第22話 霊薬の運び屋
カン、カン。
軽やかな足音が響く。
緊急事態を報せるアラートが鳴る中でも、その音は研究員たちの耳に嫌という程大きく聞こえた。
「だ、誰か……近づいて来るぞッ!」
「クソッ、執剣武官は何をやっている!?」
「だから警備が薄いとあれほど言ったのだ!」
「上層部に連絡は!?」
「間に合うわけがないだろう!」
施設最下層の研究室。
その中では研究員たちが阿鼻叫喚の様相を繰り広げ、迫った危機に誰もが責任の所在を押し付け合っていた。
捕えた幻獣がどうにかならないために駆けこんだ研究室は、彼らにとっては最後の砦になっている。
施設の近くで鳴るくぐもった戦闘音が聞こえる度に、彼らの焦燥は増していく。
「……なん、だ」
鎖に吊るされた少女は、アラートと研究員たちの喧騒に目を開ける。
いつもは人間とは思えないほどの残酷さで彼女を痛めつける研究員たちの驚愕の表情や恐慌に陥る姿。
幾分か溜飲が下がる思いもある。だが……少女の目に映るのはそれだけではなかった。
誰かが近づいて来る。一人の研究員がそう言っていた。
だが違う。
もうすでに、部屋の中に異物が紛れ込んでいた。
幻獣の目を騙せる魔法は存在しない。
天葬の紫たる少女の目には、ローブの人影が部屋を横断する姿がはっきりと見えていた。
馬の頭蓋をカラカラと鳴らしながら。
騒ぎ立てる研究員たちを小馬鹿にしたように眺めながら。
その足先は確かに、少女に向いていた。
「幻獣……いないんだが」
声は男のものだ。彼の存在を認識できない者たちには彼の声は聞こえていない。
だが少女の耳に届いた声は、『幻獣』と口にした。
微かに身体が動き、鎖がジャラッと悲鳴を上げる。
「……ん?」
恐慌状態の室員たちには聞こえないその音に、男は振り向いた。
「……貴様……は」
少女の口から小さく漏れる声。
彼はそんな少女に、頭蓋を被っていてもわかるほどに愕然として、動きを止めた。
「……まじ……?」
「何者……だ」
「こっちのセリフなんだけど」
室員たちに聞こえないように声を潜めた少女。男はそれを慮るように同じく声量を抑えて檻に近づいた。
そして一人分の通り道を作るために音も立てずに檻を壊し、それを潜った。
尋常ではない技巧。だが、こんな非常識な状況でその渦中にいる人物だ、少女に驚きはない。
「……我は」
そこまで言って、少女は口を動かすのを止める。
首を傾げる頭蓋男の姿に、彼女は強く目を瞑った。
幻獣である少女が目的なのだろうことは今の呟きで大体想像がつく。そんな彼に、少女は反射的に助けを求めようとした。
だが、彼が助けに来たのではなく、この施設から奪いに来たものであったとしたら?
この施設以上の地獄に連れていかれるかもしれない。
また裏切られ、血肉を採取するための道具として飼殺されるかもしれない。
人間を信じるには、少女の心身は摩耗しすぎていた。
だが、それに気づくのが遅かった。
「……幻獣……か。人の形してるとか聞いてないぞ……」
少女の正体は、いとも容易く看破されているようだった。
天葬の紫は諦観に項垂れ、自嘲気味に笑う。
「貴様も……我を求めているのか……?」
「あなたが幻獣なら……そうなります。なにせ、聖銀貨1000枚ですので」
「薬の次は金か……人間とはかくも醜く愚かであるか……」
もう、抵抗できる余力など残っていない。
数年魔力を封じられ疲弊しきった心身を投げ出し、彼女は溢す。
「もう、いっそ殺してくれ……。ここまで惨めを晒したうえ、薄汚い下等な貴様らのおもちゃになってまで生きたくなどない……」
「……なるほど」
男の声のトーンが一段下がる。
それは商談用だったものが、いつもの声音に戻ったことを表していた。
そして口調も、乱雑なものに変わっていく。
「それはできない相談なんだ。生きてなきゃ意味がないんでね」
「……はは……もう、いい。好きにするが良い。この鎖を解けるものならな」
少女は鎖を鳴らして嘲笑う。
幻獣を繋ぐための
帝国の錬金術師、テオフラストゥスによる悪魔の発明。
霊薬の為に作られた、幻獣を消費するだけの道具。
精密で緻密な設計と、卓越した魔力操作によって織りなされた錬金王の作品だ。
「……
だが彼は、その神髄を継ぐ者。
鎖に触れ魔力を流す。解析。
「構造は……テオ爺の
回路に通す。試行。
「結構造り自体はシンプルだけど……意地が悪いな、しくじると反撃する仕様だ。まぁでも、結局は錬金物」
そうして彼は、手慣れた様子で鎖を分解した。
「——ぁっ」
ガンッ!
巨大な鎖が地面に落ちる音が部屋に響く。
そして少女もまた、長らく吊るされていた身体を宙に放られ、男に受け止められた。
「なッ……幻獣がッ!」
音に振り向く研究員が騒ぎ出す。
悠長にしている時間は、まったくと言っていいほどなかった。
「さて、天葬の紫。取引だ。聖銀貨1000枚はここまでのリスクと助け出すことの成功報酬だ。ここからは、俺とお前の商談だ」
少女は現状の理解が追い付いていない。
自分を無力に貶めていた鎖は、いとも簡単に砕かれ、自分は自由な体を抱きすくめられている。
そんな単純な事実に戸惑っている彼女に、男はそれでも話を続ける。
取り出したのは、真紅の液体が入った小瓶。
「疲れてるだろう。痛かっただろう。寂しかっただろうし、悲しかっただろう。俺はそれを救いに来た」
彼にとっては商談を有利に進めるための甘言だ。
本当に思っていることではあるが、それをわざわざ感動的な救出劇に仕立て上げ、彼女に手に持っている小瓶を差し出す。そのためだけの演出だ。
「ここまでしたんだ。信じてくれてもいいだろ?」
だが、彼女にとっては違う。
男は自分を孤独と悲嘆から救いあげる、救世主に他ならなかった。
「これを飲めば、お前の身体は完全に元通りだ。幻獣に回復薬が効くかわからなかったから最上級の物を用意した。対価は割高だけどな」
傷だらけの少女を支え、慈しむように一度撫でる。
暖かな手が少女の手を掴み、その小瓶を握らせた。
彼の本当の思惑が金であることとか。対価がどうだとかは、少女にはどうでもよかった。
ただ彼が、自分をここから救い出すのだという事実だけ、鮮烈に脳に刻まれる。
彼は頭蓋を鳴らし、奥の目を細める。
咳ばらいを一つすると、彼はまた声のトーンを変えた。
「——さぁ、特製の『霊薬』をお持ちいたしました。一息に、どうぞ?」
少女はただ、小さな口で小瓶を呷った。
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