第6話 夕方の喫茶店
息子が継ぐと言い出す前、まだ先代がある程度というよりも、かなり全盛期に近いくらいに気合が入っている頃のことだった。
当初は、飲料中心という感じだったが、少し経営にも自分の時間にも余裕ができてくると、
「新しい、食事のメニューを開発したいな」
と思うようになっていた。
元々は、カレーやピラフなどの、簡単な軽食は作れていたが、それ以外となると、なかなか難しかった。
ランチタイムであれば、昼の間だけ、アルバイトが入ってくれて、ちゃんと出せるだけのメニューを作ってくれるが、夕方近くになると、
「子供のお迎えがある」
ということで、なかなかランチタイム以外の料理に手が回ることはなかったのだった。
確かに、下準備だけでも、バイトの人にやってもらえばいいのだろうが、マスターがそれを作る自信がないのと、夜の客層に、それほど食事をたしなむような人がいないということで、
「ディナータイム」
というのは、実現しなかった。
しかし、客の中に、
「夕食もここで食べたいな」
といってくれる人が現れた。
ただ、一人の意見で、簡単にできることではなく、
「もっと、たくさんの意見があれば、考えるんだけどな」
といってごまかしてきたが、どうやら、他にもディナータイムをご所望の客はいるようだった。
「マスターが夕食の時間を作ってくれるんだったら、ここに食べにきてもいいよ」
という客もいたのだ。
というのは、この店は、商店街の近くにあることから、ここの常連というと、
「商店街に店舗を持つ人たちの店長さんクラスが多い」
ということであった。
だから、朝は、商店会の会議を行ったりするのに、その時は、飲み物だけでいい。しかし、たまに夕方に会議を行うことがあり、その時は、
「何か腹の足しになるようなものがあればいいんだけどな」
ということを言ってきたので、
「じゃあ、臨時として、商店会がある時だけ、軽食を用意できるということにしようか?」
とマスターが言い始めた。
商店会と言っても出席者は6人くらいで、奥のテーブル一つで収まるのだった。
だから、基本的に夕方客が少ないので、普段は閑古鳥が鳴いていた。しかし、商店会の日が活気にあふれていて、マスターもありがたいと思っていたのだ。
それでも、閑古鳥が鳴いているという夕方以降であっても、その時間いる客はいつも決まっていた。
そして、そういう客は、いつも同じだったのだ。
だから、マスターも、
「夕方から来てくれるお客さんが、本当のうちの常連さんといってもいいんだろうな」
というのであった。
「本当にありがたいよ。優方からのお客さんは、朝かランチタイムにも来てくれるから、本当にうれしいですよ」
とマスターは手放しに喜んでいた。
本当であれば、
「跡取りがいないのなら、キリのいいところで、店じまいをするかな?」
といっていたのだが、常連が夕方も来てくれることから、
「うちの店を本当に好きでいてくれる人がいるというのは心強いし、裏切ることができないと思うんだよな」
というのだった。
そんな時、マスターが考えていたのは、
「新しいメニューの開発」
というものであった。
もちろん、最初からそんな大それたことができるなどとは思ってもいなかった。
「とりあえずは、定番のメニューを作れるようになればいい」
という程度のことで、
「ちゃんとしたお客様に出せるようなものもできないうちから、新メニューなどというのは、何たるおごりなんだ」
というくらいであった。
一応、バイトの子のランチタイム、助手的なことはしていたので、見ていて学べるところもあった。
実際に手伝いながら、自分の中でレシピを作成してみたりして、自分でも作ってみたりした。
やっと、
「これなら出せるかな?」
と思ったところで、バイトの女の子に試食をしてもらうと、
「マスター、これなら、免許皆伝です」
というではないか。
「じゃあ、これを夕食時間帯でディナーサービスとして出しても大丈夫だろうか?」
ということで、彼女も、
「大丈夫です」
というお墨付きをもらったのだ。
それにいい気になったマスターは、実際に、常連を中心に食べてもらうことにすると、常連も、
「本当に作れるようになったんだ」
とビックリしていた。
自分たちが、
「夕食もあったらな」
といってはみたが、実情から言って、
「叶わないだろうな」
と思っていたのだ。
それもそのはず、
「マスターが頑なに断っていたのは、料理ができないからだ」
と素直にそう思っていたからだ。
実際には、経営のことを考えてのことだとは思っていなかったので、常連としては、複雑な気持ちだった。
「意外としっかりしているんだ」
という思いと、
「マスターがここまで経営に熱心で、その分、少し冷めた考えを持っていたんだ」
ということを感じたことで、少しマスターに対しての自分の中でのトーンが下がったような気がしたからだった。
それでも、マスターが作る料理は、
「喫茶店というと、チェーン店のカフェしか最近はないので、そこで作っているパスタのようなものよりも、ずっとマシだ」
と思った。
正直、チェーン店のパスタは、最初はいいかも知れないが、飽きるのもすぐで、一旦飽きてしまうと、もう完全に飽食状態になってしまって、
「見るのも嫌だ」
となるのだった。
だから、すぐに行かなくなる。
かといって、作業もしたいので、普通の食事処では、食事だけになってしまうので、それは困る。やはり。
「作業ができて、おいしい食事ができる昔ながらの喫茶店」
というものを探し求めていたといってもいいだろう。
「マスターの食事はそれくらいがありがたい」
と常連皆が言っていた。
マスターもそれを聴いて、
「やっぱり、やってみてよかった」
と、ディナータイムが自分でどんどん楽しくなってくるのを感じていたのだ。
「さすが、マスター」
と言われるのが嬉しくて、思わず、
「もう金取れないじゃないか」
という冗談を返すくらいになっていたのだ。
客の中には、
「現在におけるサービス」
を所望する人もいた。
今であれば、WIFI環境なるものもそのうちなのだろうが、その当時はWIFIなるものが、言葉として浸透していたわけではなかったので、とりあえず、座席に一つはLANケーブルと、電源を用意してくれていた。
LANケーブルまではさすがに他の店にはないだろうが、電源は、貸してくれるところもその頃は徐々に増えていたのであった。
当時はどのような言われ方をしていたかは忘れたが、
「ノートパソコンを持ち歩いて、家の外でも作業をする」
という人も多かった。
「コワーキング」
あるいは、
「ノマド」
と呼ばれる人たちなどに使われる場所である。
事務所を持たず、会社に行かず、自分で起業したりして仕事をする人、あるいは、作家や、マンガ家、WEBデザイナーなどと呼ばれる人たちもそのうちである。
今では、一般的なチェーン店のカフェでも、
「電源が使えるスペースや、WIFIが、店内どこでも使える」
というのが当たり前になっていて、実際に使えないと、
「客が減少する」
というところもあるだろう。
それでも、電源というと、元は電気である。基本的に電気というのは、資産になるので、それを無断で使用すれば、
「窃盗」
ということになる。
だから、無断で使うのは、本当はいけないことなのだが、今のように、どこでも使えるところがあるのに、
「電源借りてもいいですか?」
と聞くと、あからさまに、
「ダメです」
という店もある。
同じチェーン店、昔からある全国チェーンとして有名な、
「Dコーヒー」
であるが、友達の話として、
「一度、誰かほかの客が電源を使ってスマホを見ていたので、自分もいいだろうと思い、電源を拝借していれば、何と、最初はちゃんと充電できていたのに、途中から、電源に差し込んでいるのに、充電できなくなっていた」
ということがあったという。
たぶん、店の人間が、
「電気の送電を止めるような仕掛けを最初から施していて、送電をその時だけ止めていたのではないか?」
と言っていたが、状況から考えて、それ以外に考えられることではなかった。
確かに、無断で資産を借用しようとしたのは悪いことであるが、少々くらいの融通を利かせてくれてもいいものを、正直、それから、もうそのチェーン店にはいかないといっていた。
その男は、一日に、朝昼晩と3回は利用していたのだから、店としては痛くもかゆくもないかも知れないが、今の時代にそんな露骨なことをしていると言いふらされたら、客足に響くだろうに、それほどの、
「殿様商売」
をしても、店の経営には関係のないということであろうが?
そんな店舗もある中で、普通の喫茶店は、昔からの伝統があるのか、基本、電源を借りるのは難しかった。それだけ、まだ表で作業する人も少なかったということであろう。
さらに、数年前に流行った、
「世界的なパンデミック」
のせいで、
「会社にいかずに、テレワーク」
などと言われるようになって、ホテルの部屋であったり、個室でのレンタルスペースというものが見直されるようになっていた。
それが、今の、
「ノマドスペース」
と呼ばれるところであり、ネットで調べると、チェーン店のカフェも今の時代では載っていたりする。
もちろん、
「Dコーヒー」
は、載っているわけはなかったのだが……。
さすがに、Dコーヒーは、ノマドスペースとしては紹介されていなかった。
「さすが、殿様商売」
と思ったが、実際に喫茶店で紹介されているのは、Dコーヒー以外の全国チェーンを展開している店舗のほとんどであった、
しかも、都会ともなれば、何店舗もある、特に玄関口になるターミナル駅の周辺などは、
「駅前店」
「駅東店」
「駅南店」
などと、それぞれにある。中には駅構内にもあったりして、実に盛況だ。
特に最近は、私鉄でもJRにおいても、以前は経営していた店をほとんど撤退し、その場所をコンビニであったり、店舗を貸す形で、販売に関しても委託を行っているというのが、現状のようだった。
だから、今は、駅の売店というと、おみやけやを開いているくらいで、それ以外は、コンビニになったりしている。
特に、地域の玄関駅などのなると、5、6店舗もあったりする。
「地下にあって、1回にあり、改札を抜けて、ホームに向かう途中にあったり、新幹線の改札を抜けたところにもある」
というような感じである。
コンビニと同じように、コーヒーややファストフードの店も多く、ハンバーガー屋や、ドーナツ屋なども、多かったりする。
もっとも、ファストフードの店は昔からあった。コンビニが駅構内に目立つようになったのは、ここ十数年前くらいからであろう。
そうなると、駅構内などで、WIFI環境が充実してくる。特にスマホが流行り出してからは特にそうだ。
だから、
「WIFI環境のないところ店には立ち寄らない」
という人も多い。
電源にしてもそうであろうから、ひょっとすると、Dコーヒーは、殿様商売を辞めないと、それこそ、
「経営の危機」
ということになるかも知れない。
それを思うと、実際にノマドスペースは結構広がっていて、そのうちに、以前であれば、ネットカフェでやっていたことが、今では、
「ノマド専用の個室」
というところを事務所として使う人も多いだろう。
何といっても、ネットカフェというところは、マンガを読んだり、睡眠に利用する人がほとんどで、いまさら、ノマドに使うには、狭すぎるということもある。しかも、調度が暗いこともあって、正直、ノマドには向かない。何と言っても、空気の悪さは、最悪で、昔など、喫煙禁煙と別れているところに、
「禁煙ルーム」
といって、喫煙ブースとはかなり離れているのに、相当きつい臭いがしてくることは当たり前にあった。
「喫煙ブースから一番遠いところ」
と指定してそこにいっても、結局、鼻を衝くくらいのひどい臭いがしてくるのであった。
それなのに、その頃は、カフェでは、なかなかノマドとして活動はできない。そのために、
「嫌でもネカフェを使うしかないんだよな」
といって、諦めるしかなかったのだ。
ちなみに、
「ノマド」
というと、何かの略語のように思うが、実際にはそのままで、
「遊牧民」
というような言葉のようだ。
「事務所を持たずに活動する」
という人間を表す言葉としては、ピッタリではないか。
マスターは、当時、電気などは、
「使いたければ別にかまわない」
と思っていた。
席も空いていれば、コーヒー一杯で、反日くらい粘る客がいてもいいと思っていたのだった。
確かに、一時間いれば、いくらくらい客がお金を出してくれないと、赤字になるというのは、ある程度の常識として分かってはいたが、それを露骨にいえば、今せっかく来てくれている常連さんが来なくなってしまうことだろう。
特に当時の常連さんは、
「他のカフェだと、何か味気ないからな」
といって、この店に入りびたっている。
他の店は、どうしても、チェーン店ということもあり、
「回転率を上げる」
ということが至上命令になっていて、粘るというのは、なかなか難しかった。
それを思うと、
「ここはいいよな。開放的だし、仲間もたくさんいるから」
と常連は言ってくれる。
マスターは有頂天になって喜んでいるが、それもまんざらでもない。確かにこの店では、居心地がいいのだ。
何がいいといって、
「露骨なことをされない」
ということであった。
「Dコーヒーのように、露骨に電源への電気の供給を止めるようなことがないからだ」
と言えるだろう。
マスターは、正直がモットーだといっていた。だから、
「嫌なことは嫌だ」
というので、人によっては、そんなマスターを毛嫌いしている人もいるだろう。
しかし、それでもマスターは、経営者である。背に腹は代えられないこともあるが、その分を、
「自分のサービスの工夫で何とかしよう」
と思っていたのだ。
露骨なことが大嫌いだということは、逆にいえば、
「自分がされて嫌なことは、人にもしたくない」
ということであり、自分がカフェや喫茶店に入った時、一番嫌で腹が立つのが、
「相手に対して悟らせるような、嫌がらせ的な態度をとるやつだ」
と思っていた。
特に、
「この店を常連でいっぱいの店にしたい」
と、思っている。
だから、常連は大切にする。
常連というと、
「俺、いつものやつね」
といって、ほとんど顔パスということに喜びを感じる人が一定数いる。
だから、常連の大して、気持ちよくここでは過ごしてほしいので、常連の、
「いつもの」
というのはキチンと覚えているし、
「店との間でツーカーの仲になっているんだ」
という有頂天になる気持ちを客に味わわせ、ずっと来てもらおうと考えるのだった。
しかし、店の中には、もうすっかり慣れていて、こちらが、
「いつものやつ」
といえば、ほとんどのスタッフは分かってくれる。
特にいつもの人や、アルバイトは必須なのだが、男性や、
「明らかに店長ではないか?」
と思えるようなやつには、この、
「いつものやつ」
というのが通用しない。
最初は、
「いつものやつって何ですか?」
と以前にも同じことを言って分かってもらえたのに、二度目からは通用しなくなった。
しかも、その一回だけかと思いきや、もう一度、
「いつっものやつ」
ときくと、またしても、同じように、
「いつものやつって何ですか?」
と聞いてくるではないか。
さすがに、あからさまだと思ったマスターは、二度とその店に寄らなくなった。
いや、そいつがいない時は立ち寄るのだが、そいつがいれば、あからさまに嫌な顔になり、睨みつけるようにして、店の前を素通りするのだという。
自分がマスターとして店で仕事をしている時は、決してしない表情であった。
だから、常連さんにこの話をすると、
「それはひどいですね」
と、常連同士、気持ちが分かるので、話が通じるのだ。
そして、
「いまだにそんな殿様商売をする店があるんだな」
と、その常連は呆れているようだった。
「別に聞き直すことは悪いことではないと思うのだが、それが数回続いて、あからさまだと分かると、「ああ、この人は、客の気持ちを考えようとはしないんだな」と思い、そんな露骨さが、怒りに変わっていく」
というのが、マスターの考えであった。
おそらく、話を聴いてくれた常連さんも同じ気持ちなのだろう。
だからこそ、マスターにも同調するし、同じ気持ちを持っているマスターだからこそ、この店を常連にしているんだと、常連さんも思っているのだろう。
「この店が好きなのは、やっぱり、そんな相手の気持ちを思いやることなんだよな」
と思っている。
マスターは、
「人に気を遣う」
という言葉は実はあまり好きではなかった。
「気を遣うというのは、意識しているから使う言葉であって、無意識に出ているのであれば、本人はその言葉を使うわけではなく、人が使ってくれるものであり、それこそが気を遣うということなんだろうな」
と考えていた。
だから、最近のマスターは、
「どうすれば、客に喜んでもらえるか?」
ということを考えるようになった。
ただ、それもできることとできないことがある。
どうしても、夕方などの、客の少ない時間帯に、他の人を雇うというのは、今の夕方の人数では厳しいだろう。だから、食事メニューは難しいのではないか? と思っていたのだが、
「簡単なメニューで、軽食くらいなら」
と、一応、カレーとピラフくらいなら作れるということで、夕方のメニューに加えた。
早朝は、モーニングがあり、ランチタイムはランチだけで十分に回転する。だから、食事メニューができるとすれば、夕方だけとなるのだ。
「せめて、とんかつ定職だったらできるかな?」
と思ったが、それも少し味気ないと思った。
「どうせするなら、もっと面白い企画になればいいな」
と思い、昼のランチタイム専用の女の子に、何か数種類の食事を作れるように教わっておいた。
そして、
「少し給料を上げるから、夕食タイムように、その日のメニューの下ごしらえだけでもしてくれれば助かるんだけど」
というと、
「いいですよ。ランチが終われば、私は時間まで、少し余裕がありますからね」
と言っていた。
それも、マスターが、ランチタイムで出た洗い物は一手に担っていたからお願いできることでもあった。
最初は彼女も、
「自分もします」
と言っていたが、
「いいんだよ。これくらいはこっちでできるから」
と気を遣ってくれているのが分かり、ありがたいという気持ちと一緒に、申し訳ないという気持ちが漲っていたのも事実だった。
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