第3話
浩詩のアトリエを出て中庭を歩く天川を、弘人が呼び止めた。長く伸びた真っすぐな髪はひとつにまとめられ、髪先が歩くたびに馬のしっぽのように揺れる。薄い麻のシャツの下には、何も着ていないようで、汗ばんだ背中の骨が後ろからうっすら見えた。
「天川」
呼ばれて天川は振り返っ た。目が濡れていて、頬がほんのり赤い。今日はそんなに暑くない。上気した顔に知らず嫌悪が走った。
「桐子への土産、毎回ありがとう」
「いいんだ。ただ渡したくて渡してるだけだから」
弘人が口端の形も変えずに礼を伝えると、 天川はどこか心ここにあらずといった感じで、伏し目がちに応えた。何か別のことを考えているのが丸わかりだ。天川は感情を隠さないタイプで、思ったことがすぐに顔に出る。
「毎回この屋敷に来るのは手間だろう。郵送で送ってくれてもいいのに」
「……でも、浩詩さんに話もあったし」
「そんなに重要な話かい」
弘人から訊かれて天川は困惑した。何か気に障るようなことを弘人に言っただろうか。思い返すが、弘人とは世間話以上に言葉を交わしたことがない。だが自分の訪問を迷惑に思っているのが空気でわかった。
「兄はもうすぐ個展を開くんだ。知ってるだろう」
天川はハッとした顔で弘人の言葉に目を泳がせた。ため息を吐きながら、弘人は天川の肩に手を置く。
「時間がないんだ。頻繁に来られて兄も困ってる。だけど兄はそんな事言わない。優しい人だからな。素人のスランプを相談するような、そんなレベルの人じゃないんだ。分かってくれ」
さっきまで赤かった頬がサーッと青くなっていく。弘人は心の中で笑った。天川が来て困るなどと浩詩から聞かされた訳ではない。ただ思い知ればいいと思った。
お前は桐子や丸沢家の手伝いに少しちやほやされたからと言って、手土産一つで出入りを許されるような人間ではない。コンクールで称されたとはいえ、ちゃんとした公の賞さえもらった事のないずぶのド素人で、丸沢浩詩の創作を邪魔するなんて、どれほど厚顔なんだと、大声で言ってやりたかった。だがそんな品のない言い方はしない。自分は丸沢家の人間だという自負がそうさせなかった。
「ごめん」
「分かってくれればいいんだよ。兄は忙しい身だから。創作に差し支えなければ」
「でも……」
「なんだい」
「旅行から戻ったら、必ず顔を出せと言ったのは浩詩さんなんだ」
両耳とこめかみにどくどくと血が上って、目から火が零れてしまいそうだった。顔を引きつらせながら笑顔を作って、弘人は応えた。
「いわれたからって、相手の状況を鑑みるべきだろう。兄はプロの画家だ。個展に間に合うように作業をしてる。新作はあと最低でもニ作品は完成させないとならない。いくらド素人でも兄が忙しい人だっていうのは分かるだろう。そういうの、学習してほしいんだけど」
「分かった。気を付ける」
天川は少し溜息を吐き、じゃあと背中を向けた。明らかに傷ついた顔をした天川の肩越しに、弘人がもう一度声を掛ける。
「あと、手土産、ああいうの桐子嫌いだって言ってた。使えもしない物が増えて困るって。趣味が合わないんじゃないかな。もう少し考えてくれると助かる。君の金ももったいないし、土産なんか買って持ってきてくれなくていいよ」
少しだけ足を止めて天川は振り返ろうか迷っていたが、そのまま何も言わずに門を抜けていった。彼の拳がぎゅっと握られたのを見て、弘人はほくそ笑んだ。
*
丸沢家を訪れた後はいつも疲れる。今日は特に酷かった。浩詩との時間は貴重だが、同じ分だけ自分の不甲斐なさを顔面に叩きつけられているようでつらいし、弘人の厭味は訪問の度に強さを増して、ド素人と言われて酷く傷ついたのに、本当の事だけに何も言い返せなかった。自分の中でその悔しさをどこへ置けばいいのか、分からないほど狼狽している。
家に帰って冷蔵庫から手製の緑茶を取り出し、グラスに注いだ。冷たさに薄い硝子が美しく曇るのを見て喉を潤す。二杯飲んだ後、やっと忙しなく動いていた心臓は落ち着きを取り戻した。携帯を見ると桐子からの不在着信があった。メッセージも入っている。
『累さん、お土産ありがとうございます♪ とても素敵! 累さんからは何をもらっても嬉しいわ。センスがいいんですもの。早速お友達とグラスでジュースを飲みました。口当たりがよくて、普通のジュースが美味しくなったわ。旅行先のお話も聞きたかったから、今度来られたら家の者に声を掛けて、教えてくださいね』
きらきらした明るいメッセージには送った品で友達と乾杯している写真が添付されていた。持参した土産は迷惑ではなかったことに安堵し、桐子のメールに感謝した。同時に弘人になぜそこまで嫌われているのか、分からない。だが浩詩の邪魔をするなと言われた。
「もう丸沢家に行くのは止めよう」
自分に言い聞かせるように天川は呟いた。
浩詩と逢っても、描けない自分の情けなさを顔中に塗られ、壁の絵からは両肩にダンベルを載せられたようなプレッシャーが降りかかってしんどくなる。それでも浩詩から素を見せれるのは累だけだと言われると、甘い蜜の誘惑に抗えない夏の虫のようにふらふらと吸い寄せられてしまう。
どうしたいのか、自分でも分からない。筆を動かしても、途中で情けなくなって最後まで描けない。思うように指も動かない。今まで表現できていたものが同じように描けない苛立ちは、どこにもぶつけようがなかった。
浩詩が望むように描いて生きていくなんて事もできない。それを実行しようとする資金も、支えてくれる家族も天川にはいない。天川が小さい頃に離婚した母親は、女一人で子育てを頑張ってきた。しかし数年前から腰が痛いと、長年勤めた仕事場を変えた。体は楽になったが、今度は金銭的に厳しくなった。今は自分の生活費を工面するのにあぐねている。誰にも頼れない。そろそろ絵を諦めてもいい頃合いだ。
絵で食べていける訳でもないのだから、真剣に就職の道を考えなければならない。美大に通っている訳でもないが、絵画のコンクールの記事を付けてPRシートを作ったら、作品を見た広報部の担当者にぜひ来てほしいと製造メーカーに内定をもらった。浩詩に絵を続けろと言われていたが、このまま就職してしまおうかとも考えている。働きだしたらきっと描く時間なんてないんだろうな、などと思いながら、描きもしないのに悩んでいる事自体が馬鹿らしくなって自嘲した。
描くことは好きで、でもできなくて、将来への不安と羨望に翻弄され、毎日同じ迷路をグルグルと歩かされているようで疲れる。
シャワーを浴びて汗を流し、風呂場から出てくると今度は浩詩からメッセージが届いていた。
『弘人から何か言われたのか。門前で話しているのを見た』
『あいつのことは気にするな』
『今度いつ来る?』
憧れだった人からのメッセージ。二年前まで飛び跳ねて喜んでいた。何度もメッセージを読み直して、一時間後にやっと指を動かした。
『しばらく行きません』
マナーモードに切り替え、画面を真っ黒にして、部屋のキャンバスに向かった。
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