第7話 時間というもの
そんなこんなで、少しずつ、夕方の食事タイムの準備が進んでいく。
基本メニューは、カレーと、ピラフ。そして、店長のお任せセットというメニューを作ったのだが、まあ、簡単にいえば、ランチの日替わりのようなものだった。
普通のランチタイムの、
「日替わり定食」
というと、
「曜日ごとで決まっている」
というのが多いのかも知れない。
そのメリットは、毎回メニューを考えなくてもいいというのと、パターンが決まっていることで、準備も難しくもなく、うまくやれば、野菜にしても肉にしても、
「破棄が少なくてすむ」
ということになるであろう。
それを考えていると、
「日替わり定食がいいのかな?」
と思っていたが、せっかくの夕食なので、当初はハッキリと曜日で決めることなく、自分でできるようなものをしていこうと思ったのだ。
そしてマスターは、それと同時に、
「新メニューへの挑戦」
ということも考えていた。
マスターは性格的に、
「一つのことに熱中すると、時間を忘れるくらいに没頭するところがある」
と、周りからいわれ、自覚もあった。
「悪いことだとは思わない」
というように、まわりの人もそんなマスターを、
「いい人だ」
と思い、そう思う理由が、
「一つのことへの集中力がハンパないところだ」
と思っていたのだった。
「一生懸命にすることが、俺にとってのベロメーターのようなものだからな。そのためには、積極的な気持ちになって、いつも探求心を忘れないという気持ちになれればと思うんだよ」
とマスターは、常連に話をしていた。
常連もそれを聴いて、
「自分にそんなところがあるから、同じような性格をした人に惹かれるのだろうし、そういう人たちが自然と集まってくると思うようにしているんですよ」
というのだった。
ということで、マスターの新メニューの開発が始まった。
そういえば、マスターは、脱サラしての、喫茶店経営であったが、元々は、会社で、
「プログラマー」
のような仕事をしていた。
マスターが若い頃というと、プログラムというのは、まだまだ壁の厚いもので、
「専門的な知識がなければ、組むことのできない」
と言われる仕事だったのだ。
本当に最初は、プリンターなどもなく、紙テープのようなものに穴が開いたようなものが、印刷物の代わりだった。
次第に、プリンターが普及してきたことで、そんなのも、どんどんなくなっていったが、今から思えば、
「よく、あんな環境でプログラム開発ができたな」
と感じるのだった。
次第に、エンドユーザーと呼ばれる人たちも自分たちで開発もできるようになり、少しずつ、会社でも、
「システム部」
というものが確立していったが、その実態を本当に理解している人は少なかったのだ。
当時は、まだ、
「身体を動かしたり、少々無理をするのが、仕事だ」
と思っている人が多かった。
しかも、そういう連中が、経営陣に多いのだから始末に悪い。システム部というと、本来であれば、花形でなければいけないものを、当時はなかなか認知もされていなかったことだろう。
しかし、システム部の開発が次第に増えてくると、さすがに経営陣も、システム部を優遇しないわけにもいかなくなる。
しかも、他の会社では、
「システム部は、花形だからな」
と言われているのだ。
そういうことになると、上野人たちも、あながち無視することもできなくなった。
だから、若いうちは、会社からも優遇される上に、
「何もないところから新しいものを作り出す」
ということの悦びが、一番楽しいと思っていたマスターにとって、
「今のこの仕事は、これ以上楽しいものはない」
と思うようになっていた。
システム開発をしていると、
「これ以上の愉しみは、なかなか味わえない」
と思うようになり、同じ仕事をしている連中も結構楽しそうだった。
実際に、仕事が佳境を迎えて、毎日終電で帰るくらいになっているのに、皆疲れてはいるが、嫌な顔をしているという様子はなかった。
皆、
「開発が好きで、三度の飯よりも好きだな」
と嘯いている人もいて、
「実は俺もなんだ」
と同調しているのを聞くと、
「自分もなんだよな」
と心の中で呟いている自分がいるのがマスターだったのだ。
とにかく、
「開発」
という言葉に、並々ならぬ思い入れがあったということであった。
一生懸命に仕事をしていると、
「今日は、どこまでやろう」
という目標が、自然と頭の中にできあがる。
そのうちにそれがルーティンとなり、やりがいにもなってくるのだ。
そして、余裕があると、目的の自分に課したノルマまでできたとしても、まだ、さらに先を目指そうとする。
その余力が、やりがいとなって、自分の中で花開いていく気がするのだ。
それが有頂天となり、いい仕事ができる要因になるのだった。
しかし、ある時、無理がたたったのか、身体を壊してしまう。
その時はまだ、
「仕事がしたい」
という意欲を失っていたわけではない。
「身体さえ治れば、後はまた今まで通りに充実した開発ができるんだ」
とばかりに、
「早く治ってくれないかな?」
と感じていたものだった。
しかし、実際に体調が戻り、会社に出勤してみると、どこかがおかしい気がする。
そもそも会社で倒れたのだから、その意識がトラウマとして残っているということを失念していたのだ。
だから、仕事に復帰し、
「今までのように、バリバリ仕事をするぞ」
と思うのだが、なぜか、身体が動かない。
それは、油が切れたゼンマイ仕掛けの人形のように、堅くて動かないという思うがそのままだった。
「仕事ができない?」
という思いが、焦りやジレンマに陥り、今度は、精神が病んでしまった。
その理由というのは、たぶんであるが、
「今まで自分に課してきたノルマにある」
ということではなかったか。
つまりは、有頂天になって、精神的にも肉体的にも有頂天の時であるからこなせたノルマだったのだ。
「一度体調を崩してしまうと、ある程度までは回復しても、元には戻らないので、気をつけてくださいね」
と医者から言われていたが、
「まさにこのことだったのか?」
というのを思い知っていた。
自分でも、
「まさか、こんなことだったなんて」
と思うのだが、それは、
「自分で自分のことが分からなくなるほど、身体を壊す前は、バイタリティだけで動いていたことが、禍したのだろう」
と思うのだった。
つまり、
「ピンと張り詰めた糸は、完璧に扱わないと、すぐにキレてしまう」
ということであった。
前はそれができた。身体と精神のバランスがうまくいっていたからだ、
今回は、最初に身体に無理がいき、その後復帰してからは、肉体が戻っていないということを分かりながら、前の状態に戻ろうとする。
そもそも、前の状態に戻らなければ、
「俺は前の俺に戻ることはできない」
というジレンマが待っていることになるというものだった。
「いったい、どういうことになるんだ?」
と、自分の身体への無理が、今度は精神を蝕むようになることが自覚できていた。
そして、病院に行くと、
「あなたのように、この病気を自覚できる人というのは、本当にいないものなんですよ。だから、結構末期になってやってきて、そのおかげで、医者も結構大変なんですが、あなたのように、自覚してきてくれる人がたくさんいればいいんですけどね」
というのだった。
そして、
「まあ、今のあなたであれば、そうひどいことになるわけはなさそうなので、無理なく焦らずにやっていれば、早めに仕事にも復帰できます」
と医者から言われたことで、しばらく、入院することになった。
一か月ほどの、いわゆる、
「リフレッシュができた」
という意味でも、入院は有意義だったと思うのだが、まさか、会社から裏切られるなどと、思ってもみなかった。
退院してから、部署に踊ると、そこには、自分の席はなかった。
そこに座っているのは、他の会社でシステムの仕事をしていたという、
「即戦力」
であり、どうやら、マスターは、入院した時点で、会社から切り捨てられていたのだった。
会社からすれば、無理もないことだったかも知れない。
一度目は、無理をしたことでの入院。こちらは、
「会社のため」
ということで、公傷扱いだったといってもいいが、復帰してすぐに、しかも、今度は精神疾患ということであれば、さすがに会社も見限るというものだろう。
だからと言って、ここまで露骨なことを、しかも、ずっと尽くしてきて、
「俺がいなければ会社は成り立たない」
とまで自惚れていただけに、マスターの落胆は大きかったのだ。
会社は、
「依願退職」
を申し出てきた。
「退職金は、色を付けるので、会社を辞めてほしい」
というのだ。
マスターが、露骨な嫌がらせを嫌いになった理由は、この時の会社の、
「あからさまな態度」
にあったのだ。
「俺のこの会社での時間というのは何だったんだ?」
と、マスターは思ったのだった。
だから、マスターも、
「あからさまな相手」
というのは、嫌いだった。
トラウマになっているといってもいいくらいで、冷静だから抑えられるが、少しでも精神が病んでいれば、
「ぶん殴る」
くらいのことはしたかも知れない。
退職金に色を付けてもらったことと、ちょうど、土地を安く借りれる相手が身近にいることで、
「何か店でもしようかな?」
と思った。
正直、前の会社のようなブラックな感じが、世の中に蔓延っていると思うと、普通に就職する気にはなれなかった。
そんな思いから、
「喫茶店か、バーなんかどうだい?」
と言われた。
-バーというのも心が惹かれたが、少し夜になるということで、体調面を考えると、
「喫茶店の方がいいかな?」
と思ったのだ。
確かに、バーもいいと思ったが、自分が肝心のバーをそんなに知っているわけではないので、それなら、コーヒーの香りが好きだということもあって、喫茶店にしようと思ったのだ。
喫茶店の方が利用年齢層もいて、バーだったら、常連がいないときついという話も聞いているので、
「最初にやるなら、喫茶店なんだろうな」
と思い、喫茶店を始めた。
この喫茶店の雰囲気は、
「昭和の喫茶店」
を思わせるところが好きだった。
木造というのもどこか、雰囲気を誘うもので、元々、音楽などもクラシックが好きで、その当時も、昔のレコードを買い集めるという趣味を持っていた。
さすがに、昔のレコードを売っているような店は少ないが、ないわけではない。
たまたま知っていたと言われればそれまでだが、それでも、昭和のレコードが手に入る店であれば、いくら偶然であっても、知っていたというのは、それなりに価値のあることであろう。
マスターは、そんな喫茶店の経営に乗り出してから、そろそろ五年が経とうとしていた。
喫茶店経営の五年というのが、長いのか短いのかは分からない。
「まだまだ新米だ」
と自分でいってはいるが、他の人が何も言わないので、本当に分からない。
もっとも、他の人も分かっているのかどうか怪しいものだ。喫茶店というのが、ほとんどカフェに変わっているので、カフェと比較するのは、そもそもが間違っている。
完全に、フランチャイズというもので、店長がコロコロ変わったりするものなのだろうか?
皆同じような店構えで、同じ制服で、メニューも一緒で、立地が違うだけで、それほど変わり映えのしない店が至る所にある。
本来であれば、
「せっかくそんなに一か所に集まっているんだったら、店の商品などの差別化があってもいいのではないだろうか?」
というもので、
「どの店に行っても、同じような建て方で、ショーケースに並んでいるものも変わり映えがしない」
当たり前のことであるが、それでは、結局、店で競争もくそもない。
「近いところにいく」
というだけで、同じ駅前といっても、実際の集客は、駅までの途中にあるなどという便宜性か、あるいは、単純に、大きなビルが近くにあるなどの、人が多いというだけのことなのだろう。
それを思えば、
「客の取り合いにはなるだろうが、一定数の客をキープすることはできる」
というものだ。
しかし、本部が決めた集客や利益が、実際よりも多いか少ないかで、その存続は決まる、
少しでも、赤に転じたり、それ以降に集客が望めないなどということがあれば、下手をすれば、
「閉店」
の憂き目にあうということになるだろう。
マスターは、単独というのは、そんなに簡単なことではないとは分かっていたが、自分の中では、少なくとも、
「どこかの傘下に入るのは嫌だ」
と思っていた。
そうなると、一番嫌な、
「あからさまな皮肉」
であったり、
「あからさまな仕打ち」
と受ける可能性が高いと思ったからだ。
そうなってくると、
「参加に入るくらいなら、何も脱サラなどせず、どこかの会社に再就職する」
と思っていたのだ。
そして、実際に、単独でお店を始めてみると、最初は、
「どんどん、商店街が寂れていく」
ということで、自分が早まったことをしてしまったのではないかと思った。
考えてみれば、
「空き店舗」
ということで、店を売りに出しているということは、何かがあるから、店を畳んだわけだろう。
「商店街の窮状を見て、自分のところもいずれは危ない」
と思い、引き際を考えて、早々に店を畳んだのかも知れない。
それを知らずにまわりの調査もロクにせず、簡単に契約を無図んでしまった自分のバカさ加減に、嫌気がさしてきたくらいだった。
だが、それでも、まだ商店街の中で頑張っている人たちもたくさんいた。
「この店が復活してくれたおかげで、やっと会議ができる場所ができましたよ」
といって、商店会長さんは喜んでいた。
今までは、会長さんの家出会議をしていたようで、どうしても、人が皆入らないという欠点があったので、決め事もかなり時間がかかった。そのため、何かを決めるにも、かなり前から動かないといけない状況で、それだけ、前倒しが多くなり、
「カオスだったよ」
といって、会長さんは今だから笑って話ができるといっていたのだ。
だが、実際の商店街は、そんな笑っていられるような場合ではなく、相変わらず、郊外型ショッピングセンターの力が影響していたのだ。
それでも、閉店ラッシュはある程度落ち着いたようで、その時に残った店は、しばらくはそのままこの商店街で経営していた。
だが、逆に、いきなり店が変わっているというようなことも珍しくはなかった。代わっているというよりも、貸店舗の貼り紙が増えたといってもいいだろう。
「なかなか、定着しないんですよね」
と、商店会長さんも言っていたが、
最初の頃は、どこかが空くと、すぐに他の店が入ってきたのだが、次第に空き店舗になってしまうと、そのまま、空き店舗のままというところが増えてきたというのも、時代の流れになっていたのだろう。
そんな中で、その商店会長からの要望で、
「夕方の食事がほしい」
ということであった。
最初は他の一般客からの要望だけで、
「他にも要望があれば、考えないでもないけどね」
と、あまり乗り気ではなかった。
しかし実際にいってきたのが、商店会長だったので、むげにはできないが、もし、これが他の一般客だったとしても、ちゃんと要望には応えるつもりだった。
なぜなら、元々、喫茶店をやろうと思ったのは、
「あからさまな態度を受けるのが嫌だった」
ということなので、ここで、客、しかも、常連をはぐらかすようなことをすれば、それこそ、
「あからさまな態度」
であり、
「そんなことをできるはずがない」
というのが、マスターのモットーであった。
マスターが、その時、作るようになったメニューに、隠し味ということで、ナッツ系のものが多かったのだ。
「アーモンドペーストや、パウダー状のものであったり、ケーキ材料に使うようなものを、普通の食事に入れる」
という形だった。
普通だったら、毛嫌いされるだろう。
そもそも、マスターは、
「人と同じでは嫌だ」
と思っていた。
というのも、その考えが強かったのは、大人になってからというよりも、子供の頃からのことだった。
当時の小学生は、皆一緒に遊んでいても、それぞれに個性を大切にしていた。
いわゆる、
「ガキ大将」
と呼ばれる人がいて、その人が自分の取り巻きになりそうな人間を集めるのにも、しっかりと自分の考えを持った人をまわりに集めるのが、主流だったのだ。
だから、自分の個性を持っていない人間をあまり仲間に入れたくないと思っていた。
もちろん、ただそれだけのことで、
「村八分」
というようなことはしない。
ガキ大将というのは、自分が、されて嫌なことは、なるべくしたくはないと思うものであり、
「苛めの先導者」
というような人間では決してないのだ。
どこかのアニメのガキ大将のように、
「お前のものは俺のモノ。俺のモノは俺のモノ」
という、明らかに理不尽な恫喝でまわりを従わせるというようなものではないのであった。
確かに、アニメのガキ大将は、かなり理不尽ではあるが、今の時代の、
「苛めの先導者」
ほど卑劣なものではない。
特に昔のガキ大将あ、そんな性格であるくせに、
「勧善懲悪」
という精神を持っているのであった。
「俺が悪をやっつけてやるから、俺に従え」
という雰囲気の、一種の封建制度に近いものだといってもいいだろう。
封建制度というのは、武士にとっての命よりも大切なものは、土地であった。その土地を領主が保証してやるかわりに、領主が戦をする時には、兵士となって、奉公するというような双方向からのいわゆる、
「御恩と奉公」
と呼ばれるもので結びつく関係であった。
そこには、土地というものの保証があることで、成り立っているものなので、戦で手柄を立てたものが、
「論功行賞」
という形で褒美を受けとるというのが、封建制度の、
「御恩と奉公」
だといってもいいだろう。
鎌倉幕府においてそれが揺らいだことが、滅亡のきっかけになったのだが、
「元寇」
というものがあり、中国大陸から、元帝国が攻めてくるということで、日本の防備のために、御家人が九州に集められ。実際に戦を行い、血を流しながらも、日本を守ったということになるのだが、実際には、日本は戦によって、領地が増えたわけではない。
つまり、戦に勝っても、褒美としてもらえる土地が、どこにもないのだ。
元寇に備えて、御家人は借金をしてでも、博多の備えに出向いたのに、論功行賞で借金を返して、土地を取り戻そうと思っていたものが、まったく当てが外れてしまうことになる。
幕府も当てが外れたわけで、どうすることもできない。何とか、
「徳政令」
という借金棒引きをという手を打ったが、実際の褒美がないのであれば、どうしようもない、
鎌倉幕府に対しての不満が爆発したところに、朝廷が出てきたというのは、ある意味、自然な流れだったのだろう。
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