方ないと思う。タクシーの運ちゃんに取っては、稼ぎどきだ。一分だって無駄にはできないだろう。

「何とかするよ」

 吾朗はつぶやいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る