第三十二話 変化と強さ
◇
朝日が昇り始める中、俺は昨日登った木の前に立っていた。腹には新しい包帯が巻かれ、両手には手袋を装着している。手袋越しでも、指先の擦り傷の痛みが伝わってくるが、俺は木を見上げ、大きく息を吸った。
「……よし」
そう呟くと、枝に向かって手を伸ばした。しかし、力が足りずに掴み損ね、そのまま尻餅をついてしまう。
「痛っ……!」
苛立ちと情けなさが胸に湧き上がるが、俺は諦めずに再び枝を掴み、今度は更に大きく飛び上がった。枝の上に膝を乗せることに成功し、荒い息を整えながら、次の枝を目指す。
「よし……昨日よりだいぶマシに……」
「良い感じじゃん!」
「どわぁ!?」
その時、目の前にリウの逆さ顔が現れ、俺は驚いてひっくり返ってしまった。驚きのあまり手を滑らせ、体が宙を舞った。咄嗟に足で枝を掴み、なんとか体勢を戻したが、心臓が早鐘のように鳴っていた。
「馬鹿野郎! 死ぬところだったぞ!」
「ならまだまだってことだね」
リウの軽口に拳を振り上げそうになったが、深く息を吐いて思いとどまった。
「おやおや? やっぱりか弱き乙女には手を出せない?」
「……お前に使う拳がもったいないんだよ」
俺が地面に飛び降りると、リウも後を追って軽やかに着地した。
「ごめんって、お詫びにこれあげるから」
そう言って、リウはバンダナを二つ差し出してきた。
「何だこれ?」
「いいから付けてみてよ」
言われるがままに両手に巻いてみると、突然腕が重くなり、勝手に下がってしまった。
「重っ!?」
「この錘があれば、特訓の成果も早く出るんじゃない? 体の安全を考えてこれ以上は渡せないけど」
俺は腕を無理矢理持ち上げて、リウに視線を向けた。
「確かに……明日筋肉痛で死ぬと思うけど……」
「だから良いじゃない。私の発明と、レイの指導が合わされば怖いもの無しだよ!」
「……だったら良いけどな……」
俺は小さく息を吐き、皮肉交じりに呟いた。
◇
レイとリウが小屋の改築を行っている間、俺は再び木登りに挑んだ。リウが持ってきた錘を装着したまま行ってみるが、腕や手首にかかる負荷が予想以上に重かった。
「くそっ……錘を追加しただけでここまで……」
何度も失敗し、木に手をついて休んでしまう。しかし、後方を振り返ると、同じように改築に苦戦しているレイの姿があった。彼女は汗まみれになりながらも懸命に作業を続けていた。
「……やるしかないよな……!」
俺は拳を握り直し、もう一度木の枝を掴んだ。
◇
昼が過ぎ日が少し傾き始めた頃、レイとリウは木陰にもたれて休憩していた。しかし俺だけは止まらず、必死に木登りを続けた。腕は痺れ、指先の感覚も薄れてきていた。
「はぁ……はぁ……もう少し……」
そして遂に、錘を付けたままで木の頂上に到達した。手が震え、全身から汗が噴き出しているが、不思議と胸に湧き上がる達成感があった。
下を向くと、レイが小さく親指を立てているのが見えた。それに応え、俺も親指を立てた。
◇
昼食後のトレーニングは、さらに苛烈を極めた。木の枝にぶら下がり、逆上がりを連続で行う訓練。簡単そうに見えるが、体力も筋力も削られる過酷な運動だ。しかも、両手首にはさっきの錘がつけられている。身体を持ち上げるたびに、手首が引き裂かれるような激痛が全身を駆け巡った。
「地面に足を着けないで連続で行って下さい。最初は十回を目標で」
「じゅ、十回……!?」
レイの冷静な声が飛ぶ。後ろを振り返ると、彼女は真剣な眼差しで俺を見つめていた。その瞳はどこか教師のような厳しさを宿していて、思わず気持ちを奮い立たせられる。
「……やってやるよ」
枝を強く握りしめて逆上がりを始めた。しかし、数回目にして腕に痺れが走り、握力が限界を迎えてしまう。滑るように手が離れ、俺の身体は地面に叩きつけられた。
「くっ、くそっ……!」
倒れ込んだまま拳を強く握りしめる。手のひらには無数の擦り傷ができ、そこから薄く血が滲んでいた。痛みと悔しさが胸の奥で入り混じり、俺は木の枝を睨み付けた。
(まだ、終われるかよ……)
俺は傷口を服の裾で拭い、再び立ち上がった。レイの視線が気になったわけじゃない。ただ、俺自身がこのまま引き下がることを許せなかった。
「……その意気です」
静かにそう呟いたレイの声は、どこか柔らかく、確かな期待が込められていた。それは、ほんの少しだけ俺の背中を押してくれた。
◇
翌日は木刀を使った基礎的な剣術の訓練だった。構え、防御、距離の取り方、攻撃のタイミング。全てを繰り返し学んだ。最初はレイの動きを真似しながら木刀を振るうだけだったが、次第に本気の打ち合いにまで発展した。
「おらぁ!」
レイに向かって本気で突っ込むも、レイは一瞬の隙も見せず俺の腕を取り、あっさりと地面に投げ飛ばした。何度挑戦しても同じ結果に終わる。それでも、どうしても彼女に向けて木刀を振り下ろす際に迷いが生じてしまっていた。
「レヴァンさん、相手はデストロイヤーです。決して攻撃を躊躇しないで下さい」
「……分かっている」
木刀を杖代わりにして体を起こし、再び構えを取った。もし相手が仮面の男やデストロイヤーが相手だったら、この迷い一つで俺は死んでいる。生き残るためには、覚悟を決めるしか無かった。
しかし、それ以降何度挑んでも、俺は一発もレイに有効な攻撃を当てられなかった。特訓が終わる頃には全身がボロボロになり、体力も底をついていた。
「はぁ……はぁ……」
息が切れ、全身から汗が滴り落ちる。傷口からはまだ鈍い痛みが広がり、身体中が悲鳴を上げている。俺は地面に倒れたまま空を見つめ、静かに呼吸を繰り返していた。
「大丈夫ですか?」
そんな中、レイは膝をついて俺の傍に座り、慎重に傷口を消毒し始めてくれた。その手つきは丁寧で、けれどどこか心配げだった。更に、俺の心にはぽっかりと穴が空いていた。これだけ体を動かしても、強くなったという実感が一切湧かないのだ。
「レイ、正直に教えてくれ……俺の成長は遅いと思うか……?」
言葉が出ると同時に、胸の奥がじんと痛んだ。聞くまでもないことを知っている自分への怒り、そして、この問いを投げかけずにはいられない弱さ。少しずつ心に虚しさが湧き始めていた。
「……」
レイは手を止めた。彼女の沈黙は何よりも雄弁で、俺の心に小さな棘のように刺さり、俺はため息を吐いた。
「だよな……。俺もまさか、自分の体がここまで脆いものだと思ってなかった……」
俺がそう呟いた時、レイは顔を上げた。
「……確かに、成長は遅いかもしれません。ですが、進む速度は人それぞれです。誰かと比べて自分を責める必要なんてありません。重要なのは……歩みを止めないことです」
彼女の声は穏やかで、それでいて芯が強かった。俺はその言葉を噛み締めながら、少しだけ気持ちが軽くなるのを感じた。
「成果は、いつもすぐに目に見えるものではありません。けど、今ここで耐えたことが、きっと未来の自分を助けます。だから、私も続けてきたんです」
彼女の言葉には重みがあった。それが経験から来るものであることは、彼女の声の奥にある微かな震えから感じ取れた。
「それに、あなたは必死に戦ったんです。それだけでもう十分なんです。何事にも必死に食らい付き、意地を見せた自分を、誇りに思って下さい」
「レイ……」
俺は震える両手を見つめた。傷だらけで、血が流れた痕もあった。しかし、これは俺が諦めずに戦った証でもあった。
(意地を見せた自分を、誇りに……)
俺はレイの言葉を胸に刻み、もう一度木刀を握り直した。その重さは変わらないはずなのに、少しだけ軽く感じる気がした。
「レイ、もう少しだけ付き合ってくれるか?」
そう呟くと、レイが小さく微笑んだ。
「もちろんです。さあ、続けましょう」
俺たちは再び向き合い、木刀を構えた。レイの動きは相変わらず鋭く、隙が見当たらない。それでも俺は必死に彼女の動きを目で追い、少しでも反撃の糸口を掴もうとした。
「まずは守りを意識して。攻撃を焦らず、相手の隙を見極めることが重要です」
レイの指導は的確だった。俺が失敗するとすぐに修正案を示し、改善の方法を教えてくれる。それでも簡単に実行できるわけではないが、少しずつ動きが変わっていくのを感じた。
結局、この後もレイに攻撃を当てることはできなかった。しかし、終わった後は不思議と達成感に包まれていた。
◇
夕食の時間となり、リウがスープや焼き魚、パンを次々とテーブルに並べた。
「はいどうぞ! 今日はパンもたくさんあるからね!」
「私が買ったものですけどね……あっ、レヴァンさん。しっかり巻かないと駄目ですよ!」
俺は包帯を腕に巻いていたが、どうにも不器用で雑な仕上がりになっていた。それをレイに指摘され、気付けば代わりに巻き直されていた。
「悪い……でもお前が言った通り、幼い頃の感覚は取り戻せている気がする。このまま続ければ……」
「……レヴァンさん、明日は特訓を休んで下さい」
「えっ?」
突然の言葉に思わず声を上げた。頬に浮かんだ汗を拭いながら、レイは真剣な目で俺を見つめる。
「乱暴に体を動かすだけでは意味がありません。身体の疲労を溜め過ぎれば、かえって逆効果です。時にはしっかりと休むことも大切ですよ」
「そんな……せっかく成果を感じ始めたのに……。このタイミングで休むなんて、もったいないぞ。」
俺は机に拳を軽く打ち付けるようにして言った。心の中では焦りが渦巻いていた。ようやく手ごたえを感じ始めたところだというのに、休むべきだと言われるのは正直納得しにくかった。
「レヴァンさん。焦りは禁物です。それに、体を壊してしまったら、仮面の男に挑むどころか、日常を乗り越えることも難しくなりますよ。」
レイの言葉は冷静で、どこか優しさも含まれていた。それでも、俺の胸の中で燻る不安が完全に消えることはなかった。
(……間に合うのか、本当に……)
俺は無意識に拳を握り締めていた。再会が近付く仮面の男との戦い。その日が刻々と迫っているのを肌で感じながらも、自分の成長がその時までに十分だと言えるかは分からなかった。
「……分かったよ。明日は休む。」
渋々ながらも、俺はそう答えるしかなかった。レイの言うことが正しいのは分かる。けれど、それでも焦りの炎が完全に消えることはなかった。
夕日の光が小屋の中に差し込む中、俺は拳を握り締めた。果たして、俺が求めていた未来は、訪れてくれるのだろうか……。
現在使えるルインクリスタル 一個(エタニティ)
現在使えるネオクリスタル 二個(アクアマリン・ガーネット)
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