第6話
「あら、素敵な絵。とっても上手だわ」
優しい声が頭上から聞こえた。
「じょうず?」
「そう、上手」
見上げて訊くと、にこりと笑ったお母さんの髪がフワフワと揺れた。光を受けた髪は柔らかいオレンジ色に透ける。空気が優しくて、描いていた絵を褒められたのも嬉しすぎて、体が軽くなった。自然と言葉が漏れる。
「これ、おかあさん」
「おかあさん?」
「うん。もう一人の」
真っ黒で真っすぐな髪の毛は、最初のお母さんの髪の色。口はいつもへの字で、口癖は「ダメ」。いつも大きな声で誰かと話してて、ずっとケイタイばかり見てた。何かすると悪い子って言われて、すぐに叩かれて痛かった。そう伝えると、新しいお母さんは悲しそうな顔をした。
「ここでは誰も叩かないからね」
「ほんと?」
「本当よ。だから楽しい事いっぱい見つけようね」
「うん!」
最初にいた男の子の真似をして、絵を描いていると、新しいお母さんは良く笑ってくれた。だから沢山描いた。でも暫くしてからお母さんは部屋に籠りきりになった。
お兄ちゃんと言われた子と仲良くしたいのに、周りの人間がなんだか怖くて、お母さんがいないと不安だった。部屋に行ってみたけど、今はダメだといわれた。ここへ来る前も、「お母さん」に会えない日が続いたあと、引っ越しをした。また連れて行かれるかもしれない。次も楽しい場所だろうか。もしかしてまた元の場所に戻るのだろうか。ここに居たい。温かくて、一日に三回ご飯が食べれて、誰にも叩かれない安心できる場所。
しばらく会えない日が続いた後、新しいお母さんは、小さい赤ちゃんと入れ替えにいなくなった。
淋しくなって、褒められた絵をじっと見ていると、絵の中から黒髪のお母さんが手を伸ばし、ずるりと出てきた。
怖くて絵を破ろうとしたけど、その手を掴まれて、絵の中に引きずり込まれそうになる。そっちに行きたくない。ここがいい。ここが僕の居場所なんだ。
手に持っていた筆で、絵をぐちゃぐちゃに塗りつぶした。黒いおばけは消えて、灰色のキャンバスがポツンと部屋の真ん中に浮いている––––––。
弘人は汗でびっしょりになった首の裏を寝間着の襟で拭い、体を起こした。 嫌な夢。光子が死んでから、暫く続いて、いつの間にか見なくなっていたのに、また始まった。
何か嫌なことがある予兆のように思えて酷く不安になる。部屋の時計を見た。まだ日が昇る前だ。部屋のドアをそっと開けて、アトリエのある西側の廊下をじっと見た。薄い小さな常夜灯が廊下にぽつりぽつりと点けてあるが、光がある分、闇が濃く見えて薄ら怖い。
リビングに行く勇気が出ず、弘人は部屋の鍵を閉め、布団を被って固く目を瞑った。
「顔色が悪いわ、弘人兄さん」
桐子は蒼い顔で起きてきた弘人を見て、佐田を呼んだ。
「佐田さん、弘人兄さんを見てくださる?」
「大袈裟にするな。どこも悪くない」
「でも」
「大丈夫だって言ってるだろう。ただの寝不足だ」
近寄る佐田に手を翳して制止させると、弘人はこめかみを押さえた。少し頭がずきずきする。昨日の夜はいつもより暑かった。寝苦しかったせいで悪夢を見て、寝不足なだけだ。自分に言い聞かせながら弘人はコーヒーを頼んだ。
どこかに行きたい。家の中にいたくない。でもどこへ行けばいいのか分からなかった。気軽に誘える友人はいない。街に出かければ雑踏でもっと疲れるだろう。映画も一人で入るのが億劫だ。ぼうっとコーヒーが反射する光を追いかけていると、桐子が声を掛けた。
「弘人兄さん、今日予定ある?」
休みの日に弘人に予定を訊くなんて珍しい。なんだと弘人が聞き返すと、美術館のチケットがあるから体調が大丈夫なら、一緒に行かないかという。最近流行りのデジタルアートの展示会だ。三枚チケットがあるから、よければ佐田と三人で行かないかと誘われ、逃げ場所を探していたところだったので、渡りに船だと、弘人にしては珍しく承諾して、一緒に美術館に行くことになった。
車は佐田が運転し、道中相変わらず桐子がコロコロとよく喋った。佐田は無口で相槌を打つだけだが、それが二人の日常で、見慣れた光景に弘人はいつも通り黙って車から外を眺めていた。
美術館は駅から離れた郊外にあって、バスか車でなければいけない閑静な場所にある。赤いレンガの外壁が近づくと、人気の展示なのか、普段より外を歩く人が多い気がした。
入り口から最短距離の場所に車を停車させ、桐子と弘人を下ろすと、佐田は車を駐車しに一旦離れた。傘を指した桐子と入り口まで歩く。陽の強さに若干眩暈を覚えそうになったが、美術館の前に設置されたミストが風で流れて来て、ほうと息を吐いた。
桐子が弘人にも影が落ちるようにと、持っている日傘の高さをそっと上げると、弘人は桐子の手から日傘を取った。そして桐子と自分が影に入るよう日傘を指した。
「ありがとう、兄さん」
弘人は返事をしない。レンガ色の階段を昇り、重たいドアを桐子のために開けると、桐子は弘人に再び礼を言い、二人は涼しい館内の受付前で佐田を待った。
人が入れ替わり立ち替わり前を過ぎていく。写真撮影も許可されているアートなので、若い人の数が多かった。外国人の団体もぞろぞろと入っていく。思った以上の人気ぶりだ。
佐田は間もなくしてやってきた。受付に三人分のチケットを渡し、入り口で半券を切り取られる。一人で観て回るから、帰りは気にしないでくれと告げて、弘人は前を進んだ。
完全に遮光された空間は、真っ黒なカーテンでいくつかのゾーンに切り分けられていた。壁に映し出される映像の明かりだけを頼りに人が動く。始めに入ったゾーンは、大きな桜の木が暗闇の中、ぽつりと浮かんでいた。木が芽吹き、花を咲かせ、散り、葉が青々と茂った後は紅葉し、葉を落としてまた芽吹く。延々と続く木の営みが、暗闇の中で投影され、幻想的な音楽がどこからともなく流れて違う世界に来たようだった。壁の前には数列座って見れる椅子が置いてあり、後から来た桐子は空いた一つに腰を掛けた。佐田は椅子を使わず桐子の横の床に座った。
佐田は父が雇ったフリーランスの看護師で、丸沢家に勤めてもう八年になる。桐子は十九歳で、佐田は三十五歳のヤモメ。桐子はもう成人だし、何があってもおかしくはないが、ぎりぎり親子にもなる歳の差だ。桐子は病弱だが、精神が快活で、一緒に居て楽しいだろうし、無口な佐田にはぴったりに思えた。いつも行動を共にし、佐田は桐子に何かあったらすぐ駆けつける。歳の差を気にしなければお似合いだが、そんなことは口にしてはいけない。きっと二人の関係がどうにかなってしまったら、父親は黙っていないだろう。野暮な事を考えるものだ、と自嘲しながら次のゾーンへ移動した。
次の部屋には壁が意図的に多く作られていて、丸や四角のゼリー状の光が無数に壁に映っていた。人の影が動くたびに様々な色のゼリーがフルフルと震えながら影に押しやられて流動していく。手を伸ばせばその手を避けるように広がり、人の影が映らない場所には、万華鏡のようにきらきらと光の粒が集まった。
来ていた子どもたちが声を上げながら、光の塊を散らそうとはしゃいで走っていた。穏やかなBGMに、子どもたちの声が溶けていく。普段なら展示会で叫んだりできない。だがこの空間は、楽しむように作られているのが肌で感じられた。だから誰も子どもたちの声に耳を塞いだりしていなかった。弘人も子どもが苦手だが、なんとも思わない。うるさく思わないのが不思議だった。音楽と映像とはしゃぐ声までが融合して、それが一つの世界になっていた。
ぼんやりと無数の色と形を眺めていると、暗闇にいる事も悪くない気がした。観覧者達も弘人と同じように、世界観に浸って日常を忘れている。頭の中に浮かんでいた不安や恐怖や焦燥の絡まりが、ゆっくりと解けていくような気がした。
少し引きで見てみようと後ろに二歩ほど動くと、人に当たってしまった。
「すいません」
相手の背中に当たったようで、謝ると、その人が振り返り、弘人は驚いて後ずさった。今一番弘人が会いたくない人間がそこにいた。
「天川……」
天川は弘人の顔を見て顔をゆがめた。
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