⑤
翌日、バイト先の書店で欠員が出て、本来早番だったはずが、結局閉店の時間まで働くこととなった。肉体的にはきつかったものの、その方が、彼女にフラれたことを忘れることができてよかった。
でもちょっと頑張りすぎて、十時前にアパートにたどり着いたときはもう疲労困憊だった。自分がどのような道を辿って帰ったのかもわからなかった。
早く眠ろう…と思いながら、ふらつく足取りで階段を上る。自分の部屋の前に立ち、ポケットから鍵を取り出し、開けた。
「え……」
そこに広がっていた光景を見るなり、間抜けな声をあげた。
部屋に、白い雪が舞っていたのだ。
しまった…、窓を閉め忘れたんだ…と思い、慌てて、部屋に入る。そして、音もなく舞い散るそれに触れた時、これが雪ではないことに気づいた。
白い羽毛。
なんでこんなものが…? と思うと同時に、身体に電気のようなものが駆け巡り、首がねじ切れんばかりの勢いで振り返った。
半開きになったクローゼット。そこから顔を覗かせる僕の羽毛布団。ただし、その表面は、まるでナイフを突き立てたように裂けて、そこから大量の羽毛が飛び出していた。
「え…、あ? は?」
僕は混乱しながら押し入れに駆け寄り、まるで愛しき人を抱きかかえるように、羽毛布団に触れた。その小さな衝撃ですら、出血するかのように羽毛が飛び出す。
「な、なんで…」
なんで、布団がこんなふうになっているんだ?
空き巣…という言葉が脳裏に過る。
はっとして振り返り、部屋の隅に遭った机を見た。
案の定、本棚の本は片っ端から倒れて落ちて、大学の教科書も、大好きな小説家の本も関係なく、まるでナイフを突き立てたみたいに破れていた。
教科書や本はどうでもいい。いや、よくないけど。
僕は机に駆け寄ると、引き出しを開けた。
中を確認し、安堵の息を吐く。
そこに収納していた、通帳や住居契約書、合鍵などの貴重品は、どれも無事だった。
「……ああ、良かった…」
何もよくないというのに、その場にしゃがみ込み、肩の力を抜いた。
ふわっ…と舞った羽毛が、僕の鼻先にくっつく。むずむずするから、とっさに拭った。
足元に落ちていたのは、大好きな作家さんの小説…。何かのイベントの時にサインをしてもらったものなのだが、それも、ナイフみたいなものでズタズタに裂かれていた。
彼女に振られたあとじゃあ、そこまで悲しくはなかった。それが幸いだ。
とにかく、警察を呼ぶことにした。
※
空き巣なんて日常茶飯事なのか、対応してくれた警官は随分と淡々としていた。
「まあ、犯人はみつからんでしょうねえ」
なんて、希望の無いことを言われた。
一応、被害届は提出し、「後日また話を聞きに来る」と言われ、警官とは別れた。その頃にはもう日を跨いでいて、その中での羽毛掃除は、近所迷惑この上なかった。
結局、完全に片づけできないまま、僕はウインドブレーカーを着込んで横になり、その日は寝苦しい夜を過ごした。
翌朝のことだった。
大学に行こうと、外に出た時、丁度出てきたお隣さんと目があった。
OL風の若い女性だったのだが、彼女は目に隈を浮かべていて、開口一番こう言った。
「あの…、昨日は大変でしたね」
「え…、ああ…、はい」
お隣さんには空き巣のことは言っていなかったのだが、まあ、アパートの前にパトカーが停まっていたのだから、何があったのかは察しが付くか…。
お隣さんは口元に手をやると、言うべきか言うまいか悩んだ素振りを見せた後、心底申し訳なさそうに言った。
「あの…、事件に巻き込まれて大変なのは、心中お察ししますが…、その、夜は、もう少し静かにしてくれませんかね…」
「え、あ、すみません」
全身が熱くなるのが分かった。
「やっぱり、掃除機の音、うるさかったですよね」
「いや、掃除機は別にいいんです。気になるほどでもなかったし、私もちょうどテレビを見ていたから…」
「え…」
じゃあ、なにが? 掃除機掛けた後はすぐに寝たけど…。
そう言うよりも先に、女性は「夜中ですよ…」と言った。
「ほら…、壁際でずっと、何かしていたでしょう? カリカリカリ…って」
僕の顔が強張る。だけど、うつむいた女性は気づく様子もなく続けた。
「大変な目に遭ったのはわかるのですが…、私も、ずっと仕事で疲れているので…、夜くらいはのんびり眠りたいんです…。だから、その…、次からは、お願いします…」
そう言い切ると、逃げるように階段を下って行ってしまった。
取り残された僕は、数秒呆然とし、数秒考えたのち、踵を返して部屋に戻った。そして、身を屈めると、さっきの女性の部屋に面している壁を見る。
リビングへの扉。その傍の壁に、ナイフで切りつけたかのような小さな傷を発見した。
「この傷、今までなかったよな?」
いやまあ、こんなところ毎日見るわけじゃないから、今までもあった…という可能性は捨てきれないが、昨日の空き巣事件、そして、今朝の女性の言葉を聞いた後じゃ、「そういうもの」にしか、見えなかった。
その場に固まって、じっと考える僕。
脳が理解するよりも先に、身体が気づき、全身に寒気が走った。
「…ああ」
僕は逃げるように、バイトに行くのだった。
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