レンタカー屋さんに車を返しに行った僕は、正直に、猫を轢いてしまったことを伝えた。と言っても、「猫を轢いたのに、その死体に何もしなかったのか?」と思われるのが嫌で、「いやあ、気づいたらこんなふうになってまして…」と、遅れて気づいた風を装った。

 損害賠償を請求されるのかと思い、気分が憂鬱だったが、店員は「ああ、たまにあるんですよ」と言い、洗車料を請求するだけだった。

「ありがとうございました」

 その言葉を背に受けて、僕は店を出た。駐車場には、さっきまで乗っていたレンタカーがあるわけだが、ナンバープレートの下には、肉片のようなものがこびりついていた。

 手の中に、猫を轢いた時の生々しい感覚がよみがえり、ぶるっと、身震い。

 それを忘れるかのように手を擦った僕は、足早に帰路に就くのだった。

 鍵を使ってアパートの部屋に入ると、布団が敷きっぱなしだった。

 財布とスマホを放り出しつつ、布団に飛び込む。彼女の香水の匂いがまだ残っていたから、それを必死に吸い込んで、心を落ち着かせようとしたけれど、やっぱりだめだった。

 トイレに駆け込み吐く。

 もうこれ以上吐くものが無くなった僕は、便器に額を押し付けて、しばらくの間放心した。

 ああ、水、水を飲まないと…。

 本能からそう思い、立ち上がる。

 ミネラルウォーターのボトルを掴み、半ば浴びるような形で喉に流し込んだ。

 そして、ようやく、落ち着いた。

 カラン…と、空になったボトルが転がる。僕はうつむいた。

 一体、何がダメだったのだろうか? 僕はそんなに、悪い彼氏だっただろうか?

 彼女が、「あそこに行きたい」と言えば連れて行ってやったし、「これが欲しい」と言えば、頑張って金を稼いで、買ってやった。昨日だって、あいつが「威武火市のイルミネーションが見たい」っていうから、レンタカー借りて、わざわざ県外まで行ったんだろう?

 何が、つまらない…だよ。高望みしやがって…。

 でもまあ、強いて言うなら…、少し、くっつきすぎただろうか…。

 彼女の香水の匂いが好きだった。彼女の、平均三十五・七度の体温が好きだった。ふっくらとした頬とか、艶やかな髪が好きで、よく抱きしめていた。頭を撫でたり、ほおずりをしたり…。かといって、性行為はしない。それだけで十分だったからだ。

 その思わせぶりな態度が、彼女にとっては期待を裏切ることだったのだろうか。

「…くそ」

 考えていても仕方が無かったので、布団からシーツを剥がすと、投げつけるように洗濯機に放り込む。洗剤を倍の量入れて、ボタンを押した。

 敷布団にもまだ彼女の香りが残っていたから、小さく畳んでクローゼットに押し込む。後は、硬い床に寝転んで、目を閉じた。

 二時間ほど経った頃だろうか?

 にゃーご…、にゃーご…と、猫の鳴き声がして、僕は目を覚ました。

 何となく身体を起こし、硬くなった筋肉を引き延ばす。目を擦り、視界が鮮明になったところで、扉の方を見た。

 猫の鳴き声は、扉の向こうから聞こえるようだった。

 にゃにゃーご…と、まるで、「早く開けろ」と言うように、急くような鳴き声だった。

 一瞬、今朝の光景が脳裏を過る。

 レンタカーに撥ねられて、血みどろの猫。

 いや、まさかな…と思った僕は、それを確かめるため、床に手を突いて立ち上がった。

 感覚の薄れた足で扉に駆け寄ると、ドアノブを掴み、捻り、押し開ける。

 隙間から顔を出して見たが、そこに、猫はいなかった。

 サンダルを履いて外に出て、辺りをよく見渡して見たが、やはり猫はいない。手すりに近づき、駐車場の方を見下ろしたが、やっぱりいなかった。

 冬の風が吹き付けるとともに、僕の背筋が冷たくなる。

 いや、まあ猫は俊敏だからな。きっと、扉を開けた時にはもう、はるか遠くに走り去ったのだろう…。

 そう思い込むことにした僕は、「ははっ」と大げさに笑うと、扉を閉めた。

 異変は、ここから始まった。

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