第8話 光陰
先輩を送るため、暗闇に染まった夜道を進む。
ぽつりぽつりと立てられた白い街灯が、街路に闇よりも暗い影を作り出す。
前にも後ろにも誰もいない。家を出た瞬間から警戒を続けているが、誰とも出会うことがない。
それでも、黒枠の内側に何者かが佇んでいるようで、身構えてしまう。
いま、平静に振舞えているのは、先輩の存在が大きい。
道路に二つ並んだ影法師をみると、なんとなく穏やかな気分になった。
「光が当たらなければ、どんな色でも漆黒でしかない。どれだけきれいに整えても、照らす光がなければ見る人もいないんだよ」
「そうですね、暗いとどんなものでも違う形に見えてしまいますね、もったいないです」
「妖怪の類は、そうして生まれたのかもしれないね」
「先輩も怖いんですか?」
「ああ、怖いよ。見えないモノは気づかないうちにどんどん大きくなる。一人でいると特にね」
「一人にはさせませんよ」
「言うじゃないか。でも、君自身が震えてたら説得力がないね。それじゃ、一人にしないでくれ、と言ってるようなものだよ?」
そうして、とりとめもない話をしながら二人で歩いていると、先輩の住む一軒家の門扉にたどり着いてしまった。
一見すると城のようにも見える、この洋風の建物が先輩の家だということは前から知っていた。
我が家から徒歩10分ほど、間には公園以外には目新しいものもない。
僕は下を向いてから、後ろを振り返った。
自分の作る影と、街灯の届かぬ闇に何の違いがあるのだろうか。
帰るべき道に、先輩の影はもういないのだ。
「手を出してみて」
「こうですか?」
手の甲を上にして出してみる。
「行きはよいよい、帰りはなんとやらだ。君も気を付けるんだよ」
先輩は上から合わせるようにしてタッチする。
「ふふ、これじゃ、ハイファイブでもハイタッチでもないね。でも、珍しいということは特別ということかな?」
その後姿は、門の向こう側へと消える。
「また会えるといいね」
そして、かすかな微笑みと、何かを訴えかけるような視線だけを残して、彼女はドアを閉めてしまった。
「先輩だけですよ、こんな風になってから人の温かさを感じられたのは」
僕のつぶやきが彼女に届いたかは分からない。
暗闇のなかで豪奢な建物の前に佇むと、いつも以上の孤独感を感じる。
夜の闇に感じる恐怖は、想像の中の魔物に実体感を与えた。
夏の風は何者かの息遣いに、虫の音は金属の擦れあう音に。
熱帯夜の肌に、どこからともなく殺意が染み込んでくる。
それでも歩いていかなきゃいけない。
たとえ、アスファルトで塗り固められた地獄への道だとしても。
いつまでも立ち止まってはいられない、ゆっくりと進み始める。
曲がり角が来るたびに、警戒しながら歩く。
だが、そのたびに肩透かしを食らう。どの街路にも、誰の姿も見受けられない。
それどころか、生活の気配すら乏しい。
どこか遠くでパトカーのサイレンが聞こえる。
しかし風向きの影響か、サイレンの間を縫うように争うような声も届いてくる。
公園の前までたどり着くと、住まいであるボロアパートが小さく見えてきた。
園内は、昼間の奇妙な光景の全てが夢だったかのように静まり返っている。
そうしていると、昼間の子供たちが黒い形を帯びて再度追いすがる幻影が浮かんでしまった。
思い出すべきではなかった。
考えるよりも先に鳥肌が立つ。
……!?
後ろから物音が聞こえたような気がする。
だが、後ろを振り向くことができない。
それだけはどうしてもできない。
足を手で打つと、昼間とはうってかわって、すぐに走りだすことができた。
10m、20m……、運動部でもない自分が、こんなにも走ることに命懸けとは皮肉でしかない。
アパートの入り口へと駆け込み、階段を駆け上がる。
自室の施錠を解き、部屋に飛び込んだ。
そのまま服も脱がずに、シャワーへと身をさらす。
そして、脳裏の奇妙な魔物と戦うように、幻想を打ち消すように叫んだ。
誰も聞く者はいない。
しかし、どこかにいる真の怪物に向かっての覚悟のウォークライだった。
濡れた服を洗濯機に放り込む。飛沫が飛び散る音が響き渡る。
孤独と恐怖を混ぜ合わせて、床にまいたような音だった。
テープで補強された玄関ドアを見つめる。
不安は山積みだ。
念のため、外を歩けるような服を着ておく。
どうしても、ベッドでは眠る気になれない。
フローリングへと転がり、天井を見上げる。
少し位置が変わるだけで、見えるものが違ってくる。
小さな発見を胸にしまい込み、目を閉じた。
どうせすぐに忘れてしまうだろう。
しばらくして思い浮かぶのは深雲先輩だった。
時折、彼女が恐ろしい存在に見えてしまうときがある。
幻を愛しているから、ときどき見える真実が恐ろしいのか。
それとも、真実の彼女への恋慕を嘘で打ち壊されるのが怖いのか。
どちらが本当の彼女なんだろう。
確かなことは、僕が思い出す彼女は常に"青色"の瞳をしていることだ。
あの美しい瞳の光は、常に心の中にある。
嘘でも幻でも、コンタクトレンズの反射光だとしても、僕にとっての彼女は、青色であることに変わりない。
人間の知覚において、視野の占める割合は大きい。
だからこそ彼女の青が、これほど鮮烈に記憶として残っているとも言える。
だが、人間の脳は、日々膨大な情報を取捨選択している。
エラーと消去、エラーと消去。
昨日見た街、今日見た街、明日見る町。
目新しさのない無駄な記憶ばかりが積み重なり、不要な部分が消されていく。
それを繰り返していたら、いつか何かの拍子で大事な思い出さえも忘れてしまうのだろうか?
彼女が青色の瞳で僕の前に現れたことでさえ、忘れてしまうのかもしれない。
同時にそれは、僕自身の存在が彼女の記憶から消える可能性も示唆している。
すでに忘れられてしまっているかもしれない。
自分の想像に悲しさを感じつつも、同時に仕方がないとも思ってしまう。
過去の思い出が鮮明すぎたなら、生きることも死ぬこともつらすぎる。
そんなことを思いながら、眠りに落ちた。
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