第10話 熔鉄
目が覚めると、そこは家ではなかった。
それどころか、眠っていたフローリングもなければ、天井すらない。
訳が分からない。僕は夢遊病者になったのか?
鮮烈な夢を思い出した。
彼女の悲痛な顔がフラッシュバックし、瞼の裏に再度焼き付けられる。
ここ数日に起こった違和感、その狂気の渦中からは爪弾きにされていたが。
ようやく、僕のもとにもやってきた。おかしな電波が。
夢だから、幻だから。
そんなことは関係ない。
彼女とその過去を、救わなければならない。
自分のことについて何も言わない彼女は、決して助けてくれとは言わないだろう。
傍から見れば狂人の発想だと分かっている。でも、まともに現実に向き合ったら気が狂いそうなんだ。
彼女の言葉を信じるのではない。彼女の本質をこそ信じるのだ。
成し遂げるためには冷静になる必要がある。
静かに狂うのだ。狂信と理性を共に掲げ、悪行をもって独善を成すべきだ。
それができるのは、僕しかいないのだから。
顔についた土をぬぐおうと手を出しかけ、気が付いた。
両手が縄で縛られている。足までは縛られていないようだが。
見回すと、周りはすべて木々に囲まれた森の中。
時刻は朝か夕方か、赤い光が木々の隙間から洩れる。
見れば長く伸びる木陰の暗がりに男が立っている。手には長い柄のつるはし。
あいつが我が家のドアを壊したに違いない。
幸い足は縛られていない、起き上がると脱兎のごとく駆け出した。
整備もされていない森の中、背中を追いかける足音が心拍を上げる。
走り続けていると苔むした木材の塊のようなものが見えてきた。
納屋だ。ツタの絡みついた小屋に横からトラクターが刺さっている。
裏に空いていた穴から這って侵入し、縄を切れる機具を探す。
しかし、埃の舞う室内に刃物の類はどこにもない。
後ずさりすると、何かの箱にぶつかった。
灯油のタンクだ。
引き倒し、油に手を浸す。
気味の悪い感覚に鳥肌が立つが、ぬめりと湿り気で腕は縄から抜けた。
慌てて納屋の中を引っかきまわす。
マッチがあったが、灯油まみれのままで点けるわけにはいかない。
とりあえず、慎重にポケットに入れる。
再度物色を続けていると、大きな破砕音が響いた。
見ると、つるはしの角が扉に突き刺さっている。
今しがた開いた隙間から、のぞき見る目がギョロギョロと室内を見回す。
よく見れば、瞼にはガラス片が刺さっている。あれで見えているのか?
つるはしでは時間がかかるとみて男は、扉を蹴り倒しにかかった。
振動と轟音が小屋を襲う。ミシミシと嫌な音が、木造のいたるところから聞こえてくる。
ともすれば、建物ごと潰れてしまいそうな、そんな勢いだった。
10回を超えたあたりだろうか、壁よりも先に扉そのものが半分に割れた。
急いで扉の前に油を撒き散らす。
扉の前だけは床板が金属板でできている。足元を見ずに侵入した男は、油に足を取られ派手に転倒した。
その起き上がりばなに体当たりし、壁へと頭をぶつける。
男が取り落としたつるはしを掴み、外へと投げ飛ばす。
金属の恐ろしい工具は、音を立てて転がり、草むらへと消えていった。
起き上がろうとする男は、革靴が滑って立つことができない。
近くでよく見ればフォーマルな服をしている。喪服のように黒いスーツだ。
もう追ってこれないと高を括って、僕は彼に背を向けた。
しかし、立つことはあきらめたのか、這ったままの姿勢で僕の足首を掴んできた。
すごい握力だ。
振り向きざまに、手に持った灯油のポリタンクを遠心力でぶつける。
頭にクリーンヒットしたようで、男は奥側に突っ伏すようにして倒れた。
胸元から何かが勢いで飛んでいき、軽い音を立てる。
メガネのようなものに見えたが、僕のものではなかった。
勢いを殺さず、納屋の外へ出る。
つるはしを拾い上げると、柄から金属部分がすっぽ抜けた。
仕方なく放り捨てて走り出す。
生い茂る森の間に開いた獣道をひたすらに進み続ける。
細かな枝を叩きながら走り抜けると開けた場所に出た。
ここまできてようやく、自分が灯油タンクの柄を握りしめたままでいることに気が付いた。
中身が減ったそれを、床へいったん置き、天面へと座る。
よく見れば、あたりの地面が踏み固められていることがわかる。
ようやく、人の往来がある道まで来ることができた。
草原に伸びる二本の線が続く先を見れば、丘への道と街への道。
普段の何気ないときに来れば、さぞ気分のいいハイキングコースだろう。
ああ、僕は日常の平穏に戻りたいと切望している。
だが、平穏とは自分をだまして過ごす停止の日々ではない。
見たくないものを見ないでいるだけでは、日常の方から離れられてしまう。
世間も人も、日々少しずつ変化しているのだ。
その中では変化を受け入れ、変化に受け入れられたものにしか平穏は得られないと実感した。
受動ではなく能動的に、変化を生み出してやる。
すなわち、狂気の世界に身を浸すこと、狂気に抗うもう一つの狂気を信じること。
先輩を信じる。
先輩は、自ら望んでこんなことをするような人ではない。
身勝手な使命感やおせっかいな正義感のように聞こえるだろう。
だが、底知れぬ気力の炎は、撤退の道をすでに焼き落とした。
是非よりも前に動機があった。好悪があった。
進むしかない、進み続けるしかない。
今でも彼女は、あの夢の暗闇にいる。
決意を胸に丘を見上げると、何やら人影のようなものが立っている。
近づいてみれば、金属片とワイヤーで作られた案山子だ。
腹部には、小型のブラウン管テレビが刺さっている。
こんなものでも、夜に見れば何か恐ろしいものに勘違いするのだろうか。
そう思いながらあたりを見回した。
ここは頂上だ、両方の麓が一望できる。
もう一度、自分が歩いて来た方角を目で追ってみる。踏み鳴らされた白い線が、草原の緑の中で街まで続く道を形成していた。
思いもよらず、郷愁に似た思いが胸へと込み上げる。
だが、こちらは正解じゃない。
平穏な日常へと戻る選択と、彼女を救う選択は奇しくも道を同じくしている。
僕は、街とは逆側を向いた、麓に建物が見える。
あれは、夢で見た建物だ。
夢に見た、あの父娘の温かさを思い出した。
ある科学者から始まった狂気の連鎖を、この僕が最後の狂気をもって終わらせなければならない。
灯油タンクに足を取られそうになりながら、丘を駆け下りる。
丘の麓、なだらかな平地にたどり着くと、空気の匂いが変わった。
研究所までの道のりには、金網フェンスがいくつも立てられてれている。
「ATTENNTION!! HIGH VOLTAGE!!」
僕は金網の前に立てられた警告文を読み上げ、警備装置の厳重さに気が付いた。
作動しているかは分からないが、触らない方が賢明だろう。
田舎の交流センターでもなければ、鍵もなしに入れるはずがない。まして、フレンドリーな施設でないことは明白だ。
途方に暮れていると、近くの金網の根元に穴が開いていることに気が付いた。
穴のそばには、何らかの動物の骨。大きさから猪のように見える。
穴を掘ったはいいが、くぐる際に触れてしまったのだろうか?
少なくとも、ここに侵入しようとしたのは僕だけではなかったらしい。
先達の動物と同じように地面を掘り返し、何とか潜り抜ける。
墓穴は深く掘るのが基本だ。
研究所は近くで見ると大きく見えるが、正面の入り口は一つだ。
灯油タンクを抱え、エントランスへとひた走る。
これが国家施設なら、僕はテロリストだ。気休めにもならないが顔を隠す。
エントランスゲートの前にセンサーが設置されているが、作動ランプがついていない。
それどころか、ドアが半開きになっているうえ、明かりも灯っていない。
さながら廃墟の様相に多少の困惑を覚えるが、都合がいいことは確かだ。
片っ端から部屋のドアを開いてゆく。
夢の中で見覚えがあったのは、大きな部屋だった。入れば一目で分かるはずだ。
一通りすべての部屋を調べ、残る扉は最後の一枚。
勢いよく、突き当りの部屋に飛び込んだ。
ライトのスイッチを押すが、電気は通っていない。
様々な機材が並ぶ部屋の中央には、直径10メートル径のレーダー状型の機械が鎮座していた。
「ようやくたどり着いた、狂気の発信源に」
言い終わるよりも早く、僕はレーダーの基部にあった金属の蓋を取り外す。
手早くハッチを開き、むき出しの配線を引っ張り出し、マッチで火をかけた。
燃えていることを確認すると、コンソールの上から油を垂らし、火の勢いを強める。
湧き立つオレンジ色の炎が、金属の上下で踊る。
終わった、これで終わったんだ。
「残念ながら、そのマシンはスペアだよ。運が悪かったね」
後ろから声が聞こえたと思うと、何かが後頭部にぶつかった。
眼球と脳が前に飛んだような錯覚と歪みゆく景色。体は転倒し、磁石のように地面へと貼りついて動かない。
そして、一瞬だけ目の前を埋め尽くした炎は、横あいからの白い煙に隠され、消沈した。
目の前がぼやける。人影はうっすらとしか見えない。
「本物はここだよ」
声の主が排煙装置の中の紐を引くと、天井の一部がスライドして梯子のようなものが下りてきた。
もっと考えるべきだった。
ここは電気の通っていない部屋だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます