第11話 深淵
硬いシートの背もたれの感触で僕は目が覚めた。
目を開けても何も見えない暗闇が広がっている。
手足は動かない、座った状態だ。
一瞬、椅子などで寝入って金縛りにあったのかと考えたが、そんな記憶はない。
落ち着いてくると、手足が固定され、目隠しがされているせいだと気が付いた。
思い出した、僕はあの研究所へと侵入し、装置を破壊したところで不意打ちを喰らったのだ。
それにしても牢ではなく、いきなり椅子か。
いつか映画で見た電気刑を思い出して青ざめる。
落ち着け、冷静に考えるんだ。
この目隠しと拘束……おそらくは抵抗を見越してのことだ、つまり僕に施されるのは拷問か洗脳か、考えたくはないが解剖か。
拷問はする必要がない。なぜなら、情報など持っていないから。
そもそもこれだけ大規模な洗脳などをやってのけた相手に、情報などあってなきようなものだ。
洗脳なら、これまでと同じでは僕に効かないとみて、直接的な何かを行う気だろう。
どちらの手段も原理は分からないが、あのレーダーのような装置を使うのだろう。
寝かされていないので解剖の線は薄いと思うが……そうだったら、もうお終いだ。
「やあ、目が覚めたみたいじゃないか」
深雲先輩の声だ。少しだけ、いつもよりも声に艶がある気がする。
「ふふふ」
両手の甲の皮膚を細い何かで刺激され、搔痒感にもどかしさを覚える。
「人の体が皮膚をかぶるのは、きっとグロテスクな真実を隠すためだろうね」
そして、恐らくは先ほど僕の手の甲を弄んだ物体を手に握らせた。
「これは、ストローですか……?」
「正解だよ、インスタントなストローさ」
………………!!?
声の主は、手からストローを抜き取ると僕の両耳へ一息に突き刺した。
激痛とともに、至近距離で砂利をミキサーにかけるような不快音が頭中を駆けめぐる。
爆音をかき消すように叫ぶが、次第に自身の声が遠ざかっていく事実に恐怖し、さらに大きな声で叫ぶ。
明瞭に聞こえていた先輩の声は、六畳一間とふすま一枚を挟んだような遠さで耳に届く。
「君がいま話しているのは、誰だと思う?」
いたずらっぽい声で。
「あたしかな??」
胸やけがするほど甘い声音で。
「それとも、ワ・タ・シ?」
僕はにわかに恐怖した。見えないことが、これほどまでに恐ろしいことだと思わなかった。
いつもの彼女はどの声だった?
目隠しの向こうの彼女の存在が、イメージの中で揺れ動く。
それどころか、本当に先輩以外にも誰かがいるような気になってきた。
「目隠しをされて、鼓膜を傷つけられ、声色を変えられれば、もう君は私の声を認識できない。 ストローを刺すのは私だけでいい、全ての色のパプリカは、私だけに認識できればいい。 盲目かつ自己を持たない市民は、まがい物の青いパプリカで満足していればいいのさ」
冷笑に哄笑が重なり、苦笑に嘲笑が混ざる。
その全てが彼女一人から発せられているのだろうか。
「君も私の作り出す幻想を受け入れて、穏やかに暮らせばよかったのに。何故抵抗してしまったのかな?」
「やはり、あなたが今回の事件……いや、現象の発生源だったんですね」
「正直、君にここまでの胆力があるとは思わなかったよ。 スーパーで逃げ出した時みたいに、現実逃避を選ぶものだと思っていたからね」
先輩は感心したように手を6回叩き、目隠しの上から両目を撫でる。
「君の、見たくないものには目を閉ざしてしまうところは。かわいらしくて好きだったんだけどね。愛しの瞑目くん」
「この目隠しは、サービスってことですか」
「そうだよ、大量殺人未遂者の娘で、騒乱罪の女だ。醜悪な傲慢に溺れた真実の私の姿など、見たくないだろう?」
笑ってしまった。
そう来たか、やっぱり先輩は面白い。子供みたいに天邪鬼だ。
つまり、この先輩の奇行はハッタリだ。半分本音が漏れている。
ぼやけた想像の輪郭が、目隠しの暗闇の中で一つに形作られた。
「それは違いますね、先輩。見てほしいが、見てほしくもない、ですよね?」
「どうしてそう思った?」
「残念ながら、こんな目隠しなどなくとも、僕にはあなたが見えています」
「幻想だよ、君は私がどんな服を着ているかもわからないんじゃないか? 赤か、青か、黄か、緑か、もしかしたら裸かもしれない」
「目隠しをして、あなたが言った色を僕の真実に書き換える。これは洗脳の過程を教えて頂いている、というわけですね?」
「そう来たか、やっぱり君は面白いね。このタイミングで虚勢を張ってくるとは」
「あなたは、全ての色を支配した気でいるかもしれない。 それでも一つだけ、あなたには手に入らなかった色があります。先輩には……分かりますか?」
「ヒントは、僕と先輩を繋いでいる色ですよ」
「ずいぶんと抽象的な言い回しをするじゃないか、キミらしくもない。そうだな……オレンジ色かな?」
やっぱり、ちゃんと見てくれているじゃないか。
孤独を抱え込んで、独りでうずくまった夜が馬鹿みたいだ。
「まあ、何色を思い浮かべていても同じですけどね」
「なんだ、損をした気分だよ」
「想像は他者には侵すことのできない、この世で唯一の聖域。だから想像上の色は自由だ」
「その言葉は……」
「先輩が教えてくれたことですよ。僕にとっては、あなたの瞳の青い輝きは今でも消えはしない。 たとえ目隠しの向こうでも同じことです」
「それは幻だ! 君は存在しない幻想を追っている! 私の目は青くはない」
「だったら、僕と同じ幻想を見てください。先輩はこの世で最も美しい青色の持ち主だ!」
「私にはそうは思えない。青なんて嫌いなんだ、そこに意味もない、だから理解もされない」
「そう生まれてしまったという事実が、都合のいい幻想よりも重くのしかかってくる。 あの目と同じだと、世界を壊そうとした人の冷たい目と同じ色だと。
優しい夢を見ても、起きれば悪夢だ。それでも現状を変えるためならと、あらゆる手段を試したさ」
「それは、他者を書き換えても何も解決しませんよ。見て見ぬふりをしても、いつかは罪に追いつかれます。 僕たちは、現実を抱えて生きていくしかない。出発点は変えられないから」
彼女が何かを取り落としたのか、硬いものが足に落ちて跳ねた。
そう、幻想に逃げても、いつかは自分自身で気づいてしまう。
例えば、鏡を見たときに。例えば、昔の写真を見たときに。
ふと、何気ない拍子に出発点を思い出し、自らの手で葬った過去の怨念に気づいてしまうのだ。
たとえ後悔したところで、過去へは戻れない。あまりに残酷な世界のルールは、時間の流れが一方通行であることだ。
そうだとしても、現実をどう受け止めるか。
こればっかりは自由なんじゃないだろうか。
「私と君の価値観の相違は決定的だ。このまま話し続けていても平行線だよ」
「たしかに先輩と僕は、厳密には同じ見え方をしていないかもしれない」
あらためて口にすると、胸にはもの寂しさが広がる。
だが、言い切ってしまうしかない。
「先輩から見える青は、僕にとっての藍なのかもしれない。僕が見る赤は、先輩にとっての朱かもしれない。
「そうかもしれないね」
「それでも僕は、ずっとあなたと同じ色を見てきたと信じたい」
予想外の反応だったのか、返答はない。
「いま見えているものだけが、全てじゃないはずです。
きっと、記憶の中に残したものにも意味があると、僕は信じています」
ここで言わなければならない。
あの記憶は、彼女にとって大事な光景のはずだ、お返ししなければならない。
「夢を見ました、あなたの夢を。そしてあなたの過去の記憶を……先輩のお父さんとの記憶を」
息を吞むような気配がした。
「そんなものは、幻だ。君が勝手に作り出した幻想だよ」
「先輩らしくもないですね、あなただけは否定しちゃいけない。あなたにだけは否定してほしくない」
息を吸い込む。
「思い出してください! あなたのお父さんは、何故計画を実行せずに亡くなったと思いますか?
なぜあなたが無事でいられたのか! あなたは気づいているはずです」
僕は知っている。あの青い目をした白衣の男が、どれだけ娘を愛していたか。どれほど娘を守りたかったか。
かつて夢でつながった彼女の記憶は、それほどに暖かな思い出に満ちていた。
「先輩のお父さんは装置を起動した。にも関わらず、地獄の生存競争など起こっていない。それが答えですよ」
「父の理想は間違っていた。それは私も同じだ」
「確かに正しくはなかったかもしれない。けれど、間違っていたとも断言できない。
正しいとか、間違っているとか、そんな線引きには意味がないんですよ。
できるのは、正しいと信じること。もしくは、間違っていても信じること」
「その強烈な強迫観念は、自分を洗脳しているようなものだろう。
どうりで効かないわけだ、この頭カチカチメガネは頑固にもほどがある」
「なんとでも、言ってください。これだって結構辛いんですよ。先輩も同じですよね?」
「どうしてそう思う?」
「自分を騙しているのはあなたも同じだからです。そうでなければ、狂気こそが自身の本質だと、柄にもなく悪意を僕に披露したりはしません」
「」
「僕が先輩のお父さんと同じ立場なら、この装置はあなたを守るために使います。たとえ命を失ってでも」
「君は……どうしてそんなにまで、私に」
先輩はつぶやきながら、僕を前から抱きしめた。そこから先は言葉にならなかった。
柔らかな頬の感触を、頬に感じる。透明な涙の匂いが少しだけした。
「言ったはずですよ、あなたを一人にはさせないと」
「私は、父の言葉の真実を知りたかった。それだけだったんだ」
彼女は僕の手かせを解いた。
自由になった手で彼女の頭を撫でる。
目隠しは外さない。
「父は、人が他者と精神を共有できれば、欲望や恐怖が肉体という殻を破って表出し、淘汰が発生すると考えていた。
ちょうど自然界のように、精神活動の弱い者が強者によって捕食されることになる。
この情動淘汰こそが、人類を進化させる。だから、人を進化させるべきだと」
恐らくいま、彼女は遠い目をしているのだろう。
「自然界の淘汰というシステムを信じていたのだろうな、そういう人だった」
故人を偲ぶ口ぶりとは違う。分析結果を述べるような口ぶりだった。
「だが、私にはそれが信じられない。人間という生き物は、合理を信じる一方でひどく非合理的だよ。同じ事象でも、時に泣き笑い怒り悲しむ。騙し裏切り許しあう。信じ愛し嘘をつく。そんな生き物が、精神の強さだけを求めた先に何がある?」
先輩はさらに続ける。
「生き物の機能はすべてが生存に根差すという人もいるが……精神活動には無駄が多く見える。野生生物たちの生存競争から落伍したエラーの賜物だろう」
「エラー、でしょうか?」
「ヒトは弱い、爪も牙も貧弱だ。そんな生き物が残忍と狡猾さで、ヒト以外のほとんどの生物の生存圏を脅かすに至った。まさしく自然界のエラーだろう?」
「それは、進化と呼べるのではありませんか?」
「そう、そのエラーこそ進化だと呼ぶものもいる。だが、最初の進化から我々は前に進んでいるか?
さらに進化すべく、淘汰によって試行回数を増やしたとしよう。しかし、待ち望んだ進化1号が生まれるころには、絶滅ギリギリまで淘汰が進んでいるかもしれない。
それに、やっと生み出した進化が、人にとって好ましくなかったらどうする? 今度はエラー扱いして"人類とは違う”異質なものだと排除してしまうのか?」
「そうでしょうか? もしかしたら……」
「そうだとも、有史以来人類は、同種で殺しあう以外に知恵をほとんど活用しなかった。化学・物理・生物学の偉業は戦争で発揮され続けている。論理・経営・経済学の知識の発露は経済戦争というべきかな?」
その言葉には深い憤りがある。救える力を持った人間達が、人々を救わない選択をするであろう事実に。
「こんな世界だから淘汰の先に進化しても、果実を同じように争いのために使うことは分かり切ってる。行きつく先は袋小路だ。これでは、いつか必ず訪れるタイムリミットに追いつめられる。淘汰の末に地上を闊歩した恐竜でさえ、殆どが極寒の時代には耐えられなかったように」
「私は、人類を救う特異点が摘み取られる結果にはなって欲しくない」
悲痛な言葉だった、数百・数千年後の危機を自分のことのように述べている。
世界を変えられるスイッチが手元になければ、杞憂だと笑えただろう。普通の女の子でいられたはずだ。
だが存在してしまった。
彼女は、父から継承したそのスイッチありきで今日まで思考してきたのだ。
「だから私は、やがて生まれる彼ら・彼女らが迫害されない世界を作りたかった。他者との違いが浮き彫りになったとき。人はそれを受容できるほど強くなれるのか、人と人の存在の間に生まれるエラーを受容できるか試さなければならないと考えた」
「実験過程はおおむね成功した。第一に、モニターを通じて、あるがままを受け入れるリミッターを解放する。抵抗ゼロ状態というべきか。第二に、ノイズを通じて他者の感覚を受信する。一言でいうと、他者との非言語による共感かな。テレパシーとまではいかないけどね。この建物内の装置で私の思考を読み取り、ノイズに乗せて送信した。初めて送信したエラーは、青いパプリカというやつだ」
「上手くいかなかったのは、数日おきに継続してノイズを流さないと効果が消えてしまうということだ。永久に改ざんし続けられるわけじゃない。人は忘れる生き物だからね」
「結果は、君が見てきた光景が全てだよ。実験開始から6日目には、強弱はあれど、多くがパラノイアに陥った。酷い結果を見て思ったよ。私は父と同様に、死すべき業を背負ったと。私も人間だ、毎日同じ思考のはずがない。余計な雑念まで送信してしまうのは必然だったというわけだ」
「それって、あの夢ですか?」
「過去の自分の姿ほど恥ずかしいものはない。記憶なんてものを送り付けてしまうなんて」
「過去もそれほど悪くないと思いますよ。今に続いてるんですから」
「皮肉にも実験が効きづらかった君が、他者との違いに壊されずここまでたどり着いた。
言ってしまえば、君こそが今回の実験におけるエラーであり、特異点だったわけだ」
我が儘と天邪鬼。それはきっとお互い様。
先輩は人間普遍の真実を追い求め、僕は自身が内側に隠した真実の声を見出した。
それだけの話。
「周りと同じように見えなくなって、ようやく欲しかったものが見つかりました」
「この装置の機構で意味があるのは色じゃない。小さな点滅とノイズだよ。
意味がなくても青色を選んだのは、きっと私は青色に意味を持たせたかったからだろうな」
そして、僕の目隠しが外された。
「私の目の色は何色に見える?」
輝く青色の瞳をしている。隠していた幻想は剝ぎ取ったらしい。
「空と同じ、美しい青色です。でも涙の色は似合いませんね」
先輩は、嬉しそうな表情を一瞬だけ浮かべ、椅子の横にかけてあったバイザーを僕にかぶせた。
「次に目を開けたら、どうか私のことを忘れていてほしい。それが、私が君に施す最初で最後の洗脳だよ。直接ならば、恐らく君にも洗脳は効く」
きっと僕の記憶の中の先輩。
つまり彼女との思い出をキーに、記憶データを封印しようとしているのだろう。
想像できていたことだ。僕らは口下手で、自分勝手で、それでもお互いに通じ合っている。
共感覚のノイズなど必要なかったのだ。
つまり、彼女の方も気づいている。僕がこれから何をしようとしているか。
もう一つのバイザーを先輩自身が被った。
彼女は逆に、僕との思い出をキーに記憶を消去するつもりだろう。
この削除は不可逆、つまり父から受け継いだ装置を使ってしまった自分を殺そうというのだ。
自らの選択を罰し、その先に枝分かれした人格の死をもって償うと。
「そうしてくれたら、君が私を追い続けてくれたという真実は、私だけのものになる」
僕はそれを聞いて、笑ってしまった。
「ここにきて、先輩のかわいらしいところを、また一つ見つけてしまいました。すごくロマンチックなんですね」
「なんとでも、言ってくれ」
「先輩は隠していることがありますよね、一つだけ、教えてください」
「なんだい?」
「名前、ですよ。本当の名前を教えてください」
「深雲 アウラ、君がこれから忘れる名前だけどね」
一人で信じることは幻想でしかない。しかし、一緒に信じているという事実は現実だ。
言葉には出さない、二人の天邪鬼な幻想がリンクする。
スイッチが押された。
光が、全てを塗り替えていく。色はついていない。
意識は薄く引き伸ばされ、他者と自己の境界線があいまいになる。
透明な闇にからめとられ、どこにも行くことができない。
激しい光の中で、手が繋がれる。
指先を通じて体温が伝わり、温かさが体内に溶けていく。
嘘ですよね、分かっています。
忘れたりなんてしません。
一瞬だけ、唇に感じる温もり。
たとえ何があろうとも、僕はこの感覚を二度と忘れることはないだろう。
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