「あの…、大丈夫ですか?」

 女性の声で、僕は悪夢から目覚めた。

 ああ、そう言えば、僕は猫に襲われて…。

 頭が冴えた時、壁にもたれかかっていた僕は、ゆっくりと顔を上げ、玄関の方を見た。

 半開きになった扉から、お隣のOLさんがこちらを見ている。決してこちら側には入ってこない。ただただ、顔を半分のぞかせるだけ。

「あの、大丈夫ですか?」

 もう一度聞かれ、指先の感覚が蘇る。動き出そうとした時、右足に激痛が走った。

 思わず身を跳ねて、足首を掴む。

顔を顰めながら見ると、足裏にガラス片はザックリと突き刺さっていて、滲んだ血はすでに黒くなっていた。

「大丈夫ですか?」

 女性が言ったので、僕は慌てて頷いた。

「だ、大丈夫です。す、すみません、またご迷惑かけちゃいましたね…。その…、また空き巣が入っちゃって…。その片づけを…」

「は、はあ…」

 OLさんは納得していないように頷いた。

 足に宿る痛みなんてお構いなしで、僕はコメツキバッタのように頭を下げる。

「ほんとうに、すみません…」

その度に脳が揺れて、腹の底でゲロのカクテルが生成されるようだった。

「いや、別に、それはいいのですが…」

 OLさんは目を動かして、部屋の惨状を見渡した後、言った。

「…あの、もしかしてあなた、猫を飼っていますか?」

 その言葉に、全身が凍り付くような感覚がした。

 煙の中にいるようなぼやけた視界の中に、血だまりの光景が浮かぶ。

「…あの、どういうことですか?」

 僕の顔を見て何を思ったのか、OLさんは混乱したように口をぱくつかせた。

「いや、猫、飼ってますよね」

「飼って、無いですけど…、なんでそんなこと、言うんですか?」

 動揺しているせいか、喉に力が入らない。はっきりと輪郭を結ぼうとしたから、まるで相手を責め立てるような声になった。

 OLさんは少し声を引きつらせ、半歩下がる。

 いや…、だって…、と言いかけて、何かに気づいたように、口を噤んだ。

 また半歩踏み出し、僕の部屋を覗き込むと、目の辺りを青くした。

「あの、猫、飼ってないんですか?」

「だから、飼ってないですって…」

「でも…、昨日、猫の鳴き声がしたんですよ…」

 その言葉に、あの時の光景が、脳裏を過った。

 手に蘇るのは、小さな生き物を轢き殺した時の、生々しい感触。

 心なしか、鼻先に血の香りが漂う気がした。

「ね、猫の、な、鳴き声って…、いつですか…?」

「その、深夜中、ずっと…」

 見ると、女性の目元には隈が浮いていた。

「外…、じゃないんですか?」

「あなたの部屋の方から聞こえていて…。あと、壁を引っ掻く音も…」言った後で、女性は慌てて付け加えた。「すごく微かな声だったから、私の気のせいかも…。私、結構疲れてるから…、幻聴…だった、かも…?」

 そう言った瞬間、リビングの方で、何かが倒れる音がした。

 女性の顔が固まる。そして、僕の方を見ていった。

「やっぱり、猫、飼ってますか?」

「飼ってない。飼ってないよ…。気になるなら、見てくればいい」

 過呼吸気味になりつつ声を絞り出し、震える手を、薄暗いリビングの方に指した。

「…本当に、飼って、ないんだ…」

 僕の顔を見て、女性は何を思ったのだろう?

 口を一文字に結ぶと、何かに気圧されるようにして後ずさる。そして、水飲み鳥のように、せっかく整えた髪を乱しながら頷いた。

「そ、そうですか、飼ってないのなら…、良かった…。ここ、ペット、禁止、ですもんね…」

 ガタンッ! と、また何かが倒れる音。

 女性は小さな悲鳴を上げると、俺に一礼した。

「では、また今度…」

「あ、はい…、お仕事、頑張ってください…」

 女性は、まるで臭いものに蓋をするみたいに、扉を閉じた。コツコツ…と、彼女のヒールの足音が遠のいていく。

 再び、静かになる部屋。

 僕は下唇を噛みしめると、顎に手をやり、その指先に生暖かい息を吐きつけた。

「…おい、いるんだろう?」

 視線は扉の方を向いたまま。意識はリビングの方に向けて、その「なにか」に声をかける。

 すると、とてとて…と、かわいらしい足音が近づいてくるのがわかった。

「悪かったよ…。悪かった。葬式だって上げてやる…だから…、もうやめてくれ…」

 足音が、僕のすぐ後ろで止まる。

 唾をゴクリと飲み込むと、扁桃腺の辺りに、痺れるような痛みが走った。

 絆創膏を剥がすみたいに、思い切り、振り返った。

 だが、そこには何もいなかった。ただ、薄汚れた床があるのみ…。

 なんだ…、何もいないじゃないか。ああよかった…って、安堵するような僕じゃなかった。

「いるんだろう?」

 うんざりしながら、何もない空間に向かって話しかけ続ける。

「そうなんだろう…?」

 そろりそろりと、冬場のドアノブに触れるみたいに、手を伸ばす。

あるところまで伸びたところで、僕の指先が何かに触れた。

 熱のたまり場…と言うのだろうか? 極寒の外から、暖房の聞いた部屋に飛び込んだ時のような…、柔らかい熱の塊に、触れる感触…。

 何もいない。でも、確実に何かがいる。

 本能でそう悟った僕は、指を動かし、その熱の塊をこねくり回した。

「…ここに、いるのか…」

 言った、次の瞬間だった。

『にゃあっ!』

 苛立ちをこれでもかってくらいに詰め込んだ、猫の鳴き声。

 電気に触れた時のような、焼けるような感覚が指先から手の甲にまで駆け巡り、思わず手を引っ込める。

 ぱたぱたっ…と、床に、赤い雫が落ちた。

 指が、切れていた。

 冬の乾燥によるものなんかじゃない。獣に引っ掛かれたような、三本傷。

『にゃお…』

 震える僕の目の前で、そう聴こえた。

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WITH CAT バーニー @barnyunogarakuta

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