第5話
久しぶりに父親が家で夕食を食べると言うので、家族全員でテーブルを囲んだ。浩詩が一番最後に席へ着き、父親は浩詩が座ると同時にカトラリーを両手に持った。それが合図になって、子どもたちは手を合わせる。
「いただきます」
静かに食事が始まった。看護師資格を持っている手伝いの佐田が、父親にお酒どうしますかと訊いた。
「浩詩、弘人、一緒に飲まないか」
手を止めて二人に問う。
「いいけど」
「俺はまだ描きたいからいい」
「相変わらず迎合することを知らないな。まぁそれがお前の個性だ。弘人は何でもいいか」
「うん」
シャンパンを頼み、空中にグラスを掲げて小さく乾杯すると、桐子が口を開いた。
「お父さん、ご機嫌ね。何かあったの?」
「ああ。弘人の結婚が決まりそうだ」
「え?」
桐子と弘人が同時に父親を見る。
「ど、どういう事ですか、父さん」
動揺を隠せず弘人は訊いた。
「松山商事の社長さんが展示会に来られてな。浩詩の絵を褒めてくれていたんだ。話が盛り上がってな。松山さんには二人御子さんがおられて、長男さんは今専務を務めておられる。奥さんももらってお孫さんも一昨年に生まれて、仕事に励んでおられるそうだ。心配なのは娘の美久さんだそうでな。いつまで経っても結婚せずに海外をふらついているらしい。そろそろ見合い話が欲しいと言っておられて、弘人にどうかと思ったんだ」
弘人は何か言いたげに、口を動かしていたが言葉は何も出てこなかった。
「娘さんは語学が堪能で活発な方だ。写真を見せてもらったが、美人だぞ。K大を卒業されて頭もいい。今はイタリアへ旅行に行ってるそうだ。お前の二つ上だが、申し分ない。帰って来られたら見合いをしなさい」
「でも、俺まだ大学生だし就職も……」
「松山商事の社長令嬢と見合いをするんだから、松山商事に就職が決まったようなものだ。内定をもらった会社は断りなさい。美久さんに嫌われて破断になったら、うちの会社に入ればいい」
「で、でも」
「なんだ、恋人でもいるのか」
「いません」
「じゃぁ好きな人がいるのか」
「……」
溜息を吐いて父親はグラスのシャンパンを飲み干した。佐田がすぐにグラスに新しいシャンパンを注ぐ。
「好きな人がいたって構わない。見合いは進める。きっと美久さんに会えば気に入る」
「べ、別に好きな人なんていません。ただ、あまりにも急な話で」
「内定をもらった会社も松山商事に比べたら大したことない会社だろう。美大卒の就職口なんて寂しいもんだ。浩詩の時に思い知ったよ。本当のアートに携われる仕事なんてほんの一握りで、広告業界とかイラストデザインを扱う会社しかなかった。年がだいぶ違うから、また事情は違うだろうが、お前はまだ展示会の運営を任せられるほど経験を積んでいる訳でもないし、若い時にこの家で時間を潰していても仕方がない。松山商事の娘さんと結婚すれば、我が社のスポンサーにもずっと困らないし、お前は美人の奥さんと、安定した職が手に入る。こんな機会はめったにないぞ」
「でも」
沈黙が食卓に広がる中、それまで黙って聞いていた浩詩がボソッと言った。
「いいじゃないか、結婚すれば」
弘人はぎろりと浩詩を睨んだ。
「松山商事なら、財力も申し分ない。お前は県のコンクールで賞ももらっている。確かあれ松山商事協賛だったろう。お前の事も調べるだろうし、コンクール取るほど上手ならって、描かせてもらえる環境になる。それこそ個展だって支援してもらえるんじゃないか。絵を描く環境を持ったまま就職できるなんて最高じゃないか。お前には一度も彼女がいたことがないから荷が重いかもしれないが、すぐに慣れる。こんなにいい話はないぞ」
「浩詩もそう思うだろ」
「お父さん、浩詩兄さん、待って。弘人兄さんの気持ちも考えてあげて」
見かねて桐子が抗議した。弘人は今まで一度も父親に逆らった事がない。言われたことはいつも素直に従ってきた。父親の指示にこれほどまでに狼狽えるのは初めての事だ。
「弘人兄さんに恋人がいてもいなくても、こんな急に結婚を推し進めるのは乱暴だわ。結婚したらずっと一緒なのよ。そんな大事な事、勝手に決められたら、ショックだわ」
普段から余り優しくして来なかった妹に庇われて弘人は恥ずかしくなった。
「だがな、桐子、私は丸沢家の存続を考えなければならない身だ。浩詩は絵の世界で成功している。ここまで有名になった浩詩に絵を辞めて会社を継げとはいえない。お前は体が弱いから、跡継ぎも望めるか分からない。浩詩の息子に継いでもらうにしても、弘人が松山商事の中で力を持っていれば、助けてもらえるんだ。安心だろう?」
松山商事との政略結婚は、単に丸沢家の繁栄のため。その繁栄に、弘人を手伝わせる。正妻の息子に会社を継がせるため、愛人との子どもである弘人の人生を、丸沢家のために使うのだ。父親の言葉は湾曲して、弘人にはそう聞こえた。
「弘人兄さんは絵を描きたいのよ。だから美大に行ったの。就職はお父さんの言う通り広告業界だけど、その中でも大手の方よ。就職活動だって簡単じゃなかったって聞いてる。知りもしない方との政略結婚のために、それまでの弘人兄さんの努力をふいにするなんて、酷すぎるわ! 弘人兄さんの人生をお父さんがめちゃくちゃにしていいはずない! お父さんは勝手だわ! 勝手に何でも決めて!」
興奮したせいで桐子の息が上がっていた。父親が慌てる。
「桐子、落ち着きなさい。興奮しては駄目だ。心臓に悪いだろう。分かった。弘人の件はもう少し考えるから。佐田さん!」
「はい。桐子さん。腕を」
佐田は桐子の脈を測り、桐子の背中を撫でた。心電も図れる血圧計を取り出して、腕に巻く。空気を送るポンプの音が響くダイニングで、皆桐子の様子を心配しながら見ていた。計測音が出て、佐田が結果を確認して報告する。
「少し高いですが、大丈夫です。でもこれ以上は。桐子さん、お食事は後になさって、お部屋に行きましょうか」
ゆっくりと手を引き、桐子は佐田に支えられながら席を立った。
「お父さん、弘人兄さんの事、本当にちゃんと考えてください」
「分かった。お前は安静にしていなさい」
桐子の背中をじっと見送り、父親は深い溜息を吐いた。
「もう一度手術ができればいいんだが……」
心臓の手術は既に二回行ったが完治していない。今はできるだけ負担を掛けないように過ごすほか対処法がなく、いつ爆発するか分からない爆弾を抱えているかのような不安がつき纏う。
「軽率だった。すまない」
謝罪なんて滅多にしない父親に弘人は驚き、うん、とだけ返事した。
その後の三人の会話は、ほとんど浩詩の次の個展の話になって、一通り食べると浩詩は席を立った。
「アトリエに戻る。弘人、お前にどれだけの覚悟があるんだ。本気だったら見せて見ろ」
浩詩は捨て台詞を残して、ダイニングを出て行った。テーブルの下で、弘人はぎゅっとナプキンを握りしめた。
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