第6話 荒天


 カコーン


 音が聞こえる。


 コーン……コーン


 形容するなら、重い金属が床にぶつかるような音。


 どこから聞こえている?


 もたれていたドアから体勢を起こし、耳を澄ませる。


 カッ……


 どうやらドアの向こう側、外から聞こえているらしい。


 音が途絶えた。


 長く続く静寂。


 音のない時間は、かすかに何かがこすれる不協和音で破られた。


 それを数十秒ほど聞いていたが、恐ろしい事実に気が付いた。


 思っていたよりも近い……!


 驚きから耳をドアから離すと、破裂せんばかりの金属音がそこから響いた。


 二度、三度、四度と鐘のように鳴り響く。


 残響の残る耳をさすった。何が起こったのか分からない。


 音の方向を見ると、緑色のドア板の真ん中から、銀色の金属プレートが垂直に飛び出している。


 なんだ、これは?


 飛び出したプレートの表面をよく観察すると、根元が太い三日月形をしていた。


 薄い部分があり、ドア板との隙間にから入る光がギラリと反射する。


 これは、刃物だ。と認識すると同時にそれは引っ込んだ。


 三日月形の穴から外の光が差しこむ。


 嫌な予感がする。


 僕はとっさに脇の壁に張り付いた。


 数瞬後には、また完全な暗闇になった。


 何かが室内をのぞき込んでいる。


 息をすれば気取られそうで、肺から空気が漏れださないよう気道を喉の筋肉で閉鎖する。


 今度は血管や心臓が震え始めた。酸素が頭に回らない。


 顔まで赤くなっているのだろうか、それとも恐怖で蒼白となっているかもしれない。


 無限にも等しい数十秒が終わり、影は引いていった。


 それでも、硬直したまま、立ち姿勢が解けない。


 ようやく息が整うと、明かりに手を伸ばす。


 LEDとは違うオレンジ色。


 眩いほどの光ではないが、やはり安心する。


 電池切れのスマホを取り出し、ケーブルへと接続する。


 その前に画面が点灯し、消えた。もうバッテリーの寿命か。


 テレビの方を見ると、こちらも呼応するように一瞬だけ点灯し、消えた。


 そうかと思えば、砂嵐のように耳障りなノイズが放たれる。


 街は気づかぬうちに変わってしまった。いつからおかしくなったのだろう。


 生まれ育った街の見せる奇怪な一面に寂しさを覚えるが、過去は虚像でしかない。


 日々移り変わる世界の中では、小さな変化など気づくきっかけもない。


 僕が高校卒業すると同時にこの町を離れてしまった両親。


 彼らは、僕よりも鮮明に変化を感じられるのだろうか。



 唐突な電子音。ドアベルが鳴った。


「うわっ、なんだ!? この穴は? ポストでも増設した? なかなか豪快なリフォームだね」


 室内を灰色のかわいらしい両目がのぞき込む。


 先ほどのドア破壊狂人が近くにいるかもしれない。


 女性を、深雲先輩をこんなところに立たせておくわけにはいかない。


 一も二もなくシリンダー錠に手を伸ばし、ふと疑念がよぎる。


 あなたは誰だ? 本当に先輩なのか?


 何故、家を知っている? 先輩を家に呼んだことはない。



「今はちょっと手が離せなくて、何か御用ですか? でも、よく家が分かりましたね」


 間抜けな質問をしてしまう。声が震えてしまった。


「カレーを作りに来たんだよ、君が見ていたスパイスを買い込んでね。あと、公園の裏にアパートはこの一軒だけ、2階の角部屋なことは前に聞いた。以上だよ」


 大変申し訳ないが、そんな約束はしていない。


 彼女はドアを開けようとしたが、カギはかかったままだ。


「チャットを送ったはずだけど、見てなかった?」


 あいにく携帯は充電中だった。


「開けてくれないかな? 腕がプルプルしてきたよ。カレーの具材って案外重いんだね」


 重たい? 本当にそうか? 


 得物はつるはし? それとも斧? 


 もしもそうなら、開けた瞬間に僕の脳天は、哀れなドアのように穴あき(ブランク)になってしまうのでは?


 こんなところで、先輩への好意と生存本能とを天秤にかけなければならないとは、思わなかった。


 こういう時は後悔しない選択をするべきだ。それも1分以内に。


 落ち着け、選択肢とパターンを考えろ。


 第一に、先輩を信じない選択。


 さっきの異常者と同一人物だったパターン。


 家に入れなければ、脳天かち割りは避けられるかもしれない。


 ここ数日の街の様子は明らかにおかしい。今日は特にそうだ。


 だからこの危惧も杞憂だとは思わない。 


 僕は今日、生き残ることができる。


 だが、いつ終わるかわからないハンティングの的になり、おびえ続けることになるかもしれない。


 異常者と別人だったパターン。


 迷わず部屋に入れなければ惨劇が起こる。


 そして僕は、一生消えない罪と後悔を抱えて生きていくことになる。


 最悪だ。


 第二に、先輩を信じる選択。


 先輩の重い荷物が人体を破壊しうる工具だったパターン。


 僕の人生は今日で終わり。


 いや、抵抗してもいいけれど、たぶん僕は何も手出しできない。


 こんな狂った世界で生き続けるくらいなら、最期に先輩の顔を見て逝くのも悪くはないかな。


 先輩が言葉通り、カレーを作りに来てくれていたパターン。


 彼女の言う通り、本場風のカレーライスを一緒に作って、楽しいひと時を送ることができる。


 そして先輩と夕飯だ、美味しいに決まってる。グリーンかキーマかタイかインドか分からないけれど。


 それが最高だ。


 なんだ、答えは最初から出ていたじゃないか。


 どうせなら僕は後悔しない方を選びたい。


 後悔したくないから先輩を信じる。それでいいはずだ。


 ドアを開放し、彼女の手を取り素早く中へと引き込む。シリンダーの鍵をかける。



 外廊下に人影はない。



 両手に持ったビニールを確認する。


 第一にジャガイモと玉ねぎが目に入ってきた。


 そして、その他のスパイスの瓶、とパックの肉が6段。


 何故、僕は疑ってしまったんだろう。


 そんなことが起こる筈がないのに。



「やけに怯えているじゃないか、ひょっとして私に襲われるとでも思った?」


 先輩は一瞬だけ舌を出し、僕の腹を刺す仕草をした。


 玄関先の狭いスペース、吐息の当たりそうな至近距離。僕は彼女の目を見つめながら問いかけた。



「ここに来るまで、誰かとすれ違いませんでした?」


「いや、誰にも会っていないよ」


「よかった、実はさっき……」


 続きを言いかけて、途中で言いよどむ。


 これは言うべきことなのか? 心配はかけたくない。


「いえ、やっぱりなんでもないです」


「言いよどむなら言わないでくれ、続きが気になって仕方がない」


「まあ、あとでお話ししますよ。それより今はおなかが空いちゃいまして」


「そうか、じゃあ上がらせてもらうよ」


 先輩は手早く手を洗い、シンク下のスペースをのぞき込む。


 そして、雑多な調理器具の中から鍋を見つけ出した。


「使えそうな鍋はあるね、まるで新品だ」


 それはそうだ、僕はこの鍋を一度も使っていない。


「そう見えますか?」


「埃の汚れしか無いからね」


 鍋底をひっくり返して見せられた。


 灰色の綿埃が、ゆっくりと舞う。


「洗えば使えますよ」


「そうだろうね、さっさと支度をしようか」


「何から始めるんですか? 」


「今日はもう遅いから、本格的なヤツはまた今度だね」


 言われてから、時計を全く見ていなかったことに気が付いた。


 見ると既に午後9時を過ぎている。


「こうなると思って市販のルウを買ってきたよ」



 言いながら先輩はビニールから具材をボウルに取り出し、すでに洗いに入っている。あまりにも手際がいい。



「あ、そうだ。私のスマホの電池が切れたから充電させてくれない? タイマー機能を使おうと思ったのだけど……」


「大丈夫ですよ、僕のがありますから。一応充電はしておきますね」


 先輩が頭を下げ、その後に目線で示した先には、冷蔵庫。


 そう、飲み物と冷凍食品を冷やすことに定評のある一人暮らし用の冷蔵庫があった。


 いや、正確にはその上だ。灰色のスマートフォン、大理石模様のケースのせいで分からなかった。


 保護色というやつだ。


 部屋へと移動し、空いているケーブルを見つけ、接続する。


 瞬きの間に見たことのないマークが出た気がしたが、気に留める前に共通規格のOSが立ち上がった。


 上手く充電できているみたいだ。


 確認すると、僕は充電済みの自分のスマホを取り。


「あれ?」


 普段は電波が通る家の中が、圏外となっている。こんなことってあるのか?


 部屋の中、あちこちを移動するが状況は変わらない。


 思案していると香ばしい音と匂いが漂ってきた。


 コンロの方を見ると、切り終わった具材がすでに鍋底で炒められている。


 やはり手際がいい……。せめて片付けようとビニール袋を見ると、玉ねぎと人参は健在であった。


 あれ? ひょっとして、初めから切ったの用意してました?


 やけにパックが多いと思ってた。


 あれ別に全部肉じゃなかったんだな。


 先輩に疑問の目線を向けると、すぐに意図を察したのか答えてくれた。 


「包丁がなかったり、錆びて使えない場合を考慮したんだよ」


 なるほど、なるほど……いや、さすがにありますよ! と言いたかった。


 でも、たしかに包丁を買いに行ったり、この場で研いだりする必要があったら、明らかに時間の無駄だ。


 リスクを考えてのことだろう、包丁一つ手入れしてない男だと思われている事実に涙ぐみそうになる。

 いや、きっと玉ねぎを切ったせいだろう。


 切ってないんだった。


 鍋で炒められる具材の山に、一瞬だけ黄色い果物のようなものが見えた気がした。


「今の黄色い具材って……」


「それは秘密だよ、隠し味は舌で見つけるのが醍醐味じゃない?」


 そういうと手早く鍋に水を投入し、蓋をされてしまった。


 確かに無粋だったかもしれない。


「煮込んで21分だ、早くも遅くもないようにね」


「半端ですけど、これでいいんですか?」


 21分でタイマーをセットし、先輩に見せる。


「よし、次の21分は君の仕事だよ。鍋を看ていてくれ」



「わかりました」


 僕は首肯し、鍋の前へと移動する。


「私は常に時間を意識して生きているが、最近の君は昼か夜しか時計の目盛りがない生活だろう?」


「まあ、確かにそうですけど」


 痛いところを突かれた。深夜に寝て、昼間に起きる生活は筒抜けのようだ。


「だから、そんな不肖の後輩と時間感覚を共有しておこうと思ってね。」


「時間感覚ですか」


「この21分は私が待たされた時間だよ。ヒントは、カウントを開始したのは玄関についてから」 


 玄関の方を見やってから、僕は口を開いた。


「もしかして、ドアの話ですか……?」


「よく気が付いたね、もう少し時間がかかると思ったよ。待たされた分、意地悪してやろうと思ったけど21分もかからなかったね」


「すみません、色々と追いついてなくて」


「それで、何があったのかな? 家賃を払う身でありながら、ドアをシースルーに魔改造するような奇才でないことは分かっている」


「壊されたんですよ、ついさっき。何かしらの金属の工具で」


「そんなことが、こんな場所で? 私を……なんでもない」


 先輩には何かしら思うことがあったらしいが、その胸の内までは読み取れない。


 今の間は一体なにが原因だ? 冷静に考えろ、推察するんだ。


 まず僕の答えで、危険な場所で待たせていた事実は伝わってしまった。


 本当は、最後まで伏せておくか、彼女を安全に帰した後が良かったが仕方がない。


 言いかけていた「私を……」までは、その抗議かもしれない。


 しかし、彼女は言いかけてやめるタイプではない。


 それでも撤回したのは、恐らくそれ以上に優先して聞きたいことがあるからで、今回の僕の最大の落ち度は……。


「君は、私を疑っていたな?」


 空気が凍り付いた。


 具材を煮る音だけが空間に反響する。


 後悔しないために賢い選択をしたつもりだったが、最善ではなかったみたいだ。


 沈黙が答えになりえるように、間が残酷な答えを紡ぎ出してしまった。


 そして、それは今も同じだ。


「まあ、いいか。最終的には開けてくれた事だし、信用してくれたってことでいいかな?」


「ええ、もちろんです」


「それはそれとして、君の家が明らかに妙な様子と気付いたとき、私が回れ右をして帰らなかった理由を述べよ」


 彼女が僕の家のドア前にいる場面を想像する。金属ドアの真ん中、腰くらいの高さにヨコ20センチ弱の穴が開いている。


 何かが起こったと察するだろう。


 それでも、声をかけた理由。それは恐らく僕と同じで。


「心配してくれたからですか?」


「君は問いかけをされると、簡単に答えにたどり着くな。こっちは楽でいいけれど」


 先輩は言い終わると胸をなでおろした。


「でも、なんにせよ君が殺されていなくてよかったよ。あの穴の位置なら簡単にドアを開錠できるだろう?」


 言われて気が付いた。確かにそのとおりだ。


「穴がある限り、カギは意味がない。つまり、犯人はいつでも君を殺せるってことだよ、今からでも塞いだ方がいい」


 急いで洗面所の戸棚からガムテープを取り出し、穴を塞ぐ。


「気休めにはなりますかね?」



「強いて言うなら覗かれないこと、覗かれたら形跡が残ること。これくらいかな? メリットは」


 先輩はひしゃげたドアの欠片を折り曲げ、二重に貼り付けたガムテープに挟み込んだ。

 加えてタテヨコ斜めに大きくテープを貼りつけて補強する。

 そこまでしてくれている後ろ姿を見て、ある疑問が生まれた。


「いくらボロアパートでも金属のドアに穴をあけるなんて、一回で可能なんでしょうか?」


「一回であけたとは限らないよ、何か月も時間をかけて腐食させて、ペンキで誤魔化してたのかもしれない」


 一気に血の気が引いた。


「そう考えると、犯人は意外と近くにいるのかもしれないね。君の行動を予測できる人、在室か不在が分かること」


 僕は思い出した。


 アパートの廊下を通るときに感じた視線、覗き穴の奥に犯人の目を想像し、竦みあがる。

 まだ安全じゃない。そうだ、犯人がいる限りは安全じゃない。



「何故だ、なんでこんな目に遭うんだ。最近はおかしなことばかりだ。街もおかしければ、人もおかしい」


「どういうことかな? 説明してみてほしい」


 この数日間に僕が感じた奇妙な現象や違和感など、街の人の様子などを仔細に伝える。

 先輩は頷いたり、ところどころメモを取ったりしながら聞いてくれていたが。


「でもさ、本当に周りの全員がおかしくなっているとしたら、君は正常といえるのかな?」


「どういうことですか?」


「君以外には、青いパプリカもおかしく見えないんだ。逆に君の外見も、周りから見たら珍奇な色に変わっているかもしれないだろう?」


 その可能性は考えたくなかった。それは自らを疑うということだ、苦しいに決まっている。


 しかし、一度考え始めると止めることができない。


 自分の肉体という唯一不変の存在までが変わってしまったようで前後不覚に陥り始める。


 いてもたってもいられず、先輩に質問を投げかけてしまう。


「先輩から見て、僕はおかしいですか?」


「無意味だと言ったはずだけどな、そういう質問は。おかしさなんて個人の偏見の最たるものじゃないか」


「他者は自己を知る鏡といいますよ」


「じゃあ、私のことは君からおかしく見えるかい? どう? この質問の残酷さに気が付いたかな」


 そんなことを聞かれても、悪い回答ができるはずがない。


 と、そこまで思い至ってようやく僕は反省を始めた。



「そうですね、この質問で得られるものは、相手が優しさと正直さのどちらに重きを置くかで変わりますね」


「嘘と意地悪でも変わるよ、自分に対する主観の意見は。だから、話半分で聞くのがちょうどいいんだ」


 改めて彼女の瞳を見つめ直す。灰色をしている。

 彼女は変わってしまった、いや、変わったのは僕の方なのか?


 ここで目の色について聞いても、答えてくれない気がする。


 だが、聞かなければならない気もする……。



 悩んでいると、唐突な電子音が割り込んでくる。


 設定していたタイマーが鳴った。


「そろそろ入れてもよさそうだね」



 先輩は、横合いからルウを投入した。

 ゆっくりと鍋の中の色が変わっていく。



「これで、もう鍋の中に何があるかわからなくなってしまったね。そろそろ完成は近いよ」


「皿を出しますよ」


 皿を戸棚から用意する。と同時に問いかける。


「先輩って、前からコンタクトレンズでしたっけ?」


 理由は分からないが、ここで問いかけないと二度と聞けない気がした。


 米は買っていないので、インスタントのパッケージをレンジに入れた。


 ただ待つだけの時間は、まるで永久のように感じる。


 温めのスイッチを押すと、目の前を温かい光が包み込む。


 白飯のパッケージが、くるくるとレンジの中で回り続けている。


 鍋の方を見れば、ただ湯気が立ち上るだけ。 


 同じように、ただ待つだけの後姿がそこにあった。


 ただ、待ち続ける。


 ただ、返答を。


 レンジが音を立てて鳴いた。



 ……。


 ……………。


 ……耐えられない。



「今日って何曜日でしたっけ?」


「金曜日じゃない? 13日の」


「いまそれは縁起でもないですよ」


 ふたりして笑った。


 氷が解けたように緊張がほぐれる。


 大丈夫だ。


「弱虫」


 先輩がなにかつぶやいた気がした。

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