第4話 霧雨

 最後に深雲みくも先輩と喫茶店で話してから2週間が経った。


 夏休みも中盤になり家を出る理由がなくなれば、いよいよ部屋に引きこもり続ける自堕落の体現者となっていた。


 そんなある日のこと。

 僕は不可解な事実に気付いてしまった。


 僕、霧島きりしまかいは麻薬中毒でも、昼から酔い潰れるアル中でもない。

 それでも、自分自身の認知を疑わざるをえない疑問が唐突に降りかかったのだ。


 ある日突然に、パプリカは青いもの、ということになっていた。


 この事実に気づいた原因は、ネット上のパプリカの画像が突然青色に差し替わったからである。


 緑色を青というお決まりのアレじゃないぞ、言い換えればBLUEであり、#0000FFみたいな色だ。

 奇しくも先輩の警句に等しい、青いパプリカが体現してしまったのか?


 驚いたことにネットのどの記事を見ても、赤や黄色のパプリカなど存在しないことになっていた。


 はじめに疑ったのは、サイバー攻撃やネット民の悪ふざけだ。

 さぞ大きな祭り状態になっているだろうと、掲示板やまとめサイトを見て回った。


 しかし、そんな気配は微塵もない。スレッドには、いつも通りのくだらない書き込みがあふれていて、パプリカのパの字も見当たらない。


 次に、パプリカの定義が変わったのかと疑った。

 だが、大真面目にネットで記事を探し回るうちに、その考えの甘さを実感した。

 どうやら定義の問題ではないらしい。本当に青色だそうだ。


 僕はたまらず現物を確認したくなり、スーパーや八百屋、果ては市場にまで飛び込んだ。


 ところが、どの野菜売り場に並ぶパプリカも、僕の目には以前と変わらず赤や黄色に見えた。


 混乱した僕は、職員や売り場担当を捕まえると同じ質問を繰り返した。


「青いパプリカはどこにありますか?」


 しかし、返ってくる言葉も同じものばかりだ。


「お気に召しませんでしたか? でも、このパプリカも十分きれいじゃないですか。ほら、この棚の商品は特にきれいな青色で……」


 青色の美しさと美味しさ、新鮮さについて熱弁される。


 しかし、悲しいことに彼らが指差す青色パプリカは、僕にはいつも通り黄色や赤に見えるのだ。


 今日も隣町まで野菜売り場を検めに行った帰り道、自宅から最も近いスーパーに立ち寄ると、野菜コーナーで肩を落とす。いつも通りだ、黄色のパプリカが見える。


 みんなはそう見えないんだろう?


 わけが分からない。

 僕の頭がおかしくなったのか?


 僕は青色のパプリカを見逃してしまうらしい、理由は分からないが"僕だけが"見えていないのだ。



 混乱しながら、売り場をあてどなく彷徨う。

 いつしか客層は、夕飯前の食材を買い込む家族連れが多くなっていた。

 多くの客が品物を吟味し、レジへと連なる流れを形成している。


 午後6時のスーパーに大学生風の男がたむろしていることがそんなに珍しいのだろうか、こちらに注目してくる客が多い。特に子供などは、笑顔で親子水入らずの会話を楽しんでいても、僕の顔を見るなり無表情に視線をぶつけてくる。


 僕の何がおかしいっていうんだ。


 親子連れのカートをよけて人の少ないエリアを探すと、カレースパイス棚の前に落ち着いた。


 買う必要のない香辛料を眺めながら、青いパプリカとどう折り合いをつけるか思案する。


「あれ?」


 唐突に横から声をかけられた。


「今晩はカレーかな? 君が自炊するなんて知らなかったよ」


 スパイス棚から10歩ほどの場所に、声の主は立っていた。


「君は平日のスーパーで、なんて顔をしているんだ」


 僕が一番会いたかった人、深雲先輩の声だ。


 照明の逆光と柱の陰で暗く、顔はよく見えない。


 それでも、見慣れたシルエットには自然な笑顔が見えた気がした。



 意気揚々と近づいて……いつもと様子が違う気がする。


 いや、分かっている。そうかもしれないと、心のどこかでは思っていた。


 先輩の瞳の色が、灰色だ。


 なんてことだろう。


 あの美しい唯一の青色が、輝かんばかりの瞳の閃光が失われた。


 現実を受け止めきれない。


「あ、待って!! 霧島君!!」


 気が付くと背中にかけられた声には何も答えずに、逃げるようにその場を去っていた。


 小雨の降る灰色の町を、薄目を開けて走る。

 周りの視線が目に入らないように。

 おかしいと笑われないように。



 パプリカの色は変わった。


 今では恐らく"青色"に見えていない方が少数派だ。



 そして、どういうわけか彼女の瞳の青色までもが消えてしまった。


 なんて残酷な事実だろう。


 僕の見てきた世界の全てが、平穏のうちに死んだのだ。


 いや、本当は気づこうとしなかっただけで、平穏な日々はとっくに死んでいた。


 僕は目を細めて、都合のいい事実以外は目に入らないようにしていた。


 思い込みを真理だと錯覚していた。

 だから、まだ他にも僕は見落としている筈だ。

 早くに気づいておくべきだった、決定的な事実を。


 これは恐らく、まだ始まりに過ぎない。


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