第2話 遭遇

 吾朗は、週刊時代の出版社である多賀出版のある南神田に出向いて行った。

 調べた住所にはかなり古いビルが建っていた。多賀出版社の看板はない。雑居ビルだ。

 表通りでは感じなかった何か子供の頃の神社の祭りで感じた空気感や、懐かしい匂いがした。

 中に入ると、通路もゴミゴミしていて、古い段ボール箱もところどころに積み上がっている。二階の奥の一室の壁にうっすらと多賀出版の文字が読み取れた。扉には鍵がかかり、使われている様子もない。

 通路の突き当たりにある窓が開いなていたので、外を眺めた。白い霧が立ち込めていて、その切れ目から垣間見える景色は古い家屋が並んでいた。煙が上がり、一杯飲み屋のような風情もある。

 吾朗は窓枠から這い出して、下を覗いた。白い霧に邪魔されて、よく見えなかったが、すぐ跳び乗れそうな高さのコンクリート塀があった。

 吾朗はその景色に何となく心惹かれるものを感じていた。窓枠をくぐり抜け、塀の上に立つと、町並みがもっとはっきりと見えてきた。

 跳べ、と自分に言い聞かせて、吾朗は塀の上から下の空き地に跳び下りた。

 狭い空き地の先に飲み屋街がある。古いビルのいっかい暖簾や提灯が無ければ、店とは思えないくらいだ。

 一軒一軒覗いて行くと、無愛想な中にも、ちょっとだけ吾朗の気を引く店があった。入り口は開け放たれ、店の外にもテーブルと椅子が置かれている。店のカウンターで一人呑んでいる白髪の爺さん以外に客はいない。

 吾朗は店の外の椅子に腰掛けた。

 しかし、待てど暮らせど注文を聞きに来ない。別に飲みたいわけじゃないしと、そのままにしていると、警官が一人、ゆっくりと自転車を漕ぎながら現れた。

 見渡して、誰も身動きひとつしない。何となく警戒感を感じた。

 警官は、知ってか知らずか、のんびりと自転車を漕ぐ。ほとんど止まっているのかと思えるくらいに、店を覗き覗きしている。

 吾朗は、そこに悪意を感じた。

 警官が突き当たりの角を曲がり、姿が見えなくなった時、いつの間にか、吾朗の前に酒とツマミが置いてあった。

 ここはお任せコースか。

 と思った矢先、周りが急に騒々しくなった。何処からか、カメラや照明、長い棒の先端にマイクらしきものをつけたものを担いだ男が現れて、ハンチング帽の男の指示で、撮影を始める。カメラの前には、それまで気づかなかったが、若い男女が立ち、その周りに通行人らしき男女が数人いて、ハンチング帽の男の指示で歩き始める。

 路地の両端には、背広を着た男が立っていて、様子を伺っている。そのうちの一人が手をあげて合図すると、また、撮影隊は店の中や、路地裏に隠れてもとの静けさを取り戻した。

 吾朗の目に前にも、スカート姿の若い女性が、さりげなく腰掛けた。吾朗が驚いて見つめていると、黙っていてねとでも言うかのように人差し指を口に当てて、ウィンクする。

 路地の端、先ほど合図した男がいた角から、今度はカブ号に乗った警官が一人、のろのろと走ってくる。自転車の警官と同じように、店の中を一つ一つ覗き込んでいる。

 その警官が反対の角に消えると、また撮影隊が動き始める。

 目の前の女性も、立ち上がった。

「何やってんだ」と吾朗。

「ゲリラロケ……後でね」と言うと、彼女はまた通行人に戻った。

 吾朗はその彼女の顔に見覚えがあった。ポケットからカフェラマンの壁から取ってきたプロマイド写真を取り出すと、吾朗は見比べてみた。同じだ。

「三沢春子」

 あっという間に撮影は終わり、撮影隊も役者もエキストラも、姿を消した。

 テーブルの上の酒はほとんど減っていない。吾朗は、コップを手に取り、一口呑んだ。酒は美味い。だが、後でねと言った三沢春子は現れない。

 仕方なく、もう一杯呑む。すると、後ろに誰か座った。気にはなるが、振り返ることはできなかった。

 店の親爺がコップ酒とツマミの皿を持ってきて、後ろのテーブルに置いた。親爺がいなくなるのを待ったかのように、背後から、

「乾杯」

と女性の声がした。

 振り返ると、三沢春子がコップ酒を片手にこちらを見ている。

「乾杯」と、吾朗もコップ酒を掲げる。

 春子はまた吾朗の隣に座ってきた。

「初めまして」と言いつつ、春子はじっと吾朗の目を覗き込んできた。

 吾朗はちょっと戸惑って、「何だよ」と思わず口にした。

「不思議ね。初めてじゃない気がするの」

「俺は初めてだ」

「今が、何年か知ってる?」

「2007年」

「まさか、1972年よ。沖縄返還の年なんだって」

「嘘だろ。俺が、どうやって……」

 吾朗は冗談だと思った。

「私も、最初、そう思った。でもね、事実みたい」

「あんたも、なのか」

「そう」

 春子はあっさりと言った。何故そんなことを受け入れられるのか、吾朗には不思議だ。一体、どうやって30年も前にたどり着いたというのか。

「あんたも、未来から来たのか」

「違う。私は、過去から」

「いつ」

「1918年」

「ふっ、見えないな」

 吾朗は思わず湧き上がってきた笑いを抑えた。

「お婆ちゃんには見えないってこと?」

 春子の言葉には、少し怒気が混ざっていた。

「いや、許してくれ。まだ、あんたの話を受け入れきれていないんだ」

 春子は、「あなたはもう少しこの世界に慣れる必要がありそうね」と言うと、立ち上がった。

「連いて来て」

「あっ、待って。ここの支払い」

 吾朗は、カウンターの中の親父に「勘定」と声をかけた。

「二千円」と愛想のない声が返ってくる。

 吾朗は財布から一万円札を出した。それを受け取った親爺は「見た事ねえ札だ。偽札か」と返してくる。お札の絵柄は、福沢諭吉だ。

 春子が背後から「すまない。こっちで、お願い」と聖徳太子を差し出すと、親爺はすんなりと受け取って、聖徳太子の五千円札と伊藤博文の千円札を返してきた。

「吾朗、時代が違うんだよ。気をつけて」

 春子は可笑しさを抑えながら、吾郎にそう言った。

「何で、俺の名前を…」

「何故でしょう。答えは、初めてじゃないからよ」

 春子は意地悪な笑みを浮かべた。

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