羅村吾朗の憂愁

茶和咲 惇

第1話 カフェ・ラマン

 涼風吹くところ必ず賢人ありという。自らを省みて、決して賢人ではないが、冷房の効いた涼やかなカフェに、羅村吾朗はいた。

 近くにある英知社という小さな出版社に勤め始めてから、ちょくちょく通っているから、店のマスター兼オーナーの伊深太士とは、タメ口の聞ける仲になってしまった。

 いつもはマスターの前にあるカウンターに座るのだが、今日はちょっと気分が悪かった。長く積もり積もった鬱憤を晴らすため、会社に辞表を出してきたところだった。

 離れた壁際のテーブルに座っている。伊深は何も言わず、水とメニューを持って来た。いつもならメニューを見ない男にである。

 吾朗はメニューには目を遣らず、壁にピン留めされたプロマイドや記事の切り抜きを眺めていた。改めて見ると、乾燥して変色したものばかりで、昭和を感じさせる。

「決まりましたか」と、伊深が声をかけてきた。

「いつものやつ」

 と答えると、伊深は安心したのか、笑ってメニューを下げた。

 ゆっくりと時間をかけて、こってりしたなナポリタンを持って来た。

「特別製」

「何で」

「落ち込んでるみたいだから」

「見える?」

「バッチリ」

 伊深はテーブルの上に割り箸とフォークを置いていく。羅村は割り箸を手に取って、ナポリタンをつつき始めた。

 見栄え同様、味も変わらない。

 大盛りの食い物が出てくると、口一杯に頬張るのが羅村の癖だ。美味い。噛みしめながら、また壁のプロマイドを見た。可愛い女性だ。その横に乾燥して色落ちした週刊誌の記事が貼ってある。

 吾朗はちょっと身を乗り出して、記事を読んだ。最近、視力が落ちてきたせいか、よく読めなかったが、どうやら女優の失踪事件の記事のようだった。古い週刊誌の記事のようで、乾燥して変色している。見出しの女優は、プロマイドの女性と同じようだ。

「おい」と、カウンターの中の伊深に声をかけた。

「何」と伊深が顔を出す。

「この子、だれ」

 身を乗り出してきた伊深に、ピンを外してプロマイドを見せた。

「ああ、ロマンポルノの女優さん。もっとも本人は一度も脱がなかったがね」

「失踪したのか」

「行方不明だ。まだ、見つかってないよ」

「お前、好きだったのか」

「何で」

「わざわざ壁に貼ってる」

「70年代に人気があったんだよ。そして、あれだ」

 伊深は壁の記事を指差した。

「未解決事件だから、まだ貼ってるんだ」

「読むよ」と言って、吾朗はピンを外した。伊深は、好きにしろとでも言うかのように、背を向けた。

 記事には、週刊時代1985年8月とページの下に書いてあった。署名はないので、持ち込みではないのだろうと吾朗は思った。執筆者と編集部との力関係や記事の内容によるが、持ち込み記事には大抵、執筆者の名前が入る。

 脇役ながら70年代前半に人気を博したこと、必ずしもロマンポルノばかりではなく、幅広いジャンルの独立系の作品に出演していると書いてある。女優の名前が出てきたのは、記事の後半だ。

「三沢春子」とある。

 もっとも、この名前が正確かどうかは微妙とも書いている。出演作品によって名前が違う可能性があるようなのだ。

 似たような顔の女優さんの出演作はいくつかあるのだが、この頃は出演者の名前をエンドロールに全部出すことはなく、制作者に一つ一つ確認しない限り、正直わからないという。

 三沢春子という女優さんは、元々は旧華族の出で、家を飛び出して女優になった。エキストラから始めて、少しずつ役を獲得していったそうだ。ロマンポルノの作品に出演者として名前が出ているのもある。

 伊深の言うように、脱がなかったのは確かなようだ。記事にも、そう書いてあった。プロマイドもあるから、そこそこの人気はあったとも、書いてある。

 七十年代になって、割とすんなりと映画業界に入ってきている印象がある。元々知り合いがいたのか、有力者の伝手があったのかなどはわからない。

 何でもありの業界で、自分の意思を貫けたとすると、かなり気の強い女性だったかもしれない。

 それが、ようやく人気が出てきたくらいの時期に、失踪している。原因は不明。映画界での活動は、一年未満だったようだ。

 この記事を書いた記者は、数人の独立系の映画関係者と、三沢春子がバイトをしていたという店のママに取材している。いずれも名前を出していない。関係者としか書いてないか、仮名だった。

「手掛りは、これだけ?」

 吾朗は伊深に尋ねた。

「そう。そのプロマイドは、俺が子供の頃、客の誰かにもらったものだよ」

「その客の名前は、覚えてないのか」

「中学生くらいだったけど、興味なかったしなあ」

「じゃあ、この記事だけか」

「そうなるな」

「借りてくよ」

と言って、吾朗はカフェラマンを出た。伊深はダメとは言わなかったし、追いかけても来なかったので、どうでもよかったのだろうと、吾朗は思った。

 さて、週刊時代の出版社は……吾朗は歩きながら検索した。どうやら倒産している。しかし、所在地だけはわかったので、行ってみることにした。南神田だ。

 もう一つ、記事の最後の方に書いてあった常巖大学の道成教授の言う「時空並立」という言葉が意味不明だった。この教授の名前は本物だろうから、話を聞きに行く必要を感じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る