第4話 ロボット工学とタイムマシン
さて、もう一つ秀吉の大きな城というと、秀吉が、
「隠居城」
として作った伏見城があった。
伏見城は、実は二度の地震によって、倒壊したと言われているが、秀吉存命中に再建されていた。
秀吉が病に倒れ、死の床に就いたのが、伏見城だったのだ。
こちらは、今は再建天守が建っていて、当時のすごさを想わせてくれるものであった。
大天守と小天守が聳える城で、実際にいくと、かなりのものであっただろう。
その頃から、城というものが、結構たくさん作られるようになったのだが、その際には、天守を持った城が多かった。
元々は守りのための城だった。もちろん、城である以上、その目的であることは間違いない。
しかし、それから、
「天下分け目の関ヶ原」
を経て、徳川の時代となったが、その頃も城普請のラッシュであったのだ。
というのも、
「いまだ、豊臣を慕う大名が各地にいることで、その抑えとして、城が必要だ」
ということであった。
幕府ができたとはいえ、豊臣家は存続していて、それを慕う大名も少なくはない。
ということで、家康は、各大名の城建設や、改修を黙認したといってもいいだろう。
逆に姫路城などのように、改修を命じることもあったくらいで、まだまだ、平和な時代というわけにはいかなかったようだ。
そんな時代には、熊本城、福岡城、どの他、多くの城が作られた。
そもそも、関ヶ原の論功行賞において、転封された大名が、自分の城を築くのは、普通にあることだったからだ。
しかし、それはあくまでも、
「外様への備え」
ということで、外様であれば、制限されたことだろう。
だから、幕府に
「謀反の意志はない」
ということで、天守を作らなかったり、ある天守を壊して、他に転用したりということはあったようだ。
そんな時代が続いていたが、それもあまり長くはなかった。
家康は自分の存命の間に、
「豊臣家を何とかしないといけない」
と思い、大坂城にいろいろ言い渡したりしたが、徳川に不満を持つ、大坂城の人たちが同意するわけもない。
従わないとなると、有名な、方広寺の鐘に刻まれた、
「国家安康」
「などの言葉を言い分として、
「因縁を吹っかけてきた」
のだった。
それにより、豊臣側は、関ヶ原で浪人となってしまった武将を集め、大坂城で武装を始める。
「真田信繁」
「塙檀衛門」
「後藤基次」
「毛利勝永」
などの武将が続々と大阪城に入ったのだ。
それを口実に徳川軍も、大勢力を率いて。大阪を攻める。しかし、大坂城は難攻不落。そう簡単には落ちない。そこで、家康は天守に向かって大砲を打ち込むように命じ、たまたま、一発が天守まで届いたことで、淀君はビビッてしまった。
そもそも浅井三姉妹の長女として、落城に、二度も立ち合ったという記憶がトラウマになっていたのか、すぐに和平を申し入れるようにした。
そこで、家康は、
「外堀は埋める」
という約束だけだったものを、内堀まで埋められてしまった。
これにより、
「これで勝ち目はなくなった」
と、ほとんどの武将は思ったことだろう。
それだけ、城における、
「濠の存在」
というのは大きなものだった。
お濠というものがどれだけ大きなものか、濠を埋められると、完全に、
「裸城」
ということになるのだ。
そうなると、豊臣方の負けは決定したようなものだった。
真田信繁などは、決死の突入を刊行し、結果討ち死にをするのだが、他の猛者も同じで、討ち死にして果てたのだ。
淀君と秀頼も、自害し、豊臣家は滅んでしまった。
それが、大阪の陣の結末であり、これで、戦国から続く、
「戦の世」
というものが終わったということであった。
実に、1615年のことであった。
その年から、家康は、
「元和堰武」
といって、元号を、
「元和」
改め、
「平和の元」
と言いたいのだろう。
そして、
「武具を棺にしまい、蔵に収める」
ということでの、
「これで戦のない時代が来たことで、戦のための兵器はいらない」
ということを、世間に示したのであった。
そして、その時に一緒に発令されたものが、
「一国一城令」
というものであった。
要するに、
「藩として成立しているその場所で、城は一つしか持ってはいけない」
というものであった。
城を持つことは、
「謀反の心あり」
と幕府に思われるからであり、特に幕府に申し出なしに勝手に城を改修したりなどすれば、改易といわれる、
「御家取り潰し」
という沙汰が待っているのだ。
そこでは、大大名であっても関係ない。
「福島正則」
「加藤清正」
などという大名だけでなく、家康の参謀として三河時代から、そばに置かれていた、本多正信の嫡男である、正純も、改易にするという徹底ぶりであった。
さすがに、本多正純が改易された時点で、他の大名は震えあがった。
「あの正純殿が」
ということであった。
本多正純というと、それだけの存在であり、まるで、
「身内まで改易にする」
と言わんばかりだった。
その証拠に、その後、家光の時代になると、家光は弟の駿河大納言と呼ばれた忠長まで改易にしたのだった。
「本当に肉親であっても、容赦しない」
というのを示していたのだった。
その後、城は、
「藩主の象徴」
と言われるようになった。
それこそ、殿様の住居として、戦乱というものもほとんどなく、幕末を迎えることになる。
まあ、途中にあったとすれば、
「島原の乱」
くらいであっただろうか。
そして、幕府がアメリカからの黒船の脅威に屈する形で、不平等条約を結ばされたせいで、幕末を迎えることになり、最終的には、
「鳥羽伏見の戦い」
から始まる、新政府軍との戦いにおいて、江戸城の無血開城を経て、途中、会津の戦いにおいても、鶴ヶ城にて、白虎隊の悲劇などもあって、鶴ヶ城が落城すると、函館戦争へと進み、五稜郭にて、旧幕府軍が降伏すると、戊辰戦争尾終結し、明治という時代に入ることになる。
明治政府は、いろいろなお触れを出す中で、お城に対して、基本的に、
「廃城令」
というものを発令した。
つまり、
「近代的な戦争に、城は必要ない」
ということになるのだろうが、実際には、
「西南戦争において、政府軍である熊本鎮台では、西郷隆盛率いる薩摩軍の猛攻を、一か月近く持ち答えた」
という話も伝わっていて、必ずしも廃城令を必要とするものではなかった。
だが、中に残ることになった場所も、いずれ発足する、軍にその土地を徴用されるということで、城内部に、軍隊の司令部が置かれることで、廃城を免れるということもあったようだ。
しかし、
「コンビニの数よりも多い」
と言われて、日本の城が、跡形もなくなくなってしまったのも事実であり、遺構として、石垣の一部や、天守台などがあるくらいで、ほとんどが姿を消した。
中には、岡山県高梁市にある、
「天空の城」
と言われる
「備中松山城」
のように、庶民が、
「すてに取り壊した」
というウソをついて、新政府の目をごまかしたとされるところもあったのだ。
そして、ほとんど全国でも現存する城というものが、ほぼなくなったところに追い打ちをかけたのが、あの
「大東亜戦争」
であった。
米軍による、カーチスルメイという男の発案による、日本本土への、
「無差別爆撃」
が原因であった。
普通なら、
「軍需工場や、軍の施設に対してのピンポイント爆撃」
というのが、常識だったのだが、日本軍、さらには、民間人による徹底抗戦や、対空砲火などによって、
「ピンポイント爆撃では、成果のわりに、米軍が被る被害の方がはるかに大きい」
ということで、米軍は、
「自軍の被害を何とか最小限にとどめ、さらに、戦争を速やかに終わらせる」
ということを言い訳にして、日本本土への無差別爆撃を行ったのだ。
その際に用いられた兵器が、
「日本家屋を、焼き尽くす」
ということを目的に作られた、特殊焼夷弾、いわゆる、
「ナパーム爆弾」
というものだった。
ナパームというものは、普通の火薬と違って、一度火がついてしまうと、水で消すことはできない。
だから、日本で空襲訓練として行われていた、
「バケツリレー」
というものも、実際にはムダなものだったといってもいいだろう。
そして、その成果をもっとも、顕著に表したのが、昭和20年3月10日未明からの、
「東京大急襲」
であった。
東京大空襲というのは、下町を焼き尽くすというもので、その周りに隅田川があった。
隅田川内部からと、外部からの二面作戦で、逃げる人々を、隅田川に追い込むようにして、橋の上の、追い込むことにした。
人々は、急いで川に飛び込んで、火から逃れようとしたという。しかし、ナパームの威力は、水では消えないのだ。
水の上を火が走るようにして、消えずに燃えているのだ。
川に飛び込んだ人は、顔を沈めたままだと窒息するので顔を挙げると、火が、水の上を走るように迫ってくる。
「窒息するか、火に巻き込まれるか」
という二者択一で、
「死を待つしかなかった」
という結末が、東京大空襲だったのだ。
一晩で、10万人近い人がなくなったというのは、本当に悲惨なことだった。広島に投下された原爆でのその日の被害者は、死者七万だったということを考えても、東京空襲がとういうものだったのかというのは、想像を絶するものがあるだろう。
確かに、原爆という核兵器は許せるものではないが、各都市を襲ったカーチスルメイによる無差別爆撃というのは、
「人を人とは思わない」
という点においても、その罪の深さは、人類の歴史が続いていく中で、決して許されることではないといえるのだった。
無差別爆撃というのだから、当然、容赦などというものはない。積んできた爆弾を、B29は、ただ、落とすだけだったのだ。
だから、日本全土が爆撃対象で、
「城などの文化財が守られる」
などということがあるわけもなく、歴史的な象徴ともいうべき城郭も、完全に破壊されたものが多かった。
名古屋城などもその一つで、空爆で焼失したのだ。
さらに、広島城などは、爆心地から、少ししか離れていないということもあって、完全に焼失してしまった。
元々、米軍が広島をターゲットにした理由は、
「原爆の効果を確かめるのにちょうどいい」
「それまで、ほとんど空襲もなく、無傷状態であった」
というのも、その理由であった。
特に後者のせいで、
「広島市は空襲がない」
と言われ、広島に租界してくる人もいたくらいだった。
ただ、それは、原爆の効果を研究するということでの事後にむけての理由だったのだが、もう一つ大きな理由があった。
これは、政治的な思惑と言ってもいいもので、その理由というのが、
「日本において、最初の大本営が築かれた」
というものだった。
それは日本においての最初の対外戦争である、
「日清戦争」
を始めるにあたって、軍部の幕府ともいえる、総司令部を、その立地として、広島が選ばれたのだ。
軍部における最高司令官は天皇なので、この時だけは、首都機能を、広島に移し、
「仮の首都」
として置かれた場所であり、天皇も広島において、戦争を指揮したと言われる。
その天皇というのは、明治天皇で、明治天皇は、その力を広島にて起こすことになったのだ。
米軍はそれを分かっていて、日本人にとっての神的存在である天皇が大本営を最初に作った広島城内の破壊が目的だったのだともいえる。
かくして、広島は一瞬にして、破壊され、当然のごとく広島城は跡形もなかったに違いない。
結局、城はほぼ壊滅状態となった。
戦争を経て、日本は敗戦国となり、
「焦土からの復活」
ということになったのだが、最初の10年くらいは、街の復興ということで大変な混乱があったのだが、昭和30年代に入り、徐々に経済も持ち直してくると、
「焼失した城の復興」
というのも進められるようになった。
そもそも、江戸時代以前に作られた城が、その後、焼失や廃城令に引っかかることなく、空襲を逃れた城ということで、天守というものに限って言われているものが、
「現存天守」
と呼ばれるもので、その数は、12しかないのだ。
それを、
「現存十二天守」
と呼ばれている。
南から、
「伊予松山城、宇和島城、高知城、丸亀城、松江城、備中松山城、姫路城、彦根城、松本城、丸岡城、犬山城、弘前城」
の12の城であった。
特に空襲を受けながらも焼失を免れた、
「姫路城や伊予松山城」
であったり、前述のように、廃城令の際に、
「取り壊した」
といってウソをつき、現存することになった、
「備中松山城」
などは実に重要な城だといってもいいだろう。
特にこの中で県庁所在地となっている、
「松山、高知、松江」
などが、空襲の戦禍を免れたというのは、ある意味奇跡なのかも知れない。
そんな残った天守であるが、どうも日本人は前述のように、城というと、
「天守があるものだ」
という認識であったり、
「どこが現存で、どこが建て直した城なのか?」
ということも分かっていないということが、問題となるのだった。
ほとんどの人が、
「生活に関係ない」
ということで、興味のないことなのかも知れないが、
「せっかく日本にいて、城郭という他国に類を見ない、日本固有の文化があるのだから、もっと知っていてもいいのではないか?」
と、初代マスターは言っていたのだ。
とはいえ、どうしても、目を引くのが天守であり、
「天守の絢爛豪華さでなければ絵にはならない」
そして、店に飾る写真として、
「石垣や、濠の後などの、雑木林などを撮影した写真を載せても、それが目を引くとは思えない」
ということで、少しでも、城に囲まれていたいという思いからも、店内に、天守の写真を飾っていたのだった。
「天守の屋上みたいでいいだろう?」
とマスターは言っていたが、確かに、昔家族に連れていかれて、あまり興味がない状態で登った城の天守の最上階に、似たような写真が飾ってあったということだけは記憶にあったのだった。
確かに、客の中には、城の写真を見上げて、じっと見つめるような客もいたが、そのほとんどは意識をすることもなかった。
しかし、それらの客であっても、
「ここから、城の写真を別のものに変えたとすれば、どこか違和感があると思って、その変化に気づく人は、結構いると思うんだ」
ということを、先代マスターは言っていた。
その写真は、結構長くそこにあった。
その写真が変わったのは、二代目店主が、城に興味を持ち、自分で撮ってきた写真と差し替えることになった時であり、かなり後のことだったのだ。
これは、そんな先代マスターがまだ、後継者問題に直面する前のことであり、城廻が趣味だった、ある意味一番平和な時期のことだった。
その頃になると、マスターは店で、自分のオリジナルメニューの開発をしていた。
これは、マスターが、店の存続ということを考えてというよりも、城廻などの趣味ができたことで、自分の中で精神的に余裕ができたのだろう。
そんな時、人間の精神状態というのは、結構きつい時を経験したこともあった思いがあり、
「気持ちに余裕がある時こそ、いろいろ動くことができる」
というのを、無意識にでも感じているのだった。
「気持ちに余裕がない時というもは、何かをするのも恐ろしく、自分の殻に閉じこもってしまい、先に進むことを恐れてしまう」
というものである。
例えば、
「吊り橋のようなところがあり、風が吹いただけで、グラグラ揺れるというようなそんな場所では、高所恐怖症ではない人間であっても、恐ろしいにきまっていると言われるような場所に、高所恐怖症を自認している人間が、差し掛かってしまうとどうなるか?」
ということである。
怖いと思いながらも、
「下さえ見なければ、怖くない」
という思いがあったとして、何とか途中まではいけるだろう。
しかし、実際に進んでみると、次第に揺れははげしくなってくる。
「うわっ、これは怖い」
と思って、今まで見ていた目の前にあったと思った橋の終わりである先にある目的地が、いつの間にか、遥か先に見えるのだ。
「だったら、来た道を戻るしかないのか?」
と思って、動くことが困難だと思えるその場所から、何とか後ろ向きになって、今来た方向を見た。
すると、
「あれ? 少ししか進んでいないと思ったのに、あんなに遠くに見える」
というのだ。
さっきまでは、意識することなく進んでいたので、想像以上に先まで来たということなのか、自分でも意識が、いや想像がうまくついていないようだった。
ということは、今、いくのか、戻るのか、どっちがいいのかが分かっていない。
どちらも遠くに見えていて、
「果てしない」
といってもいいようで、その先に見えるはずのものが見えないというのは、平常時であれば、別に問題ないのだが、危機に陥った時、自分がいかに助かるかということが重要になっている時には分かるものではなかった。
それでも、どちらかを選ばなければならない。
普通に冷静に考えれば、
「戻るのが賢明だ」
と思うだろう。
なぜなら、この先、奥まで行って、今までいた世界に戻るのに、またこの橋を渡らなければいけないということであれば、
「それは、本末転倒なことである」
と言えるのではないだろうか。
そう思っていると、先まで行って戻ってくるだけの勇気は、二度と持てない気がする。それこそ、自殺を試みて失敗した人が、
「死ぬ勇気など、何度も持てるものではない」
という重たい言葉のようではないだろうか。
とにかく、
「死にたくない」
という思いが最優先の危機的状況において、何をおいても、冷静にならなければいけないのだが、パニックに陥ると、フレーム問題が解決できなくなるというものだった。
このフレーム問題というのはどういうことなのだろうか?
それは、一般的に言われているのは、工学の分野での問題であり、限定することができるのだとすると、
「ロボット工学」
ということになるのであった。
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