草色の色無地
増田朋美
草色の色無地
その日も本当に寒くて辛い一日であった。やっとこの季節になったなと思うけど、本来であれば、これが正常なことだろう。同時になんだか嫌な感染症などがやたらに流行っているらしい。もちろん治療することもできることの一つであるが、もう一つ人間にはできることもある。それはなんだろうか?
その日、杉ちゃんと野上あずささんは、増田カールさんが営業している、増田呉服店を訪れていた。
「はあ、色無地ねえ。なかなか欲しがる人はいないけれど、何に使うつもりなのかな?お茶とか、そういうものでも習っているのかな?」
カールさんはあずささんにいった。
「そんなに珍しいんですか?私くらいの年代が、色無地を欲しがるなんて。」
あずささんはカールさんに聞くと、
「ええ、だいたいね。若い人は、振袖を欲しがりますからね。それで何色の色無地をご希望ですか?」
カールさんは呉服屋らしく答えてくれた。
「えーと私が好きな色は、グリーンとか、そうですね、くさいろって言うのかしら。そういう感じの色がすきだわ。」
「わかりました。それならこれはいかがでしょう?」
カールさんはそう言って、売り台から色無地を一枚出した。
「地紋って言うのかしら。それが無いのが良いわ。本当に一色だけの、それだけで勝負したい。そういう考えって、無いかしら?」
あずささんがそう言うと、
「はあ、これはまた珍しいですな。一色で勝負するなんて、そういう着物は高齢者とか、仏事でなければ使いませんよ?」
と、カールさんは更に驚いた。ちなみに色無地とは、柄を入れないで黒あるいは白以外の一色で染めた着物である。地紋という布を織った柄を入れてある色無地であれば、礼装として親族以外の結婚式に使うこともあり、少ないものはカジュアルなコンサートなどに利用できる。中には地紋というものがまったくないものもあり、これで灰色や紺などのくらい色であれば、カールさんが言った通り、親族以外の葬儀や法事などに利用されることが多い。
「そうですけど、私は日本の着物というのを体験するために、あえて柄に頼ることはなく、一色で勝負してみたいと考えます。それは行けないんですか?だって仏事しか使っては行けないっていう法律はどこにも無いんでしょう?」
あずささんはにこやかに言った。
「そうなんですけどねえ、、、。」
カールさんは困った顔をしている。
「あなた、着物ははじめですよね。そういうことであれば、訪問着とか、そっちのほうが見かけもわかりやすいし、着用範囲も広いですよ。それに、松や梅などの柄に助けてもらって、格を上げることだってできます。そのほうが、あまり苦労しないで済むと思うのですが?」
「ええ、だからそういうことはしたくないと言っているんです。私は、着物そのもので勝負するんですよ。たしかに何も柄がないと言うのは、不利なことかもしれないけど、きちんと着物を着てるってことで勝負したいんです。柄に助けてもらうとか、帯や小物で勝負するというのは、なんだか誰かに助けてもらっているようで、自分でやった気がしません。それなら、着物そのもので勝負したいんです。」
あずささんは、にこやかに笑っていうのだった。その真剣な目つきに、杉ちゃんまでもが、
「あずささんは、地紋が何も無い方が良いんだって。その代わり、他のもので勝負すると思うよ。だから、悪いけど、地紋の何も無い色無地を出してやってや。」
と言ったので、カールさんは、
「わかりました。じゃあ、それではそうしましょう。ちょっとお待ち下さい。草色の地紋なしの色無地ですね。」
と言って、売り台近くの段ボール箱を開けた。そして、
「ああ、こういう感じですかねえ。これ、羽二重じゃないですけど、それでも良ければ、1000円で販売できますよ。どうでしょうか?」
と、一枚色無地を出して、あずささんに見せた。
「まあ素敵ですね!じゃあこれにしようかな。本当に1000円で良いんですか?」
あずささんがそう言うと、
「はい。どうせ、そのくらいの値段にしないと、売れない代物ですからな。それに持っていってもらって嬉しいくらいですよ。」
カールさんはリサイクル着物屋として正直な事を言った。
「じゃあ了解いたしました。それでは、1000円で良いんですね。これをお収めください。」
と、あずささんはそう言って、カールさんに1000円を渡した。
「ええ、ありがとうございます。領収書はいりますか?」
「ええ、よろしくお願いします。買い物した印に取っておきたいんです。」
カールさんは、領収書を書いて彼女に渡した。そして、紙袋に色無地の着物を入れて、
「はい、こちらがお品物になります。お買い上げありがとうございます。」
と、野上あずささんに渡した。あずささんは、
「どうもありがとうございます。」
と言って、カールさんに軽く会釈して、店を出ていった。杉ちゃんもじゃあまたねと言って、店を出ていった。
「しかし。」
帰りのタクシーの中で、杉ちゃんは言った。
「それなのに、ガミさんは、変わってるな。色一色で地紋もない着物で能楽堂に行くって言い出すんだから。」
「あら、能楽堂には色無地は着てはいけなかったんですか?留袖振袖に継いで格の高い着物だって教えてくれたのは、杉ちゃんでしょ?」
あずささんはにこやかに言った。
「そうだけど、まだ未婚の女性であれば、振袖で能楽堂に行くほうが安全では無いのかな?着物警察に、難癖をつけられないようにするために。」
と、杉ちゃんが言うと、
「まあそうかも知れないけど、私は、振袖を着るほど若くないし、かといって結婚したわけでもない。それなら色無地しか選択肢が無いわよね。それに、もう時間切れの人って言われればたしかにそうだから。」
とあずささんは言った。
「時間切れねえ。たしかに、高齢者と呼ばれる年で、結婚してないっていうんだったら、色無地かもしれないが、お前さんは小振袖くらいなら、着られそうだけどねえ。日本の女の子であれば、迷わずに小振袖を選ぶだろう。」
「まあそうかも知れないけど、あたしはそうでもないし。結婚もしていないし、子供もいない。それに、もうこの年だし、時間切れと言えば時間切れよ。」
「それなら、礼装用として、いっぱい地紋が入っているやつを選べばよかったじゃないか。」
「そうだけど、あたしはそういうことはしないわよ。柄に助けてもらうとか、帯にどうするとか、そういうことは嫌いなの。人に頼らず、自分の力で着物を着たい。それはある意味ありのままの自分を見せることでもあると思うわよ。まあ、古い映画でその言葉が流行ったって言うけど、それだけじゃないと思うのよね。それとも、日本ではそういう態度はタブーなのかしらね?」
「お二人とも着物の話をして楽しそうですね。良いなあ。うちのかみさんにも着物を着てほしいけど、めんどくさいって言って全然だめなんですよ。」
杉ちゃんとあずささんがそう言い合っていると、タクシーの運転手がそういった。それが着物の現状であった。今は着物がなくても全然平気だと言う人も居るし、洋服で全部大丈夫と息巻く人さえいる。そういう中で着物を着る人というのな非常に限られている。だから、その中で着物を着る人を増やさなければ行けないので、リサイクル着物屋というのは難しい商売だった。
「いいえ、着物を着るっていうのは、勇気が要るというか、一歩踏み出すというのが大事なんだと思います。それをしないから、日本では何も変わらないんですよ。みんな、着物を着るだけじゃない。人と違うということをするのが苦手なのよね。だからこそ、ありのままという態度に憧れるのではないかなと思うのよね。」
とあずささんがそう言うと、杉ちゃんのスマートフォンが鳴った。いくら文字の読めない杉ちゃんであっても、マークをおえば電話に出られるようになっているのが非常に便利なところである。
「はいはいもしもし。ああ、由紀子さん、え?何?ちゃんと言ってくれ。誘拐犯じゃないんだから。そんなに早口でまくしたてられてもよくわかんない。」
どうやら電話をしたのは由紀子であるらしい。でも、早くちでまくしたてているのであれば、それはなぜだろうか。あずささんがなんだろうと考えていると、電話口では女性の金切り声で、
「どうして水穂さんを放って、着物屋にいったのよ!」
と言っているのが聞こえてきた。
「だから、眠っているから、その間にいってこようと思っただけなんだけど?」
杉ちゃんが単純にそう言うと、
「放っておいてその間になにかあったらとかそういうことは考えていなかったのね!そういうところが外国の人って本当に困るわよね!」
と、杉ちゃんの電話からそう言っている声が聞こえてきた。
「はあ、つまり、」
杉ちゃんがそう言うと、
「水穂さんが大変なの!今すぐ帰ってきて!」
由紀子がでかい声でそう言っているのが聞こえてきた。杉ちゃんも負けじと、
「わかりました!すぐに行く!」
と言って電話を切った。あずささんがどうしたのと聞くと、
「よくわかんないけどさ。水穂さんが、なにかあったらしい。とにかく急いでくれ!」
杉ちゃんは運転手にいうと、運転手はわかりましたと言って、大通りを外れて、別の道を取った。そして、信号待ちをする必要がないようにタクシーを走らせてくれて、予定時刻より早く製鉄所へ着いた。
「ただいま!帰ってきたよ!水穂さんが一体どうしたんだよ。」
杉ちゃんが急いでタクシーから降ろしてもらって、製鉄所の中へ車椅子を動かした。それに対して返事はなかった。杉ちゃんは、急いで四畳半に車椅子を動かしてみたが、それと同時に聞こえてきたのは、激しく咳き込む声であった。それと同時に由紀子が、
「お願い!頑張って!頑張って吐き出して!」
と、一生懸命声をかけているのが見える。
「おいおい、薬は飲ませたの?」
と、杉ちゃんが言うと、
「ええ。ちゃんと水のみにあった分はあげたわ。でも止まらないの!普段なら止まって眠りだすはずなんだけど!」
由紀子は必死な声で杉ちゃんに言った。
「だって、薬の作り方くらい覚えてるだろ?」
杉ちゃんが言うと、隣にいた利用者が、
「私がやりました。」
と小さい声で言った。この利用者はちょっと口に出しては言い難い事情を抱えていた。それは昔の言葉を使えば空氣と言えるし、頭が足りないとも言えるし、今の言葉をつかえば療育手帳に該当する事情だった。
「じゃあ正直に答えてくれ。お前さん、水穂さんの薬を作ったときに、どうやって作ったんだ!」
杉ちゃんはすぐに言った。
「ええ。由紀子さんに言われました。薬を一袋、水をいっぱい入れて、溶かして飲ませるようにって。」
「はあ、そのとおりにしたのか、それをしたのに効かないとは、どういうことかなあ?もしかして悪化したとかそういうことかなあ。とりあえず柳沢先生には連絡した?」
と、杉ちゃんが言うと由紀子は、
「どうしても切れない用事があって、一時間は待ってくれということでした。そんなに待たせるなんて!」
と杉ちゃんに言った。
「そうかそうか。それでは、薬を飲ませたのに効かなくなったか。それでは耐性が着いたんかねえ。もっと強い薬でなければだめってことか。」
杉ちゃんが言うと、
「でもあたしは、ちゃんとやりました。薬を一袋と、水を水のみにいっぱい入れて、溶かして飲ませました。」
利用者は何がなんだかわからないという顔で言った。その顔から見ると、彼女が悪いという顔ではなさそうだ。つまり、悪いことはしていないという感じの顔である。
「はあ、どこで間違えたんだろう?」
杉ちゃんが言うと、
「あの、ちょっとよろしいですか!」
とあずささんが言った。
「あたしも、日本に来たばかりのとき経験したことあるんですけど、日本語って、おんなじ音であるのに、違う意味であることって、結構多いですよね。例えば先程彼女が言ったいっぱいという単語ですが、それは、水のみにいっぱい入れるという意味と、それとも数値的ないっぱいという意味と2つ意味があります。彼女はそれを取り違えたのではないでしょうか?だから間違えて、水のみにいっぱい入れてしまった。それで、いっぱい入れたせいで薬が薄くなって効かなくなったのではないでしょうか?」
由紀子はギロリとその利用者を睨みつけた。
「あなた、そんなことも勘違いして、、、?」
利用者は黙って答えなかった。
「謝りなさいよ!土下座して謝ってよ!こういう人には、命取りになることだってあるのよ。もちろん、障害があってわからなかったこともあるって言うことはあるのかもしれないけど、それのせいで罪を免除してくれというのは許せないわ。謝ってよ!土下座して謝ってよ!早く!」
由紀子は、そう言ったが、水穂さんが咳き込むのはどんどんひどくなっていくので、由紀子はとにかく水穂さんの背中を擦ってやったのであった。利用者は利用者で、
「ごめんなさい私。やっぱりいないほうが良かったのね。仕事してもろくにできないし、家族といても、評価が無いし、私はやっぱり死んだほうが良かったんだわ。」
と言って、泣き出してしまった。そういう事を言うべき事態では無いのだが、由紀子も利用者も、そこから立場を変えることはできないようだった。感情に縛られすぎると、人間は動けなくなるものである。その間に、水穂さんの口元から、朱肉のような赤い液体が漏れてきて、一向に止まりそうも無かった。杉ちゃんは杉ちゃんで、
「早く柳沢先生が来てくれるといいのにな。」
なんて言うしか無いのである。
「とにかく病院へ連れていきましょう!あたし車出すわ。」
由紀子がそう言うと、
「ああそれは無理だねえ。その銘仙の着物のせいで、こんなやつはだめって追い出されるのが当たり前だからねえ。」
と、杉ちゃんが言った。たしかにその通りなのだった。
「でも、救急であれば入れてくれるんじゃないかしら!」
由紀子はそう言うが、
「嫌、そういうことは無理だよ!そういうことは、理解ある人じゃないと!」
と杉ちゃんはでかい声で言った。由紀子は、水穂さんの体を擦るよりも、自分のほうが涙をこぼしてしまって、返って水穂さんよりも、悲しそうであった。杉ちゃんが早く一時間経ってくれないかなというと、
「とにかく、祈りましょう!それしかできないのよ。みんなそれだけならできるでしょう。水穂さんが、これ以上悪くならないように、祈るのよ!」
と、あずささんが言った。由紀子がそのような事をして何になると言い出そうとしたとき、あの知的障害のある利用者が、
「そうね、ガミさんの言う事なら私もできるかも。あたし、何もできないけど、それだけならできるから!」
と、言って祈りの姿勢を取った。きっとこの女性は教会にでも通っていたのだろうか。そういう事をするのに、何も抵抗はないようだった。葬式仏教としか言われないと言われる、仏教徒である杉ちゃんも、思わず両手をあわせてしまった。由紀子とあずささんは、とにかく咳き込んでいる水穂さんの背中を擦ったり叩いたりして時間の経つのを待った。
それから何分経ったかわからないけれど、製鉄所の玄関の引き戸をガラッと開ける音がした。
「遅くなってすみません。」
そういう老人の声は、確かに柳沢先生の声である。
「おう!来てくれ!頼むよ!」
と杉ちゃんがでかい声でいうと、柳沢先生は返事もしないで製鉄所の上がり框のない玄関を上がって、入ってきた。こういうときに鶯張りの廊下は役に立つのであった。そうやって人が歩いてくる音がちゃんと聞こえてくるのだから。日本家屋もこういうときは役に立つのである。
「はいはい、ちょっとまってくださいね。今薬だしますからね。」
柳沢先生は重箱を開けた。そして、水のみを取って、粉薬をその中に入れ、そして水のみの中に書かれている目盛りのところまで水を入れた。杉ちゃんがよく見ておけといったが、利用者の女性は、それをしっかり眺めていた。
「お願いします。」
と、由紀子が言うと、柳沢先生は弱々しく咳き込んでいる水穂さんの口元にそれを無理やり突っ込み、水穂さんに飲ませた。水穂さんはしばらく咳き込んでいたが、次第にそれも静かになって、布団に倒れるように横になった。由紀子はその体に掛ふとんをかけてやった。
「それにしても、派手にやったな。」
杉ちゃんが、血液で汚れてしまった畳を眺めていった。
「そうだけど、水穂さんを責めるのは可哀想よ!」
由紀子は急いで言ったけど、柳沢先生がそれを止めた。うるさくしてしまったら、水穂さんが眠れなくなってしまうのではないかということであった。
「まあ良かったじゃないか。ガミさんが祈ると言ったから、僕らはそうすることでなんかパニック状態にならないで済んだよ。」
と、まだ祈りの姿勢をしている利用者の女性に向かって杉ちゃんが言った。あずささんが、利用者にもう大丈夫よというと、彼女はやっと目を開けて、本当?と小さな声で言った。
「本当よ。もう大丈夫だって。ほら、柳沢先生が居るわ。」
あずささんがそう言うと、利用者は、
「本当に本当にごめんなさい!私、水穂さんの世話は一切できません!」
と頭を床に打ち付けようとしたが、
「良いのよ!二度と繰り返さないようにすれば。誰にだってできないことはあるわ。あたしだって、華やかな着物を買いたいと思ったけど、今回どうしてもできなかったわ。それと同じなのよ。できないことはできる人にしてもらって、あなたは、祈ることに専念してあげてね。」
あずささんが思わず自分の本音を打ち明けた。
「はあ、やっぱりガミさんは、華やかな着物を着たかったのね。それなら、そういえば良かったんだよ。あんなカッコつけたセリフを言う前に、本当は着てみたかったってちゃんと言えばいいじゃないかよ。ありのままなんてそんな事言うもんじゃない。」
杉ちゃんが苦笑いしてそう言うと、あずささんは、
「そうですね。あたしには、そうするしかできなかったんだわ。」
と、苦笑いしてそういうのだった。
「まあ誰にでもできることと、できないことがあるってことだわな。それは、ちゃんと、わきまえようね。」
杉ちゃんがそう言うと、みんな大きなため息を着いた。水穂さんがやっと楽になって眠っている音だけがよく聞こえてきた。
草色の色無地 増田朋美 @masubuchi4996
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