第3話 時化

 俺、蒲田拓冶は浪人生だ。


 もちろん、好き好んでやってるわけじゃない。

 生まれ育った地元の大学から門前払いを喰らわなければ、再トライなどしなかった。 


 受験勉強に飽きて夜食を買いに、スーパーへ向かった帰り道。

 俺は買ったばかりの買い物袋も捨てて走り出していた。


 人が人でなくなる瞬間を目撃してしまったのだ、逃げ出さずにはいられなかった。


 あまりに奇妙でおぞましい光景だった。平穏な晩夏の夜のスーパーが、狂気のるつぼと化した瞬間だ。


 ハムやベーコンが陳列された棚を見ていたとき、店内に設置されたあらゆるモニターが突然に、青く光り出した。

 いわゆるブルースクリーン状態の青とは違う。真っ青だ、市販のモニターがこれほどに強い光を発せられるものなのか。


 その青い光を直視した者はすべて、仕事帰りのサラリーマンだろうが、だろうが、光を見つめた姿勢ののまま、案山子のように立ち尽くしていた。


 恐らく、売り場にいたすべての人が光を浴びたと思う。


 自分も同じように(周りからは同じように見えただろうが)突っ立ったまま途方に暮れていると。今度は、あらゆるスピーカーから頭が割れんばかりのノイズが放たれた。


 モニターを見つめる姿勢のまま、直立を続けていた人々。そいつらが突然、店員も客も訳が分からぬ様で互いに喧嘩を始めた。


 いや、喧嘩なんてもんじゃない、この気迫は……殺意だった。

 狂気がこちらに向く前に、逃げなければ!


 その思いが漏れ出てしまったのか、10人超のぎょろりと見開いた目がこちらを向いた。瞬間、脱兎のごとく走り出した。

自動ドアをくぐり、そばにあったカートで道を塞ぎ、道路まで駆ける。

背後で開こうとする自動ドアからガシャガシャと異音が放たれる。


 息を切らしながら、漆黒で埋まる夜の山道を駆け上る。かき分けた枝や葉で作った擦り傷や切り傷に汗が染みる。

 だが、止まることも明かりを灯すこともできない。

 恐怖と生存本能を四肢に漲らせ、一心に大地を掴み踏みしめ、上り続ける。


 小高い丘を一つ越えたころには、街の青い光はもう届かなくなっていた。


 随分と長い距離を逃げてきたはずだ。

 空を見上げれば、銀色の星明かり以外、網膜には映らない。


 皮肉なことだ。飽きるほど眺めた白い天井の向こう側には、これほど美しい光が広がっていたのに。


 しかし、どれだけ走っても、あの気分の悪くなるノイズは追いついてくる。


 もう走れない、大きなクヌギの樹に寄りかかり、しばし息を整える。


 そう長くは、休めない。


 呼吸が穏やかになると、森の葉擦れさえもあの雑音に聞こえるようで頭がおかしくなりそうだ。


 座るな、いま座り込めば立ち上がれなくなる。 


 今すぐに耳を塞いでしまいたい。


 だが、耳を塞げば追われる足音に気づけない。


 苦労して丘の頂を望む。フードをかぶった人影がこちらを見下ろしている。


 動きに注視し、身構えるが身じろぎすらしない。


 よく見ると頭には、アンテナのようなものが刺さっている。


 廃材でできた案山子か……。


 近づいて、フードをはがす。


 案山子と見受けられたそれは、頭には矢印状のアンテナ、目にはカメラレンズ、耳にはスピーカー、口からは電源プラグが飛び出している。


 そして、胴体にブラウン管の小型テレビが埋まっている。当然ながら、画面に電源は入っていない。


 カラス除けにしちゃ豪華だな。


 騙された腹いせに、軽く肩を押し込んだ。ミシリ、と嫌な音を立てて 人差し指がめり込む感覚に、生理的嫌悪感が警鐘を鳴らす。


 なんだこの感触は、ありえないだろう。


 いや……人だ、人体だ。人、いや、恐らく数日前まで人だったものだ。


 しかし、この肉体への損壊、冒涜は常軌を逸している。 


 狂気的だ。 


 安心と警戒の急激な切り替わりに最も敏感だったのは、己の身体であった。


 意識するよりも早く、心臓は激しく暴れ始める。


 肺も呼応するように、息を吸い込めないほど狼狽する。


 思い出すな、あれとは違う。フラッシュバックする記憶を振り払おうとするが、焼き付いた光景は脳裏から消えてくれない。


 照明の代わりに天井からぶら下がった父親の……。


 「ァ_____」


 両腕で体を抑え、かろうじて息を整える。


 俺は、ああはならない、へまは打たない。肉体が鎮まるにつれて、冷静さを取り戻しつつあった。 


 自然物以外は見当たらないこの森に、突如として現れた死体のオブジェ。


 狂気の波は、街中だけではない。ほとんど人の立ち入らない森林にまで及んでいる。


 不安が駆け抜けた背筋に、9月の気温が妙に肌寒い。


 これが作られたのは、いつだ? 悪趣味な作成者が今もすぐ近くにいるかもしれない。



 動けない、夜闇が怖い。

 振り向けない、沈黙が怖い。


 原始的な恐怖心と臆病な想像力は、闇のスクリーンに存在しない怪物を映し出す。

 耳元では、血液と心拍の音に混じって、けたたましい雑音が聞こえる。


 また、あのノイズだ。


 逃げるよりも先に、休みたいと思った。


 精神を削られ続け、肉体を酷使して疲れ切っていた。


 もはや恐怖に震えるくらいならば、いっそのこと、自分も狂った方がマシだと考え始めていた。


 観念して無名のオブジェを背もたれに座り込む。


 人の死体だとか、命の冒涜への怒りだとか、そんな感情はどこかへ消えてしまった。


 だんだんとノイズが心地よく聞こえてきた。


 眠る草木の声なき声が、雑音に交じって耳に届いた気がした。


 目を閉じて眠ってしまおう。こんな目に遭ったんだ、だれも責めたりしないさ。


 瞼のカーテンで世界を閉ざしてしまおう。


 俺は、堪える間もなく眠りに落ちた。


 10分か、あるいは1時間だったかもしれない一瞬が過ぎ、俺は違和感を感じた。


 瞼が青い。目を開くと、飛び込んでくる青と青。


「見えるものが、すべて青い」


 聞こえた声は、自分の口から発せられていた。


 青い光はすべて、頭の後ろの死体のブラウン管から放たれていた。 


 電源が入る筈がない。どうして?


 寝起きには眩しくも鮮烈な青を浴びる。


 町中の青一色のモニターとは異なり、そこには文字列が表示されていた。


『あおをしらぬひと かなしきひと』


「きみには、青色が見えているか?」


 急に後ろから声をかけられた。男の声だ。


 恐怖に全身が総毛立つ。


 注意を怠ってしまった、あれだけ気を付けていたはずなのに。


 こんな夜の森に理由もなく来る奴は、そう多くはない。


 悪趣味な異常者か、狂った町中の奴らに追いつかれたか。


 警戒しつつも、慎重に問いに答えた。


「見えてるよ、何もかもが青色だ」


「そうか、きみも青を知らないのか」


 残念そうにつぶやくと、男は俺の目元を左手で隠すと、後ろ手から何かを繰り出した。

 視界が歪み、地面が消える。一瞬の浮遊感と痛み。


 柔らかい壁にたたきつけられた、こんなところに壁などなかったが。


 いや、壁と思ったのは地面だ、俺は天を仰ぎ倒れている。起き上がれない。


 俺が起き上がれないとわかると、男は死体の腹のブラウン管に向き直った。


 よく見るとその姿は服も体も傷だらけ、ところどころに赤黒い血が見える。



 死にたくない。


 せめて顔だけでも拝んでやる。


 俺の存在が生きた証を見せつけるんだ。


 烙印でもラベルでもない、死ぬ直前に満足できるような生きてきた証拠を。


 俺自身が満足できればいい。ひとつでもいい、冥土の土産なんて柄じゃないが。


 親父みたいに後悔を抱えたまま死んでいくのはごめんだ。



 芋虫のような挙動で土を集め、寝返りの円運動で投げつけた。


 ヤツの背中にかろうじて当たる。


 小さな衝撃に怠そうに振り向いた男は、フレームが曲がり、レンズが片方弾け飛んだ酷い眼鏡をしていた。


 蹴り飛ばされ、丘を転がり落ちる。


 街から逆側の斜面に突き落とされた事実に恐怖を感じた。


 崖があったら、一瞬で死ぬ。


 気が付きながらも止まれない。


 回転しながら、暗闇にオレンジの光線がチラチラと映りこむことに気が付いた。


 強引に体を折り曲げて何とかブレーキをかける。


 履き古したジーンズの内側にまで土が入り込んだ。


 見えないが恐らく太ももは傷だらけだろう。


 必死の減速の甲斐あって、回転落下はやや窪んだ斜面で収まった。


 悪態をつきながらのろのろと起き上がる。


 節々の痛みに耐えながら麓を見据えると、ちらりと見えたオレンジ色の正体に気が付いた。


 煌々と照らす光は、麓の建物から洩れる炎だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る