王都編

第6話 行商人アスタロト

 中央大陸東の雄、『メギスト王国』は広い国土と高い人口密度を誇る文化国家だ。

 魔法や美術、鍛冶、錬金術などの文化の発展に重きを置いた国風で、商業が盛んな国でもある。

 そんなメギストの王都は、今日も人々の活気で溢れていた。

 外から聞こえる喧騒はいつも通り耳障りなほどだし、真っ昼間ということもあり出店の商品の良い香りがここまで届いて来る。


 活気の中心である大通りから東に進んで裏路地を通り、細道を抜けて建物の影に入った場所にある寂れた通り。そこにポツンと取り残された店。

 活気とは程遠いそこにあるのが、『アスター商店』。今の俺の工房兼道具屋だ。

 しかし悲しいかな、数カ月前から出入り口に取り付けたドアベルが鳴ることは滅多にない。


 まぁたまに物珍しさで客が来ることもあるけど、みんな値札を見て俺の顔に舌打ちを打って店を出る。そして二度とそいつは店に来ない。

 立地、値段。その両方の原因から、今日も俺の店には閑古鳥が鳴いていた。


 まず、立地は正直しょうがない。もともとテオ爺が使っていた工房だし、店のために立てた建物じゃないし。

 そして問題の値段だが、五等級回復薬が1個で約7万ガル。一般的に売られている五等級回復薬が約5万ガルなことを考えると、かなり高めの値札が張られているのだ。

 そりゃ買わない。客が舌打ちするのもわかる。誰かがやっていたら俺もするだろう。

 他にもいろいろな商品が並んでいる。道具とか武具とかいろいろ。しかしその値段は、他の店で見るより数段高いものになっている。


 そう、これはいわゆる、ぼったくり。

 認めよう。俺の店はぼったくり店だ。


 でもね、たま~に売れるんだな、これが。


 大通りから外れた人目を忍んだ立地だからこそ、こんな店でしか買い物ができない『お尋ね者たち』。

 そんな奴らに対しても物を売る俺みたいなのはかなり珍しいらしい。よって、そんな面倒な奴らがお得意様としてたまに商品を買って行くのだ。

 これこそ、立地を逆手に取った商売法。


 では、この店の売り上げで俺が生活できるかというと……できるわけがない。

 五日に一回、商品が売れるか売れないか。そんな頻度の道具屋は食っていけない。


「……ふわぁ……眠い」


 店のカウンターで頬杖を突き、欠伸を一つ。

 繁盛店だったならこんな暇もないのだろうが、金を欲する俺からすればこの時間はあまりにも虚無だ。

 

 ここまで聞いた人なら誰でも思う。

『お前、まともに商売するつもりないだろう』と。


 ――その通り、大正解だ。

 この立地に割高な値段。やる気のない接客に宣伝も無し。

 およそ金を稼ぐために必要なすべてを切り落としたような自堕落ぶりだ。


 何を隠そう俺は、このアスター商店で金を稼ぐ気などさらさらないのだ。

 

 本番は、夜だ。




 草木も眠るなんとやら。時間は深夜だ。

 王都は昼間の活気とは違う、静かな熱に包まれている。

 太陽光ではなくオレンジ色の魔力光が街を照らし、まさしく夜の街と言った雰囲気だ。

 歓楽街に人が流れ、酒場では冒険者たちの大声で溢れていることだろう。


「さてと」


 今日も商品が売れなかった店を閉め、明かりをすべて消した。

 そして工房の奥に入り、用意を整える。


「アグナ、オウル、行ってくる」


「うん」


「はい」


 短く返事をする二人は、今日も冒険者として八面六臂の活躍をしてきたのだろう。

 数カ月前にメギストで冒険者になった二人は、瞬く間に新進気鋭の『双星』として有名になった。

 その名はこの都だけに止まらず、大陸中の冒険者たちの注目の的なのだとか。

 

「そういや、調子どうだ? 冒険者、楽しい?」


「楽しい……? よくわからない。ただ、アスタくんの役に立てるからやってるだけ」


「そうか……オウルは?」


「んー……姉さんと同じかな。でも、魔物殺したり盗賊殺したり……やり甲斐はあるかも」


 可愛い顔で恐ろしいことを言う子である。

 そんなオウルは、アスタの顔を寂しそうに見つめる。


「やっぱり、兄さんも一緒に住もうよ。僕たちの家の方が絶対快適だと思うんだけど」

 

 その言葉に、アグナもその通りだと強く頷く。


「工房も、良いの作れる。ベッドもおっきい。お風呂も豪華」


「それはいいな。でも、生憎お前たちと一緒にいるのは目立ちすぎる。お前たちはこんな生活をしてる俺の耳にも入ってくるほどの有名人になったんだし。それに二人の家に、名家の貴族の訪問があったって聞いたぞ」


「あんなの面倒なだけだよ……それに、僕たちは……その……兄さんのモノなんだから、もうちょっと良いように使ってくれていいんだよ……?」


 そこで頬赤らめないで、男の子でしょきみ。

 アグナはそんなオウルの頭を叩くと、道を開けるように後ろに下がった。


「アスタくんは、好きなことやりたいんだよね?」


「うん。金は好きだけど、それを稼ぐのも好きなんだ。貢がれるのは趣味じゃない」


 多分俺は、自分の行動に価値が付くのが好きなんだと思う。

 それがどんな方法であれ、な。


「わかってる」


「流石アグナ」


 言いながらぐしゃぐしゃと頭を撫でれば、彼女は嬉しそうに耳と尻尾を動かした。

 表情が平坦な分、こういうところでわかりやすくて助かる。


「まぁ、そういうことだからさ。情けない兄貴を気遣ってくれてありがとう、オウル」


「情けなくないッッ!!」


「うお声でっか」


「も、もうっ……兄さんはすぐそうやって……」


「オウル、そろそろ帰ろう。アスタくんの迷惑になるから。アスタくん、いってらっしゃい」


「い、いってらっしゃい兄さん!」


 俺は二人に後ろ手で手を振りながら、馬車に乗って大通りを抜ける。

 馬車道を行く俺と馬車に、不思議と人は視線を寄越さない。まるで見えていないかのように振る舞い続ける。

 王都の門を抜ける時ですら、門番たちは俺の乗る馬車に気付くことはない。


「……今日のカモ……いくらでもいそうだ。最近物騒だから、書き入れ時だな」






■     ■     ■     ■







 ここ最近、メギスト王国王都を拠点とする冒険者たちの中で実しやかに囁かれる噂がある。

 それは、王都周辺で目撃される『行商人』についてのことだ。


 曰く、その行商人の馬車は神出鬼没。普段は見ることが出来ず、何らかの条件下でのみ認識可能である。

 曰く、その行商人は『この世ならざる者』。正体も出自も何もかもが不明。


 頭から足の先までを隠す真っ赤なローブ。

 その顔は、馬の頭蓋骨を被っており窺い知ることが出来ない。


 この情報だけなら、ただの不審者としてすぐさまお尋ね者だっただろう。


 しかし、その行商人が並べる商品が問題だった。



 その日、一つの冒険者パーティーの前に、が現れた。


「——ふむ、どうやらお困りのご様子だ」


「なっ、い、いつから……そこに……」


 冒険者の男は、愕然としながらそう訊いた。

 しかし『行商人』は馬の頭蓋をコツコツと鳴らすだけ。答えるつもりはないようだ。


 パーティーリーダーである男も、パーティーメンバーである他の面々も、いくつもの修羅場を潜り抜けてきた自信はあった。

 パーティーメンバー全員の冒険者としてのランクは、中堅を示す銀級シルバー。冒険者を志す者の5割が銀級シルバーでその生涯を終えることを考えれば、充分な実力者たちであることがわかるはずだ。


 そんな彼らは、不測の事態に頭を抱えていた。

 それは、魔物の特異種ユニークが出現したことだ。

 通常の魔物と異なり、人間に近い知能を持った進化体である特異種ユニーク

 そんな魔物と応戦した末、パーティーの物資は底をついた。

 幸いにも、深手を負った特異種ユニークは逃げ出し、どこかで傷を癒している最中だ。


 しかしそれは冒険者たちも同様だ。

 骨をやられたもの。激しい裂傷を抱えたもの。塞がりきらない傷に喘ぐもの。

 激しい戦闘による怪我と疲労で満足に動けず、いつ次の襲撃があるかわからない現状。

 深い森の中であり、時刻も夜。援軍は絶望的だった。

 

 そんな中で現れたのが、かの行商人だった。


「ふむ、ふむふむ……回復薬に、魔力補給剤エーテルが底をついたと……おやおや災難でしたね」


 馬車の荷台から次々に出てくるのは、冒険者たちが喉から手が出るほど欲した救援物資。

 

「リッ、リーダーッ!」


 並べられていく商品に目を輝かせながらリーダーに目を向けるのは、このパーティーの最年少である少年だ。

 他の面々も安堵に胸を撫で下ろし、神でも見るかのような目で馬の頭蓋の行商人を見つめる。


 だが、ただ一人。リーダーの男は未だに眼光を鋭く保っていた。

 ここで売ろうとしているであろう商品を並べ終えた彼に、リーダーは静かに問う。


「……商人殿」


「はい。いかがされました?」


「この回復薬、一ついくらだ?」


「値段ですか。こちら――30万ガルになりますね」


「っ!」


「は、あ!? おいてめぇ! 足下見過ぎだろうがっ!? 舐めてんじゃねぇ!」


 そう食って掛かるのは、先程目を輝かせていた最年少の少年だ。

 一般的に流通している回復薬は大半が五等級。普通の値段だったら5万ガル。有事であっても8万が限界だ。

 だと言うのに、提示された金額は通常の六倍。

 少年は強気そうな釣り目をいつもより吊り上げながら、今にも殴りかかりそうな勢いだ。実際、足を怪我していなかったら殴っていただろう。


 色めくメンバーたちを尻目に、リーダーの男は「やはりか……」と嘆息する。


「落ち着け。……仕方あるまい」

 

 行商人とはこう言うものだ。特に、街の外で会うこの業種はこのような手合いが多い。

 だが他に頼れるものがない状況だ。藁にも縋る思いでリーダーは行商人の彼を見やる。

 せめて最悪のパターンではあってくれるな、と。


「……この回復薬、等級はいくつだ? 情けない話だが、俺たちは全員深傷を負った。生半可な回復薬では焼け石に水。買うことはできない。……値段を下げてもらえるなら、考えてもいいが」


 行商人の男が並べた商品は、どれも『商品の等級』が書かれていないのだ。

 回復薬。魔力補給剤エーテル。どちらにも明記はない。

 店舗であったなら表記してあるのが普通だが、いまはそれが無いのだ。

 七、六等級の回復薬は色が薄く素人目にもわかりやすいのだが、五等級以上のものは、よほどの目利きか鑑定系の魔法を持っていない限り一目で看破することは難しい。

 最悪のパターンであった場合、自分たちの傷を治せるほどの回復薬でない可能性だって残っている。

 実際に過去、そういう詐欺を働いた行商人が指名手配されたこともある。


 回復薬の効果は七等級で掠り傷を治せる程度。六等級で少し深い傷の治癒と疲労の軽減。五等級から、身体の内部の損傷を動ける程度までケアできるようになる。四等級ならば、骨に入った罅程度なら完治できるまでに効果が上がる。

 しかし、四等級以上の回復薬は貴重であり、都で名のある商人が扱っている場合がほとんどだ。行商人が持っていることはまずない。

 さらに、その効果は初級回復魔法とほぼ遜色がないため、パーティーに一人でも治癒師ヒーラーがいれば頼る必要はない。

 だが、パーティーのヒーラーである女性は、不甲斐ない自分を恨むように杖を強く握った。


 リーダーとしてはヒーラーである彼女の魔法に頼りたいのだが、各々が負った傷はあまりにも深い。彼女の初級回復魔法では気休めにしかならない程にだ。

 しかし、回復薬が五等級以下であった場合はエーテルのみ購入し、彼女の魔法で気休め程度の処置を行うしかないだろう。

 そのエーテルすら、効果がどのくらいのものかは判別不可能なのだが。

 

 そんな懸念を持って、リーダーは問う。

 メンバーたちも固唾を飲んで見守る中、行商人の男はコツコツと頭蓋を鳴らす。


「——では、お見せしましょう」


 そう言って彼は、白銀の刀身のナイフを取り出し――自分の腕を、深く突き刺した。

 赤い鮮血が辺りに飛び散って草木を濡らす。

 その様子に誰もが瞠目し、閉口するしかなかった。

 彼はナイフを力任せに抜き、再び血飛沫を上げながら鷹揚に冒険者たちに語り掛け、今しがた出来上がった傷を見せつける。その傷の深さは骨に達するほどで、放置すれば失血死も免れない。

 だというのに、彼はさながら奇術師マジシャンのように振る舞うのだ。

 並べられている商品の中から一つの小瓶を拾い上げ、それを掲げる。


「ご覧ください、これほど深~くできた裂傷。痛いです……いやほんとに痛い。ですが、この回復薬を傷口に垂らせば――――」


 キュポン……。小瓶のコルクが抜かれ、それが傷口に注がれる。

 そうしてその深く凄惨な傷は――、


「あら不思議。すっかり元通りにございます」


 冒険者たちの前で、瞬く間に癒された。

 その効能は正しく、三等級回復薬や中級回復魔法に相当するほどのもの。

 流通が絞られている三等級以上の回復薬を、彼は惜しげもなく使ったのだ。


 三等級回復薬の相場は、1個30万。

 この行商人は最初から、ただ相場を口にしただけだったのだ。


 何故そんな貴重な代物を持っているのか。

 一体彼は、何者なのか。



「自己紹介が遅れました。——私の名は行商人アスタロト。以後お見知りおきを」



 彼らは、その姿に息を呑む。


「ではでは、再び商談に移らせていただきましょう。こちらの回復薬……そうですね。見たところ、思った以上に困窮しているようだ。そこで、こちらを1つ20万ガルでお譲りしましょう。——いかがでしょうか?」


 頭蓋の奥で、何かが笑った気がした。


 ここで10万ガルの値引き。詐欺師の常套手段だ。

 だがこの商品が三等級回復薬だとすれば、この値段は法外などではなく、逆に破格の値段だ。

 彼には利益が生まれないどころか、損をする一方だろう。

 彼の目的が、見えてこない。


 リーダーは全身に鳥肌を立てながら「……か、買おう。もちろん」と、頷くしかなかった。


「ありがとうございます。これからもどうぞ、ご贔屓に」



 並べられた商品をすべて買い終わった時、アスタロトの姿は忽然と消えていた。

 彼から買った三等級回復薬は、

 

 この日、このパーティーは特異種と行商人アスタロトの情報を持ち帰ることに成功した。

 こうしてまた、謎の行商人の噂は実在性を増して広まっていく。


 ……と。





■     ■     ■     ■





 アスタは危機に瀕した冒険者パーティーに回復薬などを売った後、馬車で平原を駆けながら、馬の頭蓋の奥で悪い笑みを浮かべた。


「五等級回復薬が1個20万ガルで売れた……はははっ、ちょろすぎんだろ」


 店で5万ガルで売られているものが、特殊な条件下では四倍にも膨れ上がるのだ。

 

「普通に商売なんてやってられねぇっての」


 さきほどのパーティーから得た80万ガルほどが入った金貨袋に、アスタはほくそ笑む。

 彼が売ったのは、なんの変哲もない五等級回復薬だ。五等級回復薬に彼らの深い傷を完全に癒す効果はない。あって気休め程度だろう。


 では、アスタが彼らに見せた実演販売は一体何なのか。

 それは――『回復魔法を使った演出』である。

 

 まず、危機に瀕して八方塞がりの冒険者たちを見つける。

 これは案外容易いのだ。この世界は危険に満ちているし、冒険者なんて危険な職業柄、彼らは様々な危機に見舞われる。

 わかりやすい例で言えば、王都周辺を馬車で駆けていれば三日に一回は死体が見つかるほどだ。

 そしてそんな風に危機的状況に陥った冒険者たちは、物資が枯渇している場合が多い。

 そこに現れるのが、行商人アスタロト。彼は藁にも縋る思いで助けを求める冒険者たちに商品を並べ、高額の値段を提示する。

 すると、冒険者たちは声を荒げる。

『高すぎる!』と。


 アスタはここで、

 もしその程度の金額で高いと喚き、安い金額で助けてくれと叫ぶのならば論外だ。

 命を救ってもらおうというのにやれ「金が高い」だ「ぼったくり」だと叫ぶ奴を助ける理由はない。

 人の命を助ける行為にかかる費用は、それ程安くはないのだ。


 本当に命の危機を感じている奴は、きっとアグナのように懇願することだろう。

 提示する金額に抗議せず、甘んじて受け入れる者がいれば、アスタは相応の対価に応じて見合った商品を提供する。

 

 だが今回の冒険者たちは残念ながら前者。


 そこで行うのが、『実演販売(笑)』だ。

 アスタがさきほどナイフでやった(実際めちゃくちゃ痛い)ように、自分でつけた傷に回復薬をかける。

 その時、タイミングを見計らって自前の回復魔法を傷に対して使うのだ。


 するとどうだろう。

 あたかも回復薬で傷が治ったように見えるというわけだ。

 バレないように回復魔法を発動するのは、緻密な魔力操作ができれば可能だ。

 無詠唱と予備動作の破棄。これらは魔導書にも方法が載っているかなりポピュラーな技術である。

 回復魔法は攻撃魔法と違って派手ではないので、滅多なことではバレはしない。しかも、回復薬を使っているという先入観も、見る人間の目を誤魔化すのに一役買っていた。


 問題は回復魔法の燃費が悪く、一日に何度も行えないことだ。

 実際、あのくらい深い傷を治すために必要なのは中級回復魔法。アスタが使うのは一日に三度が限界だ。

 際限なく使えるなら医療所的な稼ぎ方もできたのだが、あまりに燃費の悪さに諦めた過去がある。


 まとめると、自分に頼るしかない冒険者たちをカモにしてまず高額を提示する。値段に激昂した冒険者たちに対して、回復魔法の効果をあたかも回復薬の効果であると錯覚させ、そこまで言うなら……と値段を下げる。

 すると、回復薬の効果を直接目にし、値段が下がることで冒険者たちの購入への心理的ハードルはぐっと下がる。


 そうして大した効果もない五等級回復薬を1個20万ガルで売った後、霧のように消えてほくそ笑むのだ。


 アスタにとって、冒険者たちのその後など興味がない。

 詐欺商人への恨み言を吐きながら死ぬかもしれないし、アスタから買った商品のおかげで運良く助かるかもしれない。

 そんな「かもしれない」はアスタにとって金にならない些事でしかない。


 そもそも、アスタに頼らなければならない状況になった時点で、冒険者たちの助かる可能性は限りなく低いのだ。

 一流の冒険者はまず怪我をしないし、怪我をしても脱する術を持っている。

 帰ることもできないほどの怪我を負った時、冒険者の命はそこまでだ。

 だから、アスタが垂らす細すぎる蜘蛛の糸を掴んでしまうのだろう。


「ご愁傷様。運が悪かったね。冒険者なんて危険な職業してるんだから、自業自得だよ」


 今しがた商品を売りつけた彼らに一言そう言うと、アスタは朝霧の中に消えていく。

 清々しいほどのクズである。


「とりあえず、悪評が広まるまではこの稼ぎ方でいいかな」




 彼は知らない。

 まだ、知らないことだらけだ。


 アスタには、錬金術師として研鑽を積んだ自負がある。

 万能薬エリクサーを作ることが出来た時、彼は「俺天才じゃん!」と打ち震えたのだから。

 効率的なスタートダッシュと環境、祖父テオの教え。

 それらが、彼に大いに自信をつけていた。錬金術に関して、そこらへんの有象無象に負けるつもりはない。というくらいには自信があった。


 それでも、どんどんとズレは増していく。

 それは単純に、アスタの想像以上に、アスタは才ある人間だったからだ。

 

 例えば、彼の作る五等級回復薬の効果が一般のものと大きくかけ離れていること。アスタはそれを知らない。

 彼は自分の作った生成物を自分で消費しない。なぜなら、それは金の種を無料で捨てる行為だからだ。

 危険を徹底して避ける彼は目立った怪我をしないし、しても回復魔法で治すことが出来る。

 つまり、致命的なズレに気付くことが出来ないでいるのだ。


 彼が知っているのは五等級回復薬の一般的な効能のみ。

 まさか自分の作るそれが、実態と大きくかけ離れているなどとは夢にも思わない。

 レシピも素材も全く同じものを使っているのだから、当然と言えば当然だ。


 ただ彼が知る錬金術の当たり前は、世界最高の錬金術師の当たり前。

 閉じた環境で育った弊害が、ここに来て顕著に表れている。


 そしてまさか、冒険者の中で、自分が『幸運の象徴』と囁かれ始めていることなど知る由もない。


 彼が自分と周りのズレを知り、「もっと金稼げたじゃん……!」とのた打ち回るのは、もう少し先のことだ。


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