ここから始まる

 フィセラは拠点の外へ踏み出た瞬間、何らかの境界をくぐったような感覚があった。

 だがすぐに、そんな感覚を忘れるほどの新たな感覚がフィセラの体にのしかかる。


 風が髪の毛をなでるむずがゆさ。

 呼吸をするたびに喉が感じる夜の空気の冷たさ。

 心臓が脈打つ音。

 服の素材や装飾の重み。

 足の指先で掴めるほどの土の柔らかさ。


 ずっと違和感はあった。

 何年もやってきたゲームだ。おかしいことくらいすぐに気づく。

 でも、それが何を意味するのか気づける人間などいるはずがない。

 いや、こんなゲームをやっているのだから、もしかしたら、こんな考えにたどり着く人間もいるかもしれない。


 願いが届いた。

 Unfulfilled wish。届かぬ願い。

 その名前こそが願いの強さを表している。


 だがフィセラは違う。彼女は一介のゲームユーザーに過ぎない。

 「フィセラ」とは、ただのゲームのキャラであり、アンフル内でのアバターに過ぎない。

 そのはずなのに、いまや頭の先から爪の先まで髪の一本に至るまで、すべてが「私」だということを訴えてくる。

 ――なにこれ?なんか変だよ。こんなの……。

「こんなの……まるで」

 疑問が尽きないが、その続きの答えを口に出すのは簡単だった。

「現実みたいだ」


 ファンタジーの世界へ。

 それこそ、アンフルがユーザーへ届ける唯一のメッセージ。

 だが決して、これはアンフルからの贈り物などではなかった。


「これマジ?リアル?やばいってこれ!ホントに……こ……れ」

 ゲームアバターで森林エリア探索。

 そんなゲーム的な状況ではないことに、フィセラはすぐに気づいた。


 フィセラという名前の「私」が暗く、寒く、恐ろしい森に一人で立っていることに。


 急に視界が暗くなり肌を突く寒さは極寒へと変わる。

 実際には彼女の周囲で変化は何も起きていない。だが未知の世界を恐れる心が、夜をさらに暗くさせた。


 フィセラは自分の肩を抱いて震えを抑える。

「いやだ。こんなところに一人でいたくない」

 消えいりそうな声が心の内から漏れる。


 そこで先ほど見つけた集落を思い出した。

 今のフィセラにはうっすらとしか光が見えないが、方角が分かれば十分だ。

「誰かいればそれでいい。人がいるなら」

 ――というか人間がいるかもわかんない。気持ち悪い化け物がいるかも。……でも、一人よりはマシ。多分、化け物でも人型ならぎりぎり大丈夫。

 恐怖からか悪い想像が膨らんでしまう。


 フィセラは涙がこぼれそうになるのをこらえて、前を向く。

「方角を覚えて下に降りよう。真っ暗だけど、行くしかない!」

 フィセラはとにかく山を下りることを決めた。

 すぐに足を動かして山を下っていく。

 現実の「私」ならできないような動きを軽々行って山を猛スピードで駆けていく。

 「フィセラ」にはこれが普通なのだろう。


 山を少し降りたところで、思い出したかのように後ろを振り返った。

 そこにあるのは、ゲナの決戦砦。

 ここからでもかろうじて城門の一部が見える。


 砦は第2の家だった。

 もしかしたら現実の家よりも長く過ごしていたかもしれない。

 フィセラは砦に戻ることも考えるが、頭を振って気持ちを切り替える。

 砦を鮮やかに彩っていたギルドメンバーはもういない。

 残されたNPCを思うが、正直、戻りたいと思わせるものではない。

 人形に囲まれたところで虚しさが増すだけだろう。


 この山はかなり大きいようだ。遠く離れてもまた見つけられるはずだ。

 この山さえ覚えておけば、砦には戻れる。

「……すぐ戻るよ」

 つい先ほどNPCに発した言葉を繰り返すが、この時の顔は悲壮に満ちていた。

 その言葉を残して、さらにスピードを上げて山を下りていく。

 いくらか山を下りると霧が視界をふさぐが、フィセラの足を止めるほどではない。


 体を動かして少しは心が落ち着いてきた。

「転生?生まれ変わり?ゲームのキャラになったけど、転生っていうのかな。転移とかの方が意味合ってる?」

 それでも、独り言が止まらないのは少しでも恐怖を紛らわせるためなのかもしれない。

「異世界ってことだよね。地球だとうれしいけど、そんな訳ないか。こんな大きい森はないはず……知らないけど」

 人を寄せ付けない大森林。

 その奥にある大山を囲むようにして生息する、毒性の植物とそれらが発する毒の霧に気づくことなく、彼女は走り続けていた。


 大山の中に突如出現した砦。

 その中でフィセラ同様に肉体に意思を宿し始めるNPC。

 山のはるか上空を飛ぶ白銀の鱗を持つ大竜。

 動き出した事態に気づくことなく、フィセラはただ一人で未知なる世界に飛び出していった。


 彼女が砦を出た選択は世界を変えるものでなければ、大いなる分岐点でもない。

 震える手を握りしめ走る少女の小さな過ちに過ぎない。

 この選択によって変わる未来など、せいぜい王国1つの運命程度であった。


 

 遥か北方より南下してきた白銀竜は悠々と夜空を飛んでいた。

 この竜が、この辺りに帰って来たのは久しぶりである。

 いくつもある寝床を転々としながら各地を飛び回る竜生を送り、300年と少しぶりにこの寝床へと帰って来た。


 ちょうど、その寝床である山が近づいたときに白銀竜は何かを感知した。

 魔獣ではない。人間でもない。

 強大な何かが山を「変えた」。

 視覚によるものではなく、もっと深くにある感覚が告げていた。

 もはやあれは山ではない。山の形をした何かだ。

 ――感じたことのない感覚だ。何がある?何をした?


 山の真上を何度か旋回したが、新たに分かることはない。

 竜はしびれを切らして降下する。

 ――この俺が、恐れを抱く必要はない。恐怖とは俺のことだ!


 森を割ろうかというほどの咆哮を上げながら、竜が山へと降り立った。


 常人であれば、姿を見ただけで気を失ってしまうだろう。

 それほどのオーラをまとう竜が言葉を発する。

 もはや確実な強制力を持って放たれる竜の言葉に抵抗できるものはこの世界にはいない。

「出てこい!」

 雲の切れ間から差す月明りが竜の銀の鱗に反射して幻想的な景色を作り出すが、それを見ようとするなら命を懸けなくてはいけないだろう。

 怒れる竜は殺意を持って言葉を続ける。

「この俺が、喰らってやる!」

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