第3話 城郭説話
喫茶「キャッスル」という名前をそのまま存続させ、息子は、老朽化した部分だけを改修し、店舗の大規模な改修をすることはなかった。それは、先代、いわゆる初代のマスターの意志であり、それには、二代目店主である息子も同意見だったということもあり、マスターの言う通り、最小限の改修となったのだ。
だから、店の佇まいは、昔のまま、
「昭和の純喫茶」
という雰囲気を醸し出したままの営業ということになったのだった。
ただ、都会に出ると、街中にある喫茶店というと、チェーン店経営のカフェのようなものが多く、朝は7時半くらいから経営しているのだったが、通勤の手前に、軽くコーヒーと朝食という感じで、店で粘っていくような客は少なかった。
昭和の純喫茶もそのようなせわしい客もいるにはいたが、一番の違いは、
「チェーン店のカフェには、雑誌も新聞も自由に読めるものが置いていない」
ということであった。
「読みたければ、駅などで買ってきて、読むしかない」
ということで、最初から店に置いていないということは、店としても、
「長居をされては困る。回転率を増やさなければ」
ということであったのだろう。
しかし、開店当初はそうでもなかったのだろうが、ここまで似たような喫茶店が、乱立してくると、早朝やランチタイムなどでも、満席になるということはほとんどなかった。
朝も、立ち寄っていく人は多かったが、女性などは、テイクアウトが多く、店内での飲食が思ったよりも少なかったと思っているかも知れない。
もっとも、そのあたりの見積もりを他の人が知ることはできないので、店舗側も、最初から、
「イートインしてくる客は少ないかも知れないな」
と見越していたのかも知れない。
だからこそ、新聞や雑誌などを置いておくということはしなかったのだろう。時代の流れというものなのだろうが、そもそも、
「チェーン店型のカフェ」
というのも、その頃から見れば、
「ここ十年くらいのものだった」
と思えるのかも知れない。
喫茶「キャッスル」でも、
「二代目襲名」
という大げさなことはしなかったが、店主として、城田ジュニアが店に入ってきたのは、世紀末と、まだ言われ始める前の、確か、1996年か、その後くらいではなかっただろうか?
「二代目襲名」
なる大げさなことをしなかったのは、まだ初代マスターが十分現役で、名前だけは店主ということであったが、まだ会社を辞めて間がないことで、喫茶店経営はおろか、店員としても、まだまだド素人だったからだ。
しばらくの間は、初代が店主の役割を担い、実際の店主の息子は、
「見習い」
という立場だった。
それでも、根が真面目なのか、その一生懸命さは、常連たちにも伝わり、その様子は、見ていて、心地よいものであった。
しばらくすると、常連さんからも、
「なかなか様になってきましたよ」
と言われ、五代目マスターも、嬉しそうにしていた。
「確かに、二代目が入れるコーヒーは、本当においしいよ」
という声も上がった。
まだまだマスターが仕切っている時は、常連は、先代のことを、
「マスター」
と呼び、現店主のことを、
「二代目」
と呼んでいた。
しかしそれから少ししてから、呼び方も徐々に変わっていった。まず、今まで、マスターと呼んでいた、初代のことを、
「大御所」
というようになり、二代目のことを、
「マスター」
と呼ぶようになった。
これは、初代の発案だったのだが、どうやらマスターは徳川家康が好きだったようで、息子が店を継いでくれるというのが分かった時、このような青写真がすでに出来上がっていたという、
つまり、サラリーマンを辞めてすぐの息子に、すべてを任せるなどできるはずもないので、最初は自分が、息子を盛り立てながら、教育係も兼ねるということであった。
そして、そのうちに、息子が様になってくると、息子をマスターとして自立させ、自分が、
「もういいか、引退だ」
と思えるようになるまで、店の中で、
「大御所」
と呼ばせようと思っていたのだ。
徳川家の場合は。江戸と駿府で、
「二元政府」
という形を取っていたようだが、先代の場合は、家康の
「大御所」
と違い、すべてを息子に任せていた。
その表れが、息子が入ってきたその時から、立場である、
「店主」
というものを、すぐに息子に譲ったことからも、その気持ちが固まっていたといってもいいだろう。
そんな大御所としてのマスターを、息子も別に煩わしいとも思わず、逆に、
「見守ってくれていて助かる」
と思っていたことだろう。
ただ、そのことをおくびにも出すことはなかった。
「この年になって、まだ父親に頼っているということであれば、店主としては、どこか情けないような気がするからだ」
と思っていたのだった。
先代は、そういえば昔からいっていたことがあった。
「私は、店主とマスターというのは、元来別のものだと思っているですよ」
というのだ。
これは、まだ息子は店を継ぐということが決定する前の、
「ここは私の代で終わりかな?」
というような話をしていた頃のことだった。
「それはどういうことですか?」
と聞いてみると、
「店主というのは、店の中だけではなく、経営に関してその責任を持っている人であり。マスターというのは、店にいて、客のことを見守っている人のことを言うんだと思うんですよね。この店は、私が店主であり、マスターなのは、チェーン店経営じゃないからなんでしょうね。これがチェーン店だったら。経営者としての店主がいて、店を任された店長、つまりは、マスターがいるということになるんだと思うんですよ。どっちがいい悪いということは私には分かりませんが、これからの時代は、きっとチェーン店でしかなかなか生き残れない時代になってくるんでしょうね。そうなると、マスターと店主は分業制。これは喫茶店に限らず、他の店にも言えるんだと思うんですよ」
と言っていた。
当時は、確かに、チェーン店展開の店が増えてきた。特に切実に感じるのは、
「コンビニチェーン」
だったのだ。
コンビニ大手と呼ばれるところが、まだそんなに多くない時期であったが、昔からの、
「酒屋さん」
あるいは、
「酒類もおいている、昔からの店」
というのも、現存していた。
店の奥には、
「角打ち」
と呼ばれる、カウンターだけのまるで、
「ウナギの寝床」
のような細長いところで、近所の常連さんが集まって、飲んでいたのだ。
その雰囲気は、まるで、
「酒盛り」
とでもいえる光景で、その雰囲気は、世紀末から、世紀をまたぐ間くらいに、見ることができないものになっていったのだった。
どうして、なくなっていったのかというと、
「店が取り壊される」
ということはなかった。
どうなったのかというと、
「コンビニチェーンに変わってしまった」
ということであった。
つまり、コンビニには、フランチャイズというものがあり、直営店ではないが、街に点在している酒屋を取り込むことで、酒屋に
「フランチャイズの店長」
として、店を経営し、その一部を本部に上納するという形である。
ノウハウはすべて本部が段取りし、店長は、店の現場責任者として君臨してくれればいいということなのであろう。メリットは仕入れ値が抑えられ、売れたモノの利益が高いということであった。
そして、もう一つの大きなものとしては、元々の店を閉める理由と言われていた、
「後継者問題」
というものであった。
息子がいないなどして自分の代で終わりだと思っていた店主が、フランチャイズの傘下に入ることで、自分が店主引退の際には、店長補佐と本部から送りこみ、実質を彼にやらせて、店長は、引退した形であっても、名前は残り、利益も得られるというものであった。
実際に、ここまでいい話であったかどうかは、分からないし、コンビニによって、微妙に契約も違うのだろうが、
「時代の流れ」
として、このような時代があったのは事実だった。
だから、今は全国に、所せましとしてコンビニが乱立しているわけで、これらも、なるほど、
「海外のやり方なんだな」
と思わせるのであった。
お城というのも、実は、昔はかなりの数があったという。今のコンビニの数の三倍近くあったという話もあるが、なまじウソでもなさそうであった。
それというのも、
「城というのは、天守閣が必ずある」
と思っている人から見れば、信じられないことだろう。
しかし、本当に城というものは、
「本拠を守る」
という意味で、防衛の拠点には、ほとんど作られている。
いわゆる、
「支城」
と呼ばれるもので、そこは、櫓や見張り台であったり、敵の侵入を防ぐための最低限のものが組み込まれているものだ。
もちろん、簡易の濠のようなものや、石垣であったり、高台から敵を狙い打てるような仕掛けがあったり、侵入の際に、足場を不安定にしておけば、足元と前からの攻撃と両方に備えなければいけないという細工も施されていたりする。
だから、支城と言ってもバカにできるものではない。支城一つ落とすだけで大変だったりするのだ。
当初は、本城であっても、山の上に作られていたり、周りに川が流れているなどの、自然が、
「天然の要害」
を張り巡らせていて、知られているような、大きな水堀であったり、高い石垣などという仕掛け、さらに、天守のようなものもなかったのである。
戦国期でも、中盤以降にならないと、天守を持った城などがあるわけもなく、そんな時代には、城の中には、本丸、二の丸、三の丸と言ったものがあるくらいで、そのまわりに見張り台のような、櫓が建っている。
兵は、山城であれば、麓に住んでいて、城が攻められる時、下から山に登って、城の防衛をするのが、当たり前だったのだ。
しかし、時代が進んでくると、兵も城の中に住むようになり、
「総構え」
と呼ばれる、城全体の中にいわゆる、
「武家屋敷」
なるものが作られるようになった。
さらに、城の中では、農家のようなものもあり、野菜などが育てられるところもあった。
時代が進むにつれて、籠城戦ともなれば、攻城軍は、取り囲んでから、相手の兵糧が尽きるのを待つという、
「兵糧攻め」
を仕掛けてくるようになる。
そうなると、援軍があったとしても、城に入る前に捉えられた李攻撃をうければ、兵糧の確保は難しくなる。
だから、城内で作物の栽培ができれば、これに超したこともない。
そもそも、戦国時代の兵というと、当初は、農民が駆り出されるということが当たり前だった。
「戦争は武士がするもの」
という時代は、戦国が進んできて、実際に確率したのは、羽柴秀吉による、
「太閤検地」
からではないだろうか。
太閤検地というのは、
「土地を測量し、その土地の広さによって得られる作物の量を石高という形で選定し、秀吉の選定した領主は、その年貢に応じて、戦争があった時、兵を徴収する数を決める」
というものであった。
「〇万石」
などと言われるのは、土地から上がるコメの数を元に算出されるもので、領地の広さとは比例するものではないのだった。
そして、太閤検地の目的は、
「戦は武士が行うもので、百姓は田を耕すものだ」
という、
「完全分業制」
をすることになるのだった。
元々、これが封建制度の基本だったはずなのだが、どのあたりから、農民までもが駆り出されるようになったのか、それをただしたのが秀吉ということになる。
これだけでも、秀吉の功績、あるいは、政治体制はしっかりしていたということだろう。江戸幕府を開いた家康も、秀吉のやり方を踏襲したところは結構あるだろう。
それが、秀吉という男のやりかたであり、
「まわりの人間が優秀だった」
ということもあるだろう。
軍師として有名な黒田官兵衛、城づくりの名手であり、秀吉の一番の相談役である弟の秀長、さらに、内政を一手に任せた石田三成と、戦働きをできる武将だけではなく、頭脳派と呼ばれる人がたくさんいたのも、秀吉のよかったところではないだろうか。
そんな秀吉は、たくさんの城を築いた。
有名なところでも、天下一の城として有名な、
「大坂城」
今残っているのは、大阪の陣で焼失した、豊臣大坂城ではなく、その後に再建した、徳川大坂城であった。
実際の豊臣大坂城は、天守は黒を基調にしていて、ところどころ金箔が催されている。重厚さときらびやかさの調和が、豊臣大坂城の特徴だった。
しかも、濠の大きさ、石垣の高さも日本一、伊賀上野城や、四国の丸亀城と、石垣の高さで有名なところもあるが、
「見ただけで圧倒される」
というのは大坂城が圧倒的であろう。
大坂城というと、さらには、櫓の数もかなりあり、
「他の城では、天守としても普通にあるくらいの櫓が、本当にたくさんある」
ということであった。
それまでの城というと、
「やっと天守を備えた城が出てきた」
というくらいで、ここまですごいというのは、ビックリさせられるものだったであろう。
特に、ここの武家屋敷はかなりの広さがあったに違いない。
何しろ、各地の大名の家族を、大阪城内の武家屋敷に住まわせたのだから、かなりのものだっただろう。
半分は人質としての様相も含まれている。
「家族を大坂城にかくまっているのだから、謀反を起こそうものなら、家族の命はない」
といわんばかりであった。
大坂城には、とにかく、天下人である自分の権威を表すという大目的があったのだ。
その次に着目すべきは、京都にあったと言われる、
「聚楽第」
であろう。
ここは、朝廷から関白の位に任じられた秀吉が、京で執務を行う時のために作らせたもので、城郭建築や、館のような建築とを融合させたものだと言われている。
特に、京ということで、朝廷、天皇に対しての思惑が強いことで、
「絢爛豪華」
なつくりを最優先したのだろう。
つまり、
「聚楽第というところは、関白の館である」
ということになるのだ。
だから、秀吉が、自分の関白職を、
「男子が生まれない」
という理由から、安易に、養子の秀次に譲って、時分は太閤として君臨した時、聚楽第を関白になった秀次に譲ったのだ。
実際には、すぐに側室の淀君が秀頼を生むことで、
「しまった」
と思った秀吉によって葬り去れることになるのだが、その有様は、まるで、室町幕府における、
「八代将軍足利義政」
を地で言っていたといってもいいだろう。
義政の時は、奥さんの日野富子にも、側室にも男子ができず、出家していた弟を還俗させて、将軍に据えたのだが、すぐに、子供が生まれた。元々弟に管領である細川勝元をつけていたことで、窮地に立った日野富子だったが、対立していた、山名宗全を味方につけて、対抗した。
しかし、それがまずかったのか、赤松家の、
「御家騒動」
とも絡まって、細川と山名の全面戦争となったのだ。
これが有名な、
「応仁の乱」
である。
この戦は、各地の守護大名を巻き込んで、西軍東軍に別れて、大戦争を引き起こした。
実に11年間という長きにわたって、勝ったり負けたりを繰り返し、結果、京の街は焼け野原になってしまったというのだ。
この戦争が終わったのは、元々の大将であった、山名宗全、細川勝元と、次々に亡くなり、さらに、実際に戦をしている守護大名の、元々収めているところで、領主がいないのをいいことに、反乱がおこったりして、尻に火がつき始めたんpだった。
それにより、
「京で戦などやってはいられない」
ということで、領国に帰っていく。
そうなってしまっては、もう戦というものはなりたたなくなる。
結果
「自然消滅」
というような形で終わってしまった応仁の乱であったが、この乱が、その後に訪れた、
「戦国時代の幕開け」
という人もいるくらいだ。
直接の原因ではないかも知れないが、大きな影響を与えたのは間違いないだろう。そう思うと、
「歴史は繋がっている」
あるいは、
「歴史は繰り返される」
というのも、まんざらでもないような気がする。
実際に秀吉も、
「息子に権力を譲りたい」
と思うのも当たり前のことで、義政における日野富子と同じ立場であった淀君も、日野富子に負けず劣らずの欲を持った女で、それが、その後の秀次事件を引き起こしたのだ。
秀次事件というのは、秀次が、
「素行の悪さが目立つ」
ということもあり、
「秀次が謀反を計画している」
というウワサが流れたことで、秀吉が本当に信じたのか分からないが、結果として、捉えられ、高野山に幽閉された。
「その後、切腹を命じられ、切腹して果てた」
というのが、
「秀次事件」
であった。
そして秀吉は、秀次の亡霊に悩まされたともいうが、それが本当かどうか分からないが、何といっても、秀次の身内を皆殺しにしたくらいなので、亡霊に悩まされたとしても、仕方がないという思いがあったのかも知れない。
しかも、秀次が生きた証ともいうべきものを、徹底的に破壊もした。だから、せっかく自分が作り、
「関白の屋敷」
として君臨していた聚楽第も、跡形もなく取り壊したというのだから、それはひどいものだったのだろう。
だから、聚楽第というのは、資料はほとんど残っていない。ただ、
「かなりでかい、立派なものだった」
ということは証明されているようだった。
秀吉が建設して、すでに残っていない城というと、佐賀の名護屋城がそうではないだろうか?
秀次事件の後、千利休を切腹させたりもした秀吉は、元々の野望であった、
「明国に攻め入る」
ということで、朝鮮に、
「道案内」
をさせようとして、朝鮮が断ってきたことから、朝鮮への出兵を命じた。
その時に海を渡ったのは、佐賀の名護屋という場所からであったが、そこに朝鮮出兵のための巨大な城を築いたのだった。
その城は、諸大名が、入れるような陣を組んでいたので、大きいのは当然のことだった。
しかも、秀吉自ら出張ってきて、作戦を組み立てていたのだ。相当、真剣だったといえるだろう。
ただ、遠征はうまくいかず、苦戦を繰り返していた、現地で何とか和平を取り付けたが、秀吉が要求した内容に関して、何ら返事をしてきていないと判断した秀吉は、再度朝鮮出兵を命じたのだった。
結果はまたしてもうまくはいかなかった。
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